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王女は、業に抗った  作者: 一石千月
序章 大草原の低空飛行
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序章【プロローグ】

異なる道を辿った平行世界。似て非なる地球で起きた、本当の物語。


 夢うつつで微睡んでいた男が、上半身を起こしかけたその瞬間、バタバタとローターを回転させる小型飛行艇が頭上を掠めた。反射的に地面に伏せる。やがて、機体の接地した響きがその機械音に加わり、青空に溶け込んだ。

 何が起こったのか、すぐには理解できない。さっきまで眠っていたせいで、頭が朦朧としている。体勢を崩さないまま、何とか混乱から抜け出そうとした。

——ここはどこだ?

 顔に触れる草の青々しい香りが、土の匂いと混じり合い、嗅覚を強く刺激する。

 男は、ここが「シャイナの丘」であることを思い出す。希少な鳥シャイナが生息することから、いつからか東大陸の人々がそう呼ぶようになった。

——では、何をしていたのか?

 ここにいる理由は簡単だ。仕事を抜け出し、草むらに寝転び、本を読み、居眠りするため。そんな贅沢な時間を過ごすため、男は自らのプランタ——ヘリコプターに似た構造の小型飛行艇を飛ばして、この丘にやって来た。

——そうだ! 仰向けに寝転んで本を読んでいるうち、心地よさに負けて眠ってしまったのだ。おそらく、寝返りを打っているうちに、日差しの眩しさで目が覚めたのだろう。

 男は完全に覚醒し、そろそろと頭を上げた。丘を渡る風が、絶え間なく頬を撫でる。高い彩度の青空に、綿雲がぽつぽつと浮かぶ。

 緑と青のツートンカラーは、いつものシャイナの丘だ。ただ、見覚えのない一人乗りプランタが、視界の先に映っていた。レモンイエローのフロントカバーのロックが外れ、タービンの一部が露出している。

 男はゆっくりと立ち上がった。幸いにも、身体に異常はない。仮に飛行中のプランタと接触していれば、ただでは済まなかっただろう。突っ伏したときに怪我をした形跡もない。意識もはっきりしている。

 不時着したプランタから、小柄な人影が降り立った。鍔の短い帽子、ゴーグル、革手袋、固めの繊維で仕立てた上下のワークウェア、短めのトレッキングブーツ。標準的なプランタ操縦士の身なりだ。タービンを見つめるその人影は、左手でゴーグルと帽子を外した。ベージュブラウンのミディアムヘアを、襟足で一つに束ねている。ぱっと見たところ、女性のようだ。

 男は声を張って呼びかけた。

「おーい、大丈夫かあ?」

 肩をびくっとさせ、その人影は振り返った。端正な顔立ちが、品の良さを湛えている。大きな深碧色の瞳が印象的だ。年恰好は男と同じくらい。二十歳前後だろう。

「あ、えっと」と女は口ごもったが、気を取り直して答える。「身体のほうは、大丈夫……だと思う」

「それはよかった」と男は微笑んだ。「でも、しばらくは気をつけたほうがいい。後から痛みが出るかもしれない」

「そうね……。あの、もしかして、私の機体が接触したのかしら?」

「いや、それは大丈夫。かなり驚いたけどね。相当な低空飛行だったから」

「ごめんなさい……」

 男は、不時着したプランタの傍らに歩み寄った。女より頭半分ほど背が高い。二人の間を、春の風が吹き抜ける。

「どこに行くつもりだったの?」

「クレイトンに戻る途中なんだけど……」

「クレイトン……。宮廷の近くだね。急ぎの用事?」

 宮廷とは、メスカ王国の国王邸のことだ。シャイナの丘もその領内に位置している。

「急ぎじゃないけど……。でも、飛べるのかしら」

「ちょっと待って」

 男はそう言って操縦席に近づき、前面パネルに並ぶ計器類をざっと眺める。全てのデバイスが停止していることを確認した。

 と同時に、焦げたような匂いが男の鼻を刺激した。

「もしや……伝達系?」

 機体の前へ回り込む。フロントカバーを全開にしたが、ヒンジの部分が衝撃で捻じれているのに気づいた。

「ん……。カバーは外すよ。このままだと閉まらなくて、かえって危ないから」

 力任せにカバーを引き剥がす。異臭が強く放たれ、新緑の香りに混ざる。

 男はしゃがみ込み、内部を覗き込んだ。

「ははあ、ここか。遠心クラッチが焼けて、タービン側のドラムだけ空回りしてる」

「簡単には直らないの?」

「たぶん摩擦材が使い物にならない状態だな。修理というより、クラッチごと交換するしかない。ただ、ここでできる作業じゃない」

「そんなに酷い状態なんだ……」

「もともと、不時着の衝撃なんて想定してない部品だからね。それとも、飛行中から何か異常があったのかな……」

 男は、故障の機械的原因に関心を寄せていた。

 それに対し、女は途方に暮れたように呟いた。

「帰れなかったら、どうしよう……」

 その声を耳にした男は、女の面持ちを一瞥した。修理が先決だと思い直す。

「よし。手近なもので、応急処置ができないか考えてみよう」

「あなたは、整備の経験があるの?」と不思議そうに尋ねる。

「本職ではないけどね。ただ、自分のプランタには、趣味でいろいろと手を入れてるから、多少はわかってるつもり」

 女の表情に、かすかに安堵の色が浮かぶ。

「一案がある」と男は意を決するように立ち上がった。「クラッチを飛ばして、タービンとローターを直結しよう。とりあえずトルクは伝わる」

「そんなことできるの?」

「正直なところ、ちょっと無謀なんだけどね。でも、とにかく動かせないことには、話にならないからね。やる価値はある」


 コバルトブルーに塗装された自らのプランタに、男は向かった。草を踏み締める音が、風と一つになって消える。座席の下から錆色の工具箱を引き出し、脇に抱えて女の元へ戻った。

 胡坐をかき、工具箱を開ける。無骨なペンチやスパナが、鈍い光を放った。

「どうするの?」

 女はいくらか落ち着きを取り戻していた。むしろ、その顔に好奇心の色が浮かぶ。

「ちょっと乱暴だけど、クラッチドラムとこのローター側のフランジをワイヤーで縛ろう。この穴とこの穴にワイヤーを通して、ねじって締め上げる」

「それで普通に飛べるのかしら?」

「無理な負荷をかけないことが最重要。起動が上手くいけば、あとは慣性が助けてくれるけど、耐久性には限界があることを覚悟しておいて」

「着陸は?」

「基本は普段と同じ。揚力レバーとオートローテーションで問題ない。ただ、垂直方向の制御が難しくなるかもしれないから、水平にスキッドを滑らせるイメージを持ったほうが、衝撃を最小限に抑えられると思う。目的地に、距離を確保できる広い場所はある?」

「それは……何とかなるかな。要は、さっきのスリリングな体験を、もう一度活かせってことね?」

 希望が見えてきたこともあり、女の声に張りが戻る。


 男は慎重に作業を始めた。まず、手前のタービンの一部を分解して、遠心クラッチにアクセスできるスペースを確保する。

 同年代に比してやや小柄で、どちらかと言えば痩せ気味。それでも、腕まくりをした前腕には、引き締まった筋肉が覗く。

 琥珀色の瞳でクラッチを見据え、ダークアッシュの短髪を揺らす。着ているのは、厚手の紺色の長袖Tシャツとカーキ色のカーゴパンツ、足元はベージュのトレッキングブーツ。垢抜けているとは言い難いが、この時代の若者らしい実用本位の装いだった。

「何か、空でトラブルでもあったの? 一歩間違えたら、墜落してたかもよ」

「上空でシャイナの群れにぶつかりそうになって……。避けたら、バランスを崩しちゃった」

「シャイナか。昔はもっとたくさん飛んでたらしいけど、今はこのあたりでしか見かけないよね」

「シャイナは水がきれいじゃないと生きられないって聞いたわ。この丘には人が住んでないから、集まってくるのね」

 女も隣にしゃがむ。ふわりとシトラスの香りが漂った。

 男は、その胸元が陽光を反射することに気づいた。胸ポケットから、小さな六角形の懐中時計が、短い鎖でぶら下がっている。

「時計、落ちそうだよ」

「あ、ほんとだ」と女はクリップの位置を直し、時計をポケットに押し込んだ。

「懐中時計とは、珍しいね」

「腕時計が苦手なの。締め付けられる感覚が、ちょっと……」

「そういえば、最近は時計を持たなくなったな。プランタの無線機を見ればわかるからね。それに、ここでぼんやりしてるときくらい、時間を忘れたいし」

「なるほど」と女は顔を綻ばせる。「よくここに来るの?」

「たまにね。昼寝したり、本を読んだり。自分だけの場所、みたいな」

「昼寝かあ。一面、絨毯みたいだし、空気も澄んでるし、気持ちよさそうね!」

 女は空を仰ぎ、眩しそうに目を細めた。

「でも、この空と草原を独り占めって、ちょっと癪だな。次は私も仲間に入れてもらおうかしら?」

 悪戯っぽく言う女に、男はふと息を呑んだ。包み込むようなその表情が、驚くほど魅力的だったからだ。反射的に視線を逸らす。

 と同時に、その手が止まった。

「どうかしたの? 上手くいかない?」

「ワイヤー持ってくるの忘れた。ちょっと、手が放せないんだ……」

「どこにあるの?」

「俺のプランタ。椅子の背もたれのところに括り付けてある」

「待ってて。私が取ってくる!」

 女はすくっと立ち上がり、男のプランタへと駆けた。遮るもののない丘に注ぐ陽射しは眩しい。

 プランタの二つの椅子は、背中合わせに固定されている。その隙間に手を差し入れ、ぐるぐる巻きにされたワイヤーを引き抜く。

「これでいいの?」

 ワイヤーを高く掲げて叫ぶと、男は横目で頷いた。

 戻ろうとした女は、ふと、草の上に横たわる分厚い本に気づいた。金文字で飾られたタイトルが、日差しを受けてきらりと光る。

「ふーん……」と興味深げに声を漏らす。


 女が引き返すと、遠心クラッチが剥き出しの状態になっていた。いよいよ、本題の作業が始まるようだ。

「このブレードの根元を押さえててくれる? 動くとワイヤーが上手く締まらないから」

 指示どおりに両手を差し込み、ローターを支えた。男は、クラッチドラムの穴とローターのフランジの穴に、ワイヤーを数往復通した。同じ作業を繰り返して、均等に六箇所で仮止めした。

 ここで女は手を放した。男は、ワイヤーを順に少しずつ捻じって締め上げる。バランスが崩れないよう、かなり慎重に作業を続ける。

「あなたのプランタの近くに、本が置いてあったわ」と女は時間を埋めるように話しかけた。「ベイ・ブリッツの『回顧録』。なかなか硬派な本を読むのね」

「ブリッツの書いたものは、ほとんど読破したよ」

 男は、額に光る汗粒を拭いもせずに答えた。

「中でも『回顧録』は何度も。読むたびに、新しい発見があるから」

「私も、ブリッツは何冊か読んだわ。易しい言葉の割に、内容は難解なのよね。『回顧録』は敷居が高くて、まだ読んでないの」

「そんなに身構えなくてもいいんじゃない? 確かに難しいところもあるけど、読み始めたら気にならなくなる」

「どんなところが、お気に入りなのかしら?」

 女の問いかけに、男は少し手を止めた。

「広い空が、感じられる」

「広い空……?」

 思いも寄らぬ答えに、女は不思議そうに顔を上げる。が、すぐに相好を崩した。

「ずいぶん詩的な感想ね。面白そう」

「一言じゃ説明できないけど、良い悪いを区別なく包み込んで、大らかな気持ちになるんだ」

 男は自らの言葉に気恥ずかしくなる。

「俺、こう見えて、理不尽なことを前にするとカッとなって、考えるより先に身体が動いてしまうたちなんだ。そのせいで痛い目に遭うことも多いんだけど……」

「そうなの? そんなふうには見えないけど。意外ね」

「え? どんな奴だと思った?」

「穏やかで優しい印象。だって、危ない目に遭わせたのに、文句も言わずにこうして修理してくれるんだもの」

 女の素朴な言葉に、男はくすぐったい気持ちになる。軽く咳払いをして続けた。

「じゃあ、直前までこの本を読んでいたせいかな。青空に包まれて、向こう見ずな自分を少しだけ許せる気分になったのかも。ブリッツの作品には、そういう救いが必ずあるんだ。だから、きっと気に入ると思うよ」

「そっか。私もそんな感情を味わってみたいな。『回顧録』か。読んでみようかな」

 男は、その声がとても豊かで心地よいことに気づく。女は少し首を傾げて続けた。

「それにしても、読書家なのね」

「本はいろんなところに連れて行ってくれるから」と男は再び手を動かす。「俺は、早くに親を亡くして、ろくに学校にも通えなかった。でも、本だけはたくさん読もうと思った。世の中を少しでも知りたかったんだ」

 女はその言葉にすぐには応じなかった。男のあっけらかんとした様子に戸惑っているようだ。顔を上げた男がそれに気づく。

「あれ? どうかした?」

 女は気を取り直す。

「何でもないわ」

 そして、ローターの向こうの空を見上げる。

「広い空か……。どんなことも、空の向こうでは繋がっているのね」

 今度は男が首を傾げる番だった。

 こうして作業を続けるうちに、太陽は徐々に西に傾く。草の擦れる柔らかな音が、絶え間なく空に放たれる。

 二人のいる場所は周囲より少し高く、四方に視界が開けている。東には地平線の手前に小さな町並みが見え、対して西の彼方遠くには尾根が連なる。


 プランタの不時着から小一時間が経ち、一連の作業は終了した。遠心クラッチをバイパスしてタービンとローターを直結し、作業のため分解したタービンもすべて元どおりに組み上げた。

 男は立ち上がり、大きく伸びをした。服のところどころに機械油が染みていた。

「ずいぶん汚してしまったわね。本当にごめんなさい」

 女は申し訳なさそうに頭を下げた。

「構わないよ」と男は気にも留めない。「それより、ここから先は君の操縦にかかっている。ローターの回転数を上げるまでが肝心だ。飛行中にワイヤーが切れたら、すぐにオートローテーションに切り換えて着陸場所を探して。高度を上げないほうが、何かあったときに対処しやすい」

「うん。ゆっくり帰ることにする」

 女はプランタに着座し、シートベルトを装着する。計器の並ぶパネル右下の電源レバーを「起動」側にゆっくりと倒した。しばらくすると、座席右横のサイトグラスからオレンジ色の光が発せられ、徐々にその色が濃くなる。発熱体である「BSカートリッジ」が正常に稼働していることを示す。

 BS (バジルシード)カートリッジとは、握り拳二つ分ほどの円筒状ガラス容器にゲル状の媒体が満たされ、黒く小さな粒が無数に漂う形状の熱源ユニットだ。その名のとおり、外観はバジルシードドリンクを思わせる。真鍮製の炉筒に挿入されると発熱し、主水槽の蒸気圧を上げる仕組みだ。

 男は圧力ゲージを確認すると女に伝えた。

「スロットルバルブは慎重に開放して。いつも以上に蒸気圧を上げないとタービンが動かないはずだから。無理せず時間をかけてね」

 女は、言われたとおりゆっくりとバルブを開く。蒸気圧が上昇するものの、ローターは微動だにしない。

 圧力ゲージが危険域に入り、緊張感が高まる。すると、不意にローターが回転し始めた。機体が激しく振動する。男は不用意に近づけなくなる。

「わわわ……!」

 女は必死に踏ん張る。伝達系からギシギシと妙な音が漏れる。

 二つのバルブを調整し、蒸気圧を何とか安定させると、座席左側の揚力レバーをぐっと引き上げる。

 すると、プランタはふわりと地面から浮遊した。なお不規則に機体は揺れていたが、右手の操縦桿と右足の方位ペダルを駆使して、その姿勢をどうにか安定させた。さらに揚力を確保すると、ローターが重力を抑え込む。電源レバーを反対側に倒してタービン付設の発電機に電源を切り換える。

 ようやく、機体は空高くへと舞い上がっていった。


 男は安堵したものの、遠ざかる機体に不安を募らせる。

「うーん、やっぱり追いかけたほうがいいかな……」

 工具箱とワイヤーを抱えて、自分のプランタに戻った。座席の隙間に『回顧録』を押し込み、起動準備にかかる。

「あっ! しまった!」

 男は叫んだ。自機のBSカートリッジの熱効率が低下しているため、短距離の飛行しかできないことを思い出した。このまま離陸しても、クレイトンまでは到底もたない。昼寝だけのつもりだったので、予備のカートリッジも持参していなかった。

 肩を落としたそのとき、無線機の呼出音が鳴り、男はひっくり返りそうになった。おそるおそる通信に応じる。

「おい! いつまで油売ってんだ! さっさと戻ってこい!」

「す、すみません! トラブルがあって……!」

「問答無用! あと五分だ! 間に合わなきゃ、十日間、船倉の掃除な!」

「そんな! 五分なんて無理だって!」

「ハイ、あと四分五十二秒!」

「くそっ、子どもの口喧嘩かよ!」

 受送話器を叩き切り、頭を掻きむしった。どうあがいても間に合わない。

 観念して、静かにローター越しの空を見上げた。陽射しは柔らかくなりつつあるが、青い天球は変わらず鮮やかだ。

 男は、小さくなった機影を目で追った。ついさっきまで隣にいた女の笑顔も、交わした言葉も、淡いシトラスの香りも、早くも夢のように霞んでいく。

 だが、服に染みついた油の匂いは、確かに現実を語っていた。目を閉じ、緑と太陽の香りを深く吸い込んだ。このひとときを、余韻として心に留めるために。


 そして、地上の男と、空の女は、ほぼ同時に呟いた。

「あ、名前聞くの忘れた」

 夕陽に染まり始めた空を、たくさんのシャイナが優雅に舞っていた。

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