10(おしまい)
夏頃、クリューが一時帰宅する。
その報せが届いたのは、従業員クリューのエルキュール宝石学校入学式の翌日。諸々のあらましを関係各位から聞いて知っているユキが、趣味の悪いニヤニヤ笑顔で「親切にも」「急いで」教えに来てくれたのだった。
エルキュール宝石学校には、夏季休暇というものがある。
夏場の一時期を長期休業とする制度で、当方に何の恨みがあってそんな制度を作ったのかとスプートニクは学長を取っ捕まえて抗議したい気分になったが、調べてみるとそれはエルキュール宝石学校独自の制度ではなく、だいたいの学校にあった。
制度が存在する理由としては、夏の暑さ対策、保護者への学生生活の報告のための生徒の帰省、施設の老朽化の確認や建て直し期間の確保など、らしい。いずれも納得できない理由ではなかった。納得できたところで、スプートニクの精神が安定するかどうかとはまた別の話だが。
夏が近づき、クリュー本人からも「一度おうちに帰ります」と予告の手紙が一通届き。
そして今日、ついに帰宅予定の日を迎えたスプートニクは、いつも通り店のカウンターの椅子に腰かけて、頭を抱えていた。
「いやでもまさか、入学から半年足らずで長期休暇があると思わないだろ普通……」
「あるんだから仕方ないでしょ。っていうかアンタ、在籍してたんなら知ってるんじゃないの」
「授業があろうがなかろうが好き勝手やってたから、覚えてない」
ため息をつかれた。
いい加減諦めなさいと宥めるのは、日課のパトロールに来たナツである。彼女の言うことはいくら目を逸らしたところで変わらない事実ではあるが、その物言いはひどく他人事のようであって、だからこそ忌々しい。
「私はクリューちゃんに久しぶりに会えて嬉しいけど」と当て付けるように言うが、こちらだって別に嬉しくないとかそういうことは言っていないだろう。ただ、
「だからってあいつも、こんなリアフィアットくんだりまで、わざわざ帰ってこなくてもいいんじゃないか……」
「そりゃ帰りたいでしょう、クリューちゃんとしては」
その言外に含まれた意味をきちんと察して、ますますスプートニクは憂鬱な気分になった。
旅立ち間際に大声で愛の告白をするという、あまりにも大きな爆弾を残していった、従業員クリュー。
彼女の入学したコースの就学期間は四年間。「卒業して帰ってきたら」嫁にしてほしいと言っていたから、爆弾を残すにしても、せめて、せめて四年後、卒業後に成長した姿で再会するのが筋というものだろうに――
「よりにもよって卒業前に帰ってくる奴がいるか……!」
どう接すればいいのやら、気まずいことこの上ない。
夏季休暇の報せを聞いたときからあれこれと悩んでいたが答えは出せず、そのまま当日を迎えてしまった。
もう数時間もせず、クリューが帰ってくるだろう。その前に、顔を合わせる覚悟を決めなければ――いや?
「そうだ!」
「何よ、いきなり大声出して」
「今ものすごい名案が浮かんだ」
「言ってみなさい」
「急ぎの買い付けの用ができて、ちょうど今日ヴィーアルトンに発ったってのはどうだ!?」
「考えうる限り最悪の所業だと思うわ」
ばっさり切り捨てられ、喉から低い音が漏れた。
逃げ場はないことを改めて実感する。やはり覚悟を決めるしかないようだ。
「でも、アンタだって実際、クリューちゃんの帰りは楽しみなんでしょう?」
「どうしてそう思う」
「だって、さっきから何度も窓の外ちらちら見てるし」
「…………」
「私が店に入ってきたときも、驚いたみたいに椅子から立ち上がってたし」
「……クソババァ」
しみじみ思う。腹立たしい女だ、と。
「ま、もうそろそろ帰って来るでしょ。心中お察しするけど、ちゃんと迎えてあげなさいよ」
「余計なお世話だ。どっか行けババァ」
吐き捨て、ふん、とそっぽを向くと、ナツは本当にそのまま出ていってしまった。
店内に一人、残される。
客は来ない。手がけている仕事はない。閑古鳥が鳴いているわけではなく、余計なことを考えたくなくて仕事に没頭していたせいで、案件は三日前にはすべて手元を離れ、今は先方の返事待ちの状態になってしまっているのだ。
手持ち無沙汰になるとあれこれ考えてしまうのは人の常だ。さて、帰ってきたクリューはこの店に入ってきて、まず何を思うだろう。
想像する。入口扉を開けて、ぐるりと半年ぶりの店内を見回して――
棚の上に、うっすら積もる埃が見えた。
「…………」
別に、クリューのためではない。クリューのためなどでは、決してないが。
椅子を立ち、はたきを取って棚に向け、軽く振る。長い毛が灰色に染まったが、埃を落とすのは面倒でそのままカウンターの下にしまった。見えるところになければいいのだ、汚れなど。
また、椅子に戻る。そしてまた、考える。
そういえばクリューは、スプートニク宝石店の場所をきちんと覚えているだろうか?
少し前までここで暮らしていたとはいえ、あのとぼけた娘のことだ。その間にすっかりこの街のことなど忘れてしまって、近隣の家々の戸を叩き片っ端から訪れてはぐずぐず泣きながら「おうちがわからなくなりました」などと宣っていても不思議ではない。
そんなまさか、いやでも、有り得ない話では。まだ帰ってきていないという現実を踏まえ、良くない想像は始まれば止まることはない。ぐるぐると落ちていく思考に耐え切れず、スプートニクは再び、椅子を立った。
店の外で帰りを迎えてやろうと思ったのは、別にクリューの帰りが待ち遠しいわけではない。そういうわけでは決してない。ただ、迷子になった従業員がご近所の方々に迷惑をかけてはいけないから。だから。
スプートニクは椅子をどかして、カウンターを出た。
店内を横切る。入口扉に手を掛ける。扉を開ける――
*
まさか学校に『夏休み』なんてものがあるなんて、クリューは思いもしていなかった。
リアフィアット市を目指して走る馬車の中で、嬉しさと気まずさが、まるで車輪のようにぐるぐる回る。そのたび顔が熱くなったり冷たくなったり、クリューの頬は大忙しだ。
「どうした、酔ったか。袋あるぞ」
「酔ってないです!」
向かいに座る同行人ラウに向けて、クリューは噛みつくように叫んだ。
酔い止めの飴はよく効いている。デリカシーなくものを言い、手荷物からごそごそ紙袋を取り出す彼のことは思いきり蹴り飛ばしてやりたいが、揺れる車内で立ち上がるのは危険だ。
大きな苛立ち。クリューはそれを、ため息に変えて吐き出しながら――
窓の外を見た。
景色は誰かを待つことなく、前から後ろへ流れていく。
少しずつリアフィアット市に近づいていく世界。それを眺めながらクリューが考えることは、店主であり保護者でありクリューの想い人、スプートニクのことだ。
彼は今、何をしているだろう。帰ると手紙も送ったから、きっと店で、クリューの帰りを待ってくれているはずだ。まさか出かけてしまったなんてことはないだろう。……と、信じたい。
――およめさんにしてください。
あの日の発言を思い出すと、クリューの顔は火でもついたように熱くなる。
彼はクリューの発言を、どう思っているのだろうか。
ヴィーアルトン市から自宅へ、手紙は何度も送った。入学式がありました、クラスはリーエちゃんと同じでした、授業は楽しいです、寮のご飯はちゃんと残さず食べてます……
クリューの送った回数より少なくはあるが、スプートニクからもたびたび返事が届いた。学校生活が楽しいなら何よりだとか、気温が上がってきたが腹を出して寝ないようにとか、どれも淡々としていて、彼らしい文章だった。
ときどき「先生を困らせないように」「授業は真面目に受けろ」などと、「どの口が」と言いたくなるようなことも書かれていたがそれは別の問題として――
例の発言に関わることは、一度として書いてくれなかった。
……もしかしたら。
嫌な想像がむくむくと、クリューの心に生まれる。もしかしたらクリューの告白なんて、スプートニクはもうすっかり忘れてしまったのではないだろうか。言われた直後こそ驚いたものの、あれはきっと子供の戯言だと、冗談だと、勝手に結論付けてしまったりしてはいないだろうか。
有り得る。何せあれはスプートニクだ。暇さえあれば、綺麗な女の人を誑し込んでいるような人だ。
その彼が、子供の告白たった一度に揺らぐような心の持ち主であるようには思えない。クリューの告白なんて、スプートニクにはたくさんの女の人から向けられた愛情の一つ程度のものだったのかもしれない。いや、もしかしたら、それにも満たない、ただの。
鼻の奥が、つんと痛くなった。いけないと思いながらも変化は止まらず、視界がぷわりと膨らんで、ぼけて揺らいで、そして――
「吐きそうか!?」
「吐きません!」
場違いな言葉に、涙はさっと引っ込んだ。どうしてこの人はいつもこうなのか!
しかし同時に、悲しい気持ちも吹き飛んだ。
たった一度、告白に失敗したからどうだというのだ。彼がもしクリューの告白を忘れたというのなら、何度でも叫んで思い出させてやればいい。子供の戯言と笑うのなら、子供と侮れないほど成長してやればいい。そもそも、そのための学生生活なのだから!
鞄から飴の詰まった瓶を取り出すと、ひっくり返して中身を取り出す。
そして景気付けに、飴を二つ、一気に頬張った。頬はぷっくり膨れて、口を動かすたびごりごりと擦れて音を立てるが、それもまたクリューを鼓舞する声援のように聞こえる。
大丈夫、クリューは毎日毎時、毎秒成長しているのだ。小さい頃は一つでも持て余した飴玉を、今は二ついっぺんに食べられたりするのだ。だからいつかは、今はまだ難しいかもしれないが、いつかはスプートニクだって振り向かせられるような、素敵な大人になれるのだ。――そのためにクリューは今、リアフィアット市を離れて、頑張っているのだから。
いつの間にか馬車は、クリューの見慣れた街の中を走っていた。おや、とクリューが思ったときには、馬車は速度を落とし始めている。
やがて止まった馬車は、間違いなく、目的の店の前にいた。
「ついた……!」
待ちきれず、クリューは馬車の戸を開けて、勢いよく飛び出した。
そしてそのときには、スプートニクが自分の告白を覚えているかどうかなんて、もうどうでもよくなっていた。
会いたい!
「スプートニクさん!」
名を呼びながら、馬車からしっかりと着地。
地面を蹴り、走り、入口扉に飛びついたちょうどそのとき、
「……わぁっ!?」
まるで店そのものが、クリューを待ちわびていたかのように。
内側から扉が開いて――
*
「ただいま、です!」
「……おかえり」
めでたし、めでたし。




