告白
やっとですよ~~!!
翌朝、その日も朝から快晴で、私は農場に向かうべく支度を整えていた。朝食は白パンにハムを挟んで、今日は生みたて卵でスクランブルエッグを作った。それを更に昼食用のサンドイッチにも挟んでいると、寝室からサファイアブルーが現れる。
「お早う御座います! 朝ごはんの支度はできて……」
と、そこまでを声に出して、私はその場で固まっていた。寝室から現れた王様は――倒れたその日と同じ、正装を身に纏っていたからだ。
「朝食には感謝するが、私はそろそろ王城に戻ろうと思う」
背に纏ったマントをバサリと翻しながら彼が歩いてくる。あぁ、こんな狭小住宅内であっても、威厳って消えないんだなーなんて、馬鹿なことを考えていた。
遂にこの日が来たんだ。
楽しかった二人だけの生活は、これで終わり。
もうきっと、彼と言葉を交わすこともないだろう。
「そう、ですか。すぐに発たれますか?」
みっともなく震えそうになる声を、必死に耐える。私のこんな気持ちが僅かにでも王様に伝わって欲しくなかった。
「……あぁ。世話になった。この礼は、いつか必ず、なにかで返す」
お礼かぁ、何が貰えるかななんて、浅はかなことでも考えていないと、すぐにでも涙腺が決壊してしまいそうだった。
「はい、楽しみに、お待ちしています」
最後まで憎まれ口を叩いて、自分を奮い立たせる。彼がこの家の扉を出るまで、あと数歩の我慢だ。
「……じゃあ、達者で」
「王様も、ご自愛ください」
深々と頭を下げるのは、最上の敬意を表することと、この醜い顔を見せないため。私が頭を上げずにいると、王様は暫しの沈黙のあと、扉を押し開いて出て行った。
ぱたんと扉の閉まる乾いた音を耳にしてから、私はそぉっと顔を上げる。当然のことながら、もうそこには愛しき人の姿はなかった。
「…………っ」
ぼたぼたぼたっと床板に丸い染みが増えていく。誰も見ていないのだから、もう我慢なんてしなくていいやと思えば、次々と頬を冷たいものが伝ってゆく。
「王、様……おうさま……」
ナイフで切りつけられたように痛む胸を左手で強く掴み、テーブルに手をつく。歪んだ視界の先には、二人分の作りかけのサンドイッチ。1つ不要になっちゃったな、なんて、そんな下らないことを思う。
夢のような日々は、終わったんだ。
恋焦がれていたその人と、たった数日だけど同棲みたいな生活を送れた。彼に触れることも、彼から触れられることもなかったけれど、同じ時を過ごせるだけで幸せだった。彼が食べたことがないような料理を作れば、嬉々とした顔を見せて貰えたり。農作業の合間には、汗の滴る精悍な横顔を覗き見たりもした。日が落ちれば蝋燭の灯りだけの薄闇の中で、下らない話をしたり。後宮にいる時よりも、ずっと彼との距離が近くなったようだった。
でも、それも全て終わったんだ。
明日からは、彼の声を聴けるのは全国民に向けての演説の時だけだろうし、彼の姿を目にできるのは、王城のテラスか馬上で街を抜ける時くらいなものだろう。私の名を呼ばれることは二度とないし、あのアレキサンドライトの瞳で見詰められることもない。
「……ふっ……うぅっ……」
悔いても悔み切れるわけもなかった。どうして毒殺されることなんて恐れたんだろう? そんなものに怯えることより、彼の傍に居られる時間をもっと大切にしたかった。どうせ短い間だけなら、彼に私の本当の気持ちを伝えたかった。
――心から、愛していると。
たった一度でもいいから、貴方のものになりたかった、と。
もしそれが叶うなら、毒殺されるその瞬間にだって、私はきっとこんな風に悔いることはなかっただろう。誰よりも幸せな死を迎えられるはずだった。
なのに、今のこの現状ときたら。愛する人に想いを伝えることもできず、捨て去られて泣き続けるだけ。こんな虚しい人生を送るくらいなら、正妃ナミルに毒殺されて、愛する王様の腕の中で息を引き取りたかった。
後悔だけが私の胸を襲う。せめてあの扉を開けてアイザックを追い、本当は好きでしたと告げることくらいは許されないだろうか、なんて愚かなことを考えていると、ぎぃっと軋む音と共に扉が再び開かれる。
「……リコリス?」
「……っっ!!」
どうして戻ってきたんですか!? なんて、声を掛けられるはずもない。とりあえず私は扉に背を向け、ごしごしと濡れた頬を強く拭う。
「どうして泣いている?! どこが痛むのか?!」
しかしその手を、小走りで走り寄ってきた王様に掴まれてしまって。恥ずかしくてみっともなくて、顔を強く俯かせる。
「何処も、痛くはない、です」
「では、何故泣いている!?」
掴まれた手首にぎゅっと力を入れられて、少し痛いくらいだった。
どうやって言い訳する? 王様に捨て去られたからなんて、口が裂けても言えないし。王様にもう会えないかと思うと、急に寂しくなって……くらいなら、なんとか誤魔化せる? 友愛みたいな感じにすれば逃げ切れないだろうか、とか。とにかく必死に混乱する頭を回していると。
「……そなたはそうやって、いつも隠してばかりだな」
頭上から響いてきた声音が、いつもより一段低く響く。
――いつも隠してばかり?
言葉の使い方に違和感を感じてそっと顔を上げれば、そこには眉間に深い皺を刻んで、苦々しい表情を浮かべたアイザックがいた。
「後宮に居た時からそうだ。何かを話そうとする時、必ず一拍置いて、考えてから話していただろう? 気づいていなかったのか」
「……!」
確かに余計なことを口走ることのないように、特にアイザックに対しては細心の注意を払っていた。前世の記憶のこともあるが、なによりアイザックがその気にならないようにしなければならなかったから。
「後宮に上がる前に何かあったのかとも思ったが、ここでの暮らしぶりを見る限りそんなことも感じられない。それにメイドのベルナと話す時はそこまで気遣っている気配もなかったしな」
そこまで見られていたなんてと、アイザックの観察眼に驚かされた。私なんてただのモブ側室だから、気にされているとも思っていなかった。なのに、今、目の前の彼は。
「私の前では、いつも慎重に話しているのが分かった。それに、意図的にそういう雰囲気にならないようにしていただろう?」
そう話す彼は、いつも背筋をピンと伸ばし、揺らぐこともなく前だけを見詰めている人と同一人物とは思えなかった。ビリヤードグリーンの瞳が、不安そうに小さく揺れている。
「だから、手放したのだ。後宮を出て、私の元を離れれば、そなたは誰に気遣うでもなく、自由に生きられると思ったから」
初めて聞かされる彼の真意に、私は目を見張る。私が王様と敢えてイタさないようにしていることに気付き、呆れて放り出されたのだとばかり思っていたのに。
「なのに、こうして再会してみたら、どうだ? そなたは今でも私と距離を取り、話す前には一拍置いてから話し出す。何も変わっていないではないか」
握られた手首に更に力が込められて、流石に顔を歪める。そんな私に気付いた王様が、『すまない』と短く謝罪して手を離した。
「後宮から離れても、私の側室でなくなっても、それでもそなたは、私に本当のことを話してくれることはないのか」
苦しそうに話すアイザックに、私の胸の方が軋むようだった。彼にそんな顔をさせたかったわけではない、決して。ただ、この世界の顛末を知る私が、自分の死を恐れ、逃げ出しただけなのに。
「違います! 違うんです!」
彼の隠された優しさに触れて、私の胸の内にしっかりと掛けておいたはずの鍵が外されてゆく。アイザックにこんな顔をさせるくらいなら、隠していたことを曝け出した方がマシだ。
「全てをお話する訳にはいきませんが、私が王様と、その……そういう雰囲気にならないように避けていたのは事実です。それは私が懐妊することで、正妃のナミル様に毒殺されることを恐れたからでした」
「ナミルに?!」
『まさか』という表情。恐らくナミル様は王様の前ではそんな素振りは微塵も見せていなかったのだろう。
「信じがたいお気持ちは、私にも解ります。ですから、信じて頂きたいとは申しません」
こんなことを唐突に告げられて、即座に『そうだったのか』とは誰しも言えやなしないだろう。ある種の反逆罪にも当たるだろうから。だから、その点を信じて欲しいなんて、もう思っていない。後宮を出た私には、最早無関係の話だろうし。けれどただ一つ、これだけは絶対に譲れない、その真実だけは伝えたかった。
「ただ、私は自分の死を恐れていたがゆえに、王様に……自分の本当の気持ちをお伝えすることができませんでした」
消したくて、殺したくて、それでも溢れ出すことを止められなかったこの想い。
この気持ちだけは、嘘だったと思われたくはないから。
「そなたの本当の気持ち、とは?」
頬に暖かな熱を感じる。無意識に伏せていた顔を王様の右手で上げられて、必然的に彼と見つめ合う。息を吸うことすら上手く出来なくて、でもこれだけは最後に伝えたくて。
「私は、本当は――王様に触れて欲しかったのです。ただの一度で構わないから、王様のご寵愛を受けたかった!」
初めて音にしたその言葉に、自分の胸が熱く震える。
苦しかった、ずっと。
一番の願いを、一番に殺さねばならないことが。
やっと口に出来た願いと共に、堰を切ったように涙が溢れた。
目の前のアレキサンドライトの瞳が大きく見開いた。それはそうだろう、避けられていると思っていた女から、熱烈な告白をされたのだから。
「今更、申し訳御座いません。ただ、王様に私の気持ちを誤解されたままでいるのが辛かったのです。何を望んでいる訳でも御座いませんので、全てこの場でお忘れ下さい」
伝えられただけで満足だ。これ以上望むなんて、贅沢すぎる。この世界の片隅に、貴方を想っている人間がいるのだと、それだけを知って欲しかったから。
伝えたいことは全て伝えた。
今度こそ、本当に全てが終わったんだ。
磁石のように引き寄せられていたアレキサンドライトの瞳から目を離して顔を伏せる。顎を引いて彼の暖かな掌からも身を引いた。
でも、何故だろう? さっきアイザックが扉から去って行った時のような悲壮感はもうなかった。この気持ちを秘かに暖めながら、一人緩やかに老いていくのも悪くないかもなんて、やっとそんな風に思えたのに。
「ならば、そなたは、私に触れられるのが嫌ではない、と?」
突拍子もない言葉を掛けられて、驚きで先程伏せたばかりの顔を上げる羽目になる。
「へ?」
失礼にもほどがあるが、つい間抜けな声が出てしまった。いやだって、今の論点そこじゃなくない?
「……嫌なのか?」
再度繰り返される質問に、首をぶんぶんと横に振る。
「い、嫌ではないです! 決して!」
私がそう答えるや否や、するりと左頬を撫でられて背筋が跳ねる。
「ひゃっ!? あ、あの……っ!」
ばくばくと煩い心音は、絶対王様に聞こえてしまっていると思う。アイザックの長い親指が戯れに頬を撫でるたび、かぁっと熱が上がっていく。恐らく私の今の顔は、完熟のトマトより赤いだろう。
だというのに、あろうことかアイザックは愛おしいものを愛でるかのように、美しいアレキサンドライトの瞳を柔らかく細めてみせる。こんな表情を浮かべる彼を、私は知らない。
「王様……」
初めて彼から与えられる熱に、うっとりと瞳を細める。こんなものを知ってしまったら、取り返しのつかないことになりそうで怖いのに。
「おう、さま……」
離して欲しくて、でも離して欲しくなくて。自分の中で渦巻く嵐のような感情に翻弄される。あまりの激流に出口のない感情が溢れ出るように涙を零す。
「泣くな」
両手で頬を覆われ、涙を拭われる。その優しさに、更に涙腺が崩壊する。
「どうして泣く? 嫌ではないのであろう?」
戸惑い気味のアイザックに申し訳なさは募るのに、もうこうなってしまっては自分でもどうしたらいいのか分からない。苦しくて、切なくて、でも嬉しくて、甘くて。
「王様に、こんな風に触れて貰える日が来るなんて、思ったこともなかったから」
口語体で答えてしまったことは許して欲しいと思う。もう頭の中は王様のことで一杯で、その他のことは何も考えられなかった。この感触を刻み付けて、一生忘れないようにしたい、そう思って瞼を伏せたその時。
「……!」
目尻に柔らかいものが触れて、ちゅっと涙を吸い取っていく。薄い唇を信じられない思いで見詰めていると、それが今度は逆側の目尻に触れた。
「王、様っ!?」
頬にキスされていると気付き、思わず彼の上着の胸元を掴んでしまう。
「嫌ではないのであろう? だったらもう――俺は、我慢しない」
両頬に添えられた手に力が篭り、上向かされる。
そこに降ってくる、アレキサンドライトの光。
初めて知る唇の感触は、柔らかくて、暖かくて。
角度を変えて啄むように口付けられて、私は再び涙を零した。
「泣くなと、言ってるのに」
手の甲に伝う涙の感触に気付き、アイザックが再び目尻の涙を吸う。それだけで私は再び涙を零してしまうのに。
「……リコリス」
私の涙を拭うことを諦めたアイザックが、私をぎゅっと抱きしめてくれる。高価な上着を濡らしてしまうと思い慌てて身動ぐのに、アイザックは気にしないどころか抱きしめる腕に更に力を込める。
「リコリス、もし、お前が嫌だと思わないのなら、後宮に戻って来ないか?」
「後宮、に?」
腕の中で顔を上げると、アイザックが少しだけ腕を緩めてくれた。
「そうだ。お前が俺に触れられるのが嫌じゃないというなら、戻ってこい――俺の傍に」
戻っても、いいの?
大好きな王様の元に……?
戸惑いを隠しきれずに黙り込んでいると、アイザックは言葉を続ける。
「お前が戻ってくるというのなら、今度は全力で俺がお前を守ろう。ナミルの毒牙に掛からぬように」
「信じて、下さるんですか? 私のような者の話を……?」
何の証拠も根拠もない話なのに、それでもアイザックは正妃よりも私を信じてくれるというの?
「あぁ、お前は……嘘を吐くのが死ぬほど下手だからな」
『だから何か企んでるのは、解ってた』と告げると、アイザックは再び私を強く抱きしめた。