56.増速せよ ~Increase speed.~
「絶対にまた会おうね、約束だよ。」
セーラは私の方を何度も振り返りながら駆けていき、やがて私の視界から見えなくなった。コーラル・マーメイド号の上部デッキにあるジョギングコースに一人取り残されることとなった私は、それまで自分の身の丈に合わないハイペースで走っていたことを反省しつつ、ゆっくりとしたペースで内側を再び走り出した。
相変わらず海の上を行くジョギングコースには涼しい風が吹き込み、周りは一面の穏やかな海である。それは私がこれまで学校の体育の時間で嫌々走っていた学校の校庭のように、うだるようなジメジメとした暑さも無ければ、殺風景な景色でもない。だから、私が経験した中で一番走りやすいコンディションではあるものの、やっぱりセーラが隣に居てくれた先ほどまでとは心の弾み方が異なってくるのである。
「はぁ、セーラが隣にいてくれればなぁ」
私は彼女と同じスピードではこのコース1周分を走り切るのに精一杯という自分の体力の無さを恨んだ。しかし、もし私が一人きりであの速さで走っていたら、おそらく1周どころか200mも走れずにダウンしてしまうことだろう。私にとってそれほどセーラの持つパワーは大きかったのである。せめて今度は2周くらいは一緒に走り切れるようになろうと、私はゆっくり地道に自分の地力を上げるため、ランニングを続けた。
一人きりで走っていると、私の頭の中にはいろんな考えが浮かんでは消えていく。例えば、ランニングの終わった後のお仕事のことや、セーラ達と朝話したとりとめのないこと、それに次の寄港地はどんなところか想像してみたり。しかし、やはり一番大きなウェイトを占めていたのは、あの日のセーラの「告白」についてだった。あの時の彼女の言葉を思い出すだけで、私の心はとても温かい気持ちでいっぱいになる。しかし、走っている最中に浮かんだある一つの考えが、そんな私の浮かれた様子に疑問を投げかけた。
「セーラは自分の気持ちを私に伝えてくれたけど、私は果たして自分の気持ちを彼女に伝えなくてもよいのだろうか?」
その瞬間、後ろから聞き慣れた快活な声がした。
「おーい、七海ー!」
振り返ると、そこにはポーラとマリさんの姿があった。2人と、私とセーラとの距離はかなり開いていたはずなのに、私はいつの間にか追いつかれてしまうほどゆっくりとしたペースで走っていたことになるらしい。私は2人と併走しながら言葉を交わす。
「あら、セーラと一緒ではなかったの?」
マリさんが容赦なく私に疑問を投げかけてくる。確かに、先程まであれだけ意気揚々と飛ばしていた私たち2人の姿を見ていれば、今一人でゆっくりと走っている私に対してそのような疑問が浮かんでくるのはとても自然なことだ。
「かわいそうに、七海、もうセーラにフラれちゃったのか……」
マリさんの疑問は自然なものとして、ポーラには言っていい冗談と悪い冗談があるということをみっちり教えなければいけないと私は強く強く決心した。大体、「もうフラれた」とはどういう意味だ。あの日のセーラの「告白」はあくまでもセーラが自分の気持ちを私に打ち明けてくれたという話であって、私とセーラがそういう関係になったかどうかはまだはっきりと決まったわけではないというのに。
「ああ、フラれたっていうのは言い過ぎか。だって告白に対する七海の答えがまだだもんな。」
「ギクッ」という効果音が漫画や小説の世界だけでなく、現実にもあるものだとしたら、確実に私の体からはその音が鳴っていただろう。なぜなら、ポーラのその一言は彼女たちに追いつかれるまで、まさに私が考えていたことそのものだったのだから。
「そうだったの。セーラ、ひょっとしたら心配するんじゃないかしら。自分と七海の思いの大きさが釣り合ってないとかで。」
いつもならこういうポーラのノリに乗ってこないはずのマリさんまでもが、私に追い打ちを掛けるような言葉を放つ。この2人は正反対な性格をしているように見えて、こういうときは一体感のある攻撃をしてくるから本当に油断がならない。
「いや、一応ちゃんと返事はしたつもりなんだけど!」
私はささやかな抵抗のつもりでポーラ達に返答する。
「それはセーラの気持ちに対する返事だろ? やっぱりセーラも七海の本当の気持ちを聞きたがってると思うんだけどなあ。」
まったく、ポーラといいマリさんといい、私を一体どうしたいと言うのだろう。いや、その答えは一つしかないし、「それ」をしなければ私の気持ちが収まらないということは自分だって心の中で薄々感づいているのだ。
「そう言えば、これは全然関係ないんだけど、次の寄港地のフォクスロッテには恋人の聖地と呼ばれている山があるそうね。」
「ああ、知ってる知ってる。世界中から恋人が集まったり、そこで告白なりプロポーズをして恋人になったりするんだよな。あれ、こんなところに山につながるロープウェイのチケットが。」
マリさんとポーラのわざとらしいにも程があるセリフの後、ポーラが走りながら2枚のチケットをひらひらとなびかせた。この船の乗組員に枚数限定で配られる特別優待券だ。
「うーん、あたしとマリは仕事で行けなさそうだから、七海にあげるか。」
そう言ってポーラは私の運動着のポケットに、2枚のチケットをねじ込むと、「頑張れ」とでもいいたげな目配せをした。なんだそれは、恋のキューピッドにでもなったつもりか。ただ、くやしいけれども私からセーラに何らかのアクションを起こしたい現状では、そのフォクスロッテの恋人の聖地とやらとロープウェイのチケットは絶好のきっかけになる。
「いや、ふたりともそのわざとらしいお芝居はどういう意味なの。」
素直に「ありがとう」というのもしゃくなので、私は少し照れくさそうにしてチケットを受け取ると、謎のキラキラとした目線を送ってくる2人にツッコミを入れた。この先、これをどう活かすかは私の問題ということのようだった。
「おーい、七海ー!」
そのやり取りが終わったすぐ後、再び私を呼ぶ声が後ろから聞こえてきた。姿が見えなくても絶対に間違えることのないその声は、セーラのものであり、私の胸が高鳴る。
「セーラ!? 先に行ったはずじゃなかったの?」
「えへへっ、私がさっきよりもペースを上げれば、七海に後ろから追いついてまた会えるんじゃないかなと思って頑張ったんだ。」
セーラの脚力をもってしても、そして私がゆっくり走っていたとしても、1周分の差を埋めるためには相当負荷をかけなければならないに決まっている。実際にさっきまで息一つ切らしていなかった彼女も、今は呼吸が荒くなっている。私に会いたい一心でコーラル・マーメイド号の外周を風のような速さで走り抜けてきた彼女を見て、私の決心は徐々に固まりつつあった。そして私は、ポケットの中の2枚の紙を大切にしまった。




