第1話 お父さんの転移
とある日の朝。俺は会社に行くため玄関口に立っていた。
玄関脇の鏡をのぞき込み、身だしなみを確認する。
髪良し。ネクタイ良し。ハンカチ、ティシュ、定期、財布、スマホ、全部持った。
良し、問題なし。
今日は資源ゴミの回収日だ。俺は左手には通勤カバンを、右手には資源用ゴミ袋を持ち、家の中に向かって声を掛けた。
「行ってきまーす」
だが、その声に応える者は誰もいない。
「へんじがない…………。ただのしかばねのようだ……」
悲しい気分のせいで、思わず変なセリフが口から出てしまった。
(はぁ、返事くらいして欲しいもんだな……)
聞こえていないはずはない。妻と娘は玄関のすぐ隣のリビングにいるのだ。
ズボラな妻は今更だが、最近は娘もあまり返事をしてくれない。
お父さんはちょっと寂しいよ……。
高校に入った頃から、娘の俺に対する態度が素っ気なくなった気がする……。
おまけに最近は少し意見するだけで反発するし……。
そんな所まで妻に似て欲しくなかったな……。
はぁー。昔は素直で優しいお父さんっ子だったのになぁ……。
いかんいかん。
俺も歳取って愚痴っぽくなって来たな。気を付けないと……。
期待した『いってらっしゃい』の返事を聞けないまま靴を履く。
カバンとゴミ袋で両手がふさがっているため、背中で玄関ドアを押し開け外に出る。
家の外に目を向けた瞬間、俺はあまりの事に立ちすくんだ。
何しろ我が家の玄関先にヨーロッパ風の街並みが広がっていたからだ。
「…………はっ!!」
不意に我に返った。いったいどれだけの時間固まっていたのだろうか?
「何だ? 何だ? 何だ? どうなってるんだ?」
事態を把握しきれず、ただただ周囲を見渡す。
周囲にはレンガや石造りの西洋風の建物が立ち並び、石畳で舗装された通りには、いかにも西洋人と呼ぶにふさわしい金髪の人々が何人も行き交っている。
「何で家の外が外国になってんだよ?」
目の前に広がるヨーロッパ風の街並み。
だが、テレビの旅番組でよく見るヨーロッパの街の風景とは印象がかなり違う。街の雰囲気が妙に古めかしいのだ。
いや、古めかしいというより、質素と言うか、見すぼらしいと言うか、貧乏くさいと言うか、要は視覚的に現代文明の華やかさが全く感じられないのだ。
石畳の道路には自動車や自転車は一台も見当たらず、信号や街灯の類の構造物も一切ない。
周囲の建物はレンガや石造りの家や、木の柱に白い漆喰を塗った家など様々ではあるが、どの建物も窓にはガラスではなく、戸板がはめ込まれている。
行き交う人々は皆、質素で古風な地味な色合いの貧相な服を着ている。
まるで中世ヨーロッパを舞台にした映画のセットの中にいるようだ。
「どうなってんだ?」
俺はこの不思議な光景をもっとよく観察しようと、一歩前へ踏み出した。
「バタン!」
背後でドアが閉まる音が響いた。
さっきまで体で押さえていた玄関ドアが閉まった音だ。
その音に驚き思わず後ろを振り返る。
だがそこには何も無かった。
たった今俺が出て来たはずのドアは忽然と消え失せていた。
「……………」
額から冷汗が流れ落ちる。
俺はどうやらこの得体の知れぬ街に、たった一人で放り出されたようだ。
大きく深呼吸し焦る気持ちを落ち着かせながら、何が起きたのかひたすら考える。
ここはヨーロッパのどこかの国か? なぜ俺はここにいる?
(これは……テレポーテーション?)
俺は超能力に目覚めたのか? その秘めたる力で、西洋のどこかの国に瞬間移動してしまったのか?
いや、いや、いや。
ここが西洋だとしても、現代文明から見捨てられたようなこの古めかしい街並みは一体何なんだ?
(もしかして、これは今流行りの『異世界』というやつか?)
未だ中二病を患ってる俺の高校生の娘なら、大喜びでそんなセリフを口にしそうだ。
だがリアルな社会を生き抜くお父さんとしては、そんな非現実的な結論に飛びつく訳にはいかない。
(さてはドッキリ? 俺の家の周りを映画セットで囲って、俺が慌てふためく様をどこかから隠し撮りしてるという訳か?)
周囲の西洋風の街並みはどう見ても本物だ。断じて映画のセットなどではない。
そもそも平凡なサラリーマンの俺を騙すために、こんな大掛かりなセットを作る意味など全くない。
ここがどこかはもちろん問題だが、俺がついさっき出て来た玄関ドアが消えてしまった事の方がもっと問題だ。
俺の家はどこに消えた?
俺は必死にこの問題をうまく説明できる理由をひたすら考え続けた。
(玄関出たとたんに悪の組織に麻酔薬でもかがされ、誘拐されたとか? 眠っている間に、どこか外国に運ばれて街の中に放り出された?)
悪の組織に狙われる心当たりは全く無いし、手間暇掛けて国外に連れ出すとか、そんな面倒くさいことをされる理由が思い浮かばない。
ギブアップだ。もう訳が分からない。
ここがどこだか分からない。
なぜここにいるのか分からない。
何も分からない。
この見知らぬ街で、俺はこれからどうすればいいんだ?
「そうだ! 助けを呼ぼう! 電話だ! えっと、どこに電話すればいいんだ? そうだ、警察だ! でも警察に何て言えばいい? 事件ではないし……事故でもないし……えっと、迷子? 俺は迷子なのか? まあいい。とにかく電話だ。警察、警察、………警察って何番だ?」
圧し掛かる不安で頭の中はパニック状態だ。
ポケットからスマホを取り出し、警察に電話しようと画面を見た。
だが無情にも画面の端には「圏外」の文字が……。
「くそったれー!!」
圏外ではデータ通信も使えない。
念のためにネットに接続しようとしたが、やはり繋がらない。
ダメ元でスマホを操作し地図アプリを起動させる。
うまくすればGPSで位置情報だけでも拾えるかもしれない。
しばらく待つと画面が切り替わり、地図が表示された。
さあここはどこだ?
「俺の家じゃねーか!」
画面には我が家を中心とした周辺の地図が表示されていた。
圏外になる直前の最終位置が表示されているだけなのだろう。
(落ち着け。冷静になれ。深呼吸だ)
俺は周囲の西洋風の街並みを見渡しながら、今の状況を整理してみた。
山奥ならともかく、現代日本の街中でスマホの電波が届かない場所があるとは思えない。だからここは日本ではない。
ここは一見、西洋のどこかの国のように見える。
だがこんな文明社会から見放された街など、今までに見た事も聞いた事もない。
ここは西洋でないような気がする。
「もしかしてタイムスリップ?」
俺は過去のヨーロッパの世界にタイムスリップしてしまったのか?
ここが過去の世界だとしたら、これから俺はどうすればいい?
誰に助けを求めればいい?
駄目だ。これ以上悩んでいても埒が明かない。
とりあえず、近くを歩いている人を捕まえて話をしてみよう。
でも俺、英語ろくに話せないや。
いやいや、そもそもここが英語圏とは限らない。
フランスやドイツやイタリアだったらお手上げだ。
誰に話し掛けようかと周囲に目をやると、通りの向こうから歩いてくる七、八歳くらいの子供が目に入った。
フード付きの粗末なローブを着て、紐で縛られた薪のような木の束を両手で抱えて歩いている。
顔はフードで隠されていて定かではない。
両手いっぱいの薪のせいで、歩く足元が非常に危なっかしい。
「あっ!」
ローブの子供が何かにつまずいて転んでしまった。
思わず駆け寄り、抱きかかえて立たせてやる。
転んだ拍子に頭を覆っていたフードが外れ、頭が露わになった。
見れば薄茶色の髪をしたかわいらしい女の子だ。
ローブに付いた土を払ってやりながら少女に訊ねる。
「怪我はしてない?」
「あっ、えっと、はい、大丈夫です」
紐が解けて周囲にちらばった薪を拾い集め、しっかり縛り直して少女に渡す。
「もう転ばないように気を付けてね」
「はい。ありがとうございました」
少女は頭を下げて礼を言うとフードをかぶり直し、薪をしっかり抱かえて去っていった。
「どうやらここは、今流行りの『異世界』というやつみたいだな……」
最終的にたどり着いた答えが、中二病の娘と同じとはちょっと悲しい。
咄嗟にローブの少女に声を掛けてしまった。
不可解な事に俺の口から出た言葉は日本語ではなかった。
俺の全く知らない言語だった。
ローブの少女の返事も同じく日本語じゃない知らない言語だった。
でも意味はちゃんと理解できた。
たぶんこれ、異世界物の定番スキルの『異世界言語』とか『翻訳』とか呼ばれるスキルではないのか?
更に決定的なのは、フード下に隠されていた少女の頭。
その頭には耳があったのだ。犬の耳が……。
犬耳のカチューシャとかいうオチじゃない。時々ピクピク動いてた。あれは本物の耳だ。
犬耳少女。異世界物では亜人とか獣人とか呼ばれる種族なんだろうな。
「異世界ねぇ」
当年四十九のこの俺だが、ラノベの異世界物にはちょっと明るい。
会話の少なくなってきた高校生の娘が異世界物好きと発覚して以来、共通の話題作りのため日夜ラノベを読み漁ったのだ。
思春期の娘を持つ父親は、人知れず努力しているものなのだ。
異世界が実在するのなら、異世界のテンプレもまた実在するんではなかろうか。
俺は最近読んだ異世界物のストーリーをいくつか思い浮かべた。
異世界物の王道は何と言っても勇者召喚だな。
「ええっと、実は俺、勇者? 魔王を倒せってこと?」
いやいや、齢四十九のおじさんに魔王を倒せとは何とご無体な。
自慢じゃないが路上でゴミ袋を漁るカラスにさえ勝つ自信はない。
じゃあもう一つの方かな。
トラックに撥ねられたり、想定外の悲惨な死に方をした場合に、神様が状況を説明してくれて、チート能力てんこ盛りで異世界に転生やら転移をさせてくれるってやつ。
「あれ? 俺死んだ? そんな覚えは全く無いんだが……」
ついさっき玄関から出たばかりで、トラックに撥ねられる暇なんて無かったはずだが。
まさか家の玄関にトラックが突っ込んだんじゃないだろうな?
まあそこは神様に聞けばいい話だな。
神様はどこかな?
俺にチート能力を授けてくれるありがたい神様はどこですか?
「おーい!神様ーーー! どこですかーーーーー?」
周囲を見渡しても神様らしき人物はいない。
まさかチート能力を渡すのが惜しくなって、知らんぷり決め込んでやがるのか?
神様許すまじ!
異世界での会話能力は貰えたようだが、これはデフォルトスキルだろ。
これで終わりだとしたらクレームねじ込んでいいレベルだ。
「神様ーーー! 出て来てくれないと泣いちゃうぞーーー」
返事がない。どうやら泣き落としは通用しなさそうだ。
困ったぞ。今の状況を説明してもらわないと、今後の方針が立てられないじゃないか。
普通、異世界に飛ばされるのは引き籠りだったり、ニートだったり、天涯孤独だったり、社会に馴染めず新天地でやり直しを図る人達なんじゃないのか?
何で俺なんだよ?
俺には俺の帰りを家で待つ、大切な妻と娘がいるのだ。
何が何でも帰らねばならぬのだ。
愚痴っていても始まらない。まずは、この状況をどうするかだ。
異世界の行政機関を探して、事情を説明して保護を求めるか?
いや、この世界の事が分らない今の状況ではそれは危険だ。
こんな見るからに中世っぽい世界で、頭の堅い小役人相手に『異世界から来ました!』なんて言おうものなら、『頭のいかれたヤツだ』と牢にぶち込まれる可能性がある。
身元不明の人間が牢に放り込まれると、一生出られない予感がする。
行政機関へ助けを求めるのは最終手段に取っておこう。
何をするにしても情報が不足している。
せっかく言葉が通じるんだから、当初の予定通り街を歩いて情報を集めるとしよう。
どっちの方向へ行こうかと通りを見回していると、背後でドアが開く音がした。
(ドア! ドアだ! ドアが開いた! 家に戻れるぞ!)
俺は慌てて後ろを振り返った。
だが開いたのは俺の家のドアではなかった。
背後には石造りの大きな建物が建っており、一人の男がドアを開けて出て来るところだった。
出て来た男は俺の姿に気付くと声を掛けてきた。
「おはようございます。当商会に何か御用でしょうか?」




