〔3〕
アパートやマンション、駐車場が多い通りは路面の反射熱で体力が奪われる。
なるべく戸建てや造成地や畑、公園や雑木林の多い道を選んで走った。
夕方になっても、夏の日射しは日中と変わらない。しかし公園の奥や雑木林の中は、次第に夜の影が忍び寄りつつあった。
自宅から三キロほど離れた薄暗い神社で、アカリは休憩を取った。
あまりの熱さに昼間は身を潜めていたミンミンゼミが、一斉に鳴き出す。わんわんと共鳴して一つになった音は、既に蝉の声に聞こえなかった。
ぬるいミネラルウォーターを喉に流し込み、酷使されて緊張している筋肉をストレッチでほぐす。
しゃらん……。
「え?」
どこかで聞いた、金属の触れ合う澄んだ音がした。
音がした方向を見ると、一人の少女が暗さで霞んで見える雑木林に立っていた。
あの子だ、今日学校で変なことを言った女子生徒。
少女は制服姿で、長い棒を手に踊っているように見えた。少女の動きに合わせて、美しい金属音が響く。
しゃらん、しゃらん、しゃらん……
「こんな時間に、こんな所で踊りの練習? やっぱ変な子……」
興味本位で近付いたアカリは、少女が踊っているのではなく誰かと戦っていることに気が付いた。
手にした金属棒で、激しい打突を繰り出す少女。
ひらりひらりと交わしながら、金属棒の隙を突いて少女に覆い被さる巨体の男。
太極拳とか、何とか拳法とか、そういった類の練習だろうか?
よく目を凝らして見ると少女が戦う相手は人とは思えない巨体で、テレビで観たことがあるボディビルダーのように筋肉が盛り上がっていた。
しかも、つるつる艶々ではなく毛むくじゃらで、パンツ一枚だ。
「うへぇ、どんな武芸だか知らないけど、変態っぽい……」
隠れて覗き見は気が引けたが、場には張り詰めた緊張感が漂い目が逸らせなかった。
まるで、命がけの真剣勝負だ。
少女の棒が、巨人の肩を突いた。巨人は獣じみた唸り声を上げ、長い腕を少女目掛け振り下ろす。
「あっ!」
アカリの目の前で、巨人の攻撃を受け損なった少女の身体が跳ね飛ばされた。
太いブナの木に叩き付けられ、口から何かが飛び出す。
たくさんの、血!
「うそ、なにこれ? ただの練習でしょ?」
ずるずると地面に崩れ落ちた少女の頭を、巨人は片手で軽々と持ち上げ頭上で振り回し始めた。
壊れた人形のように、少女の手足がぶらぶらと弧を描く。
首が、引きちぎれそうだ。
「このままじゃ、あの子が死んじゃうよ! そうだ、けっ、携帯っ……けっ警察っ……」
慌ててポーチから携帯を出そうとした時、手からペットボトルが滑り落ちた。
ぱしゃん!
ペットボトルは運悪く、剥き出しの岩に当たって不自然な音を立てた。
巨人の手が止まり、ゆっくりと振り返る。
初めてアカリは、巨人の顔を見た。
赤黒い顔から、丸ごと飛び出した眼球。
口の端は、先の尖った耳まで吊り上がり牙のような歯が剥き出している。
そして、黒く縮れた前髪の合間から突き出していたのは……。
まぎれもない、あれは、ツノだ。
牛の角のように、捻れて黒く光る二本のツノ。
「ひっ!」
悲鳴の代わりに、シャックリのような声が出た。
恐すぎて息が止まりそうだ、大きな声など出るわけがない。
膝が震え、自慢の足も役に立たなかった。
巨人は少女を乱暴に打ち棄て、まさに鬼の形相で突進してくる。
アカリは直感的に悟った。自分も、あの少女と同じように殺される……。
「助けて……誰か……」
ようやく出た声は、蚊の鳴くような小さな声だった。
涙が溢れ、頬を伝って顎に滴り落ちる。
醜悪な巨人の顔が、目と鼻の先まで迫った。
タマゴの腐った匂い、獣の匂い、満員電車の匂い、全部入り混じった塊が襲いかかる。
死を覚悟し、アカリは両目を固く閉じた。
だが恐怖は、アカリの脇を通り過ぎ、地響きと共に地に倒れ込んだ。
一瞬、何が起きたのか理解出来なかった。
そっと目を開け肩越しに恐る恐る振り返ると、巨人の胸に深々と刺さった金属棒が見えた。
先端に付いた幾つもの輪が、揺れて触れあい涼しげな音を立てている。
「おかげで助かったよ、桜井アカリ。恐かったでしょ?」
勝ち誇った顔でニヤニヤ笑いながら、あの少女が巨人を跨いでいた。
身体中が血塗れで、血の付いていない場所は青や赤や黒のアザだらけだ。
「なに……キミ、一体何なの? 死んじゃったと思ったのに……死んじゃったのは、この人なの? 殺しちゃったの? なんで?」
やっとの思いでそれだけ言うと、アカリはしゃくり上げる。
震えが、止まらなかった。
「質問多いな……まずコイツは人じゃなく鬼だ、私が退治した。それから私は死なない、なぜなら既に死んでいるから。最後に、私は奪われた〔五業〕を取り戻すため〔羅卒〕を追っている。今日は〔手業〕を奪った鬼を討ち、両腕を取り戻した」
少女は両腕をクロスさせ、愛おしそうに自分を抱きしめた。
アカリには、少女の言うことがサッパリ解らない。
妄想癖のある、頭が変な子だろうか?
しかし、脇に転がっている死体は……?
「死体が……ない?」
巨人……少女の言う鬼の死体は、跡形もなく消えていた。金属の棒もない。
かわりに細身の青年が、少女に寄り添うように立っていた。
ぴったりとしたジーンズに、黒のランニング。
綺麗な顔立ちなのに、坊主頭が残念だ。
「こんばんは、アカリちゃん。遅くなると、ご両親が心配するから早く帰りなさい。暗い夜道は気を付けて」
青年はアカリに、慈愛に満ちた微笑みを向けた。
「え、でも……」
この二人に、不思議と危険は感じられなかった。
あれほど血腥い戦いをしていたのに、妙に清々しい雰囲気だ。
この雑木林に立ちこめていた禍々しい空気が、全て浄化された気がする。
気分が良くなり、アカリに元気が戻ってきた。
「わっ、ワケわかんない。ボクが鬼に狙われてるって言ったよね? それって今の巨人のこと? じゃあもう、狙われること無いんだ? キミは恩人? それとも鬼退治が趣味?」
「あっははは、どうやらヤツはターゲットを間違えたな。桜井アカリは、なかなか強い心を持っている。それにしても元気だね、また質問攻め?」
声を立て、少女は見下したように笑った。
笑ってる場合じゃないだろう?
アカリの中に怒りが込み上げる。
「あたりまえじゃん、だって、夢みたいだけど夢じゃない事くらい解るよ。狙われた、なんて言われたら、気になるし。ちゃんと説明してくんなきゃ、いま見たこと誰かに話すからねっ!」
「ああ、話せば?」
少女が、真顔に戻った。
「誰に話すつもりさ、桜井アカリ。警察? 家族? 担任の満留? それとも親友の海老塚ユウコ? 誰かが信じてくれるの?」
ユウコの名を出された時、アカリの心臓がどくんと跳ねた。
「だけど、満留には話さない方がいい。気を付けな、満留が鬼だよ? アンタはまだ、狙われている」
「気を付けろって、言われても……」
少女はまた、ニヤニヤと笑った。
「私の名はメイ、宰河原メイ。この男は、オジゾー君。じゃ、またね、桜井アカリ」
メイとオジゾー君が、とても親しげに手を振った。
すると突然つむじ風が巻き起こり、アカリは掌で顔を覆い目を閉じた。
次に目を開けた時、そこには誰もいなかった。




