55.あなたは機関の用意をされたし ~You should keep your engines ready.~
「セーラ、私を置いて先に行って!」
「何言ってるのっ! 七海を置いてなんて行けないよ!」
私だってセーラに置いていかれたくなんてない、でもここでセーラに先に行ってもらわなければ、きっと彼女に迷惑をかけてしまうのは明らかだった。私のせいで彼女にこれ以上迷惑をかけるのは、自分の気持ちとしても許せない。だから私は苦渋の決断の末、私を置いていくようにセーラに頼んだ。
「私も絶対に後で追いつくから、だから私を信じて!」
「……わかった。七海がそこまで言うんなら、私は七海を信じるよ。でも、絶対にまた会おうね、約束だよ。」
「うん、約束する。」
こうしてセーラは何度も私の方を振り返りながら駆けていき、やがて私の視界から見えなくなった。残された私の周りには、荒れ狂う波と逃げ惑う乗客の声が……するわけもなく、水平線の向こうまでただひたすらに青く穏やかな海と、ジョギングを楽しむ人々という光景が広がっていた。それもそのはず、ここはコーラル・マーメイド号の船外に設けられたジョギングコースで私は今久しぶりのランニングに勤しんでいたのだから。
セーラが私のことを「この世界で誰にも負けないくらい大切に思っている」と言ってくれた日から、私の世界はそれまでよりも一段と、いや二段も三段も明るく見えるようになった。朝起きても、部屋の掃除をしていても、お仕事をしていても、とにかく日常のあらゆる動作をしていても、彼女の一言が頭をかすめる度に私の心は幸福に包まれた。だってセーラが、私のことを、友達以上の「その先」の存在として見てくれていることがわかったのだ。大切な人に大切に思われているということがこんなに素敵なことだというのを私は初めて知った。……まあ、「その先」が果たして、その、恋人とかそういう関係まで行くかというのは私にはまだはっきりと確信が持てないところではあったけれども。
とにかく、そんなわけだから今の私は何をしていても幸せな気分になれる。その幸せっぷりと言ったら、ポーラから「最近の七海はちょっとおかしい。慣れない船上での暮らしで精神がやられてたりしないよな?」と心配されるレベルだ。ポーラがその理由に気づいていないはずは無いと思うのに、まったく失礼な話だと思う。なぜならあの日、私を避け続けていたセーラの相談を受けて、彼女に「告白」を促したのは他でもないポーラなのだから。
私がマリさんに相談を持ちかけたのと同じタイミングで、セーラはポーラに相談を持ちかけていたらしい。恥ずかしさから私を避けていたけれど、そうやって避け続けるのにも限界が達していたというセーラを導いたのは、ポーラの「たぶん七海はセーラに避けられるのが一番こたえるから、その状態は早めに解消した方が良い。あと、七海はセーラの正直な気持ちが知りたいと思ってるんじゃないか?」というアドバイスだった。「セーラは七海と一緒に寝たことを嫌だとは思っていない」と見抜いたマリさんといい、あの二人の人間を見る目はとても鋭いものがあって、頼もしい反面油断が出来ないとも感じた。
話を戻して、ポーラが心配するくらい常時ハッピーモードの私は、次のお仕事がどんなものであっても楽しくこなせる自信があった。たとえそれが、「客室乗務員は体力勝負、船内のジョギングコースで基礎体力を鍛えましょう」というものであっても例外ではない。
コーラル・マーメイド号の上層デッキには、球技や水泳などの各種スポーツが楽しめる施設が揃っている。ジョギングコースはそのうちの一つで、船内をぐるりと一周するように設けられたそのコースは、はっきりとした長さはわからないけれども、ただでさえ巨大な船体を一周するわけで少なくとも学校の校庭の軽く5周くらいにはなるような気がした。
運動着に着替えた私たち4人は、早速ジョギングコースを走り出す。コースは外側と内側の2レーンに分かれていて、ゆっくり走る人は内側、早めに走る人は外側という風に分かれていた。マリさんとポーラは内側をゆっくり並んで走るようだ。一方で、セーラはやる気満々と言った様子で外側を、序盤からなかなかのペースで走り出す。
船や海を見るのは好きでも、それ以外は基本的にインドア派だった私にとって、ジョギングはそんなに得意な部類では無かった。けれど、あの日、セーラは私に「ずっとそばに居て欲しい」と確かに言ってくれたのだ。だから、私には彼女の隣を並んで走る使命がある。冷静に考えればセーラは別にそういう意味で言ったわけではないことは分かりそうだけど、その時の私のテンションはどうかしていたのでそんなことには気づけ無かった。そして私は外側のコースを普段の自分ではあり得ないようなハイペースで走り出す。
「七海、かなり飛ばしてるけど大丈夫?」
セーラはさすがに息一つ切らさず、私を気遣う余裕さえ見せてくれた。その優しさに私も応じる。
「これくらい全然平気だよ!」
幸いにして、北西回廊と北の大陸を隔てている海峡付近は、涼しい風が吹き抜けてジョギングするにはもってこいの気候だった。波は穏やかで、天気は快晴、周りは一面のオーシャンビューと、ジョギングするには最高のコンディションであり、ただでさえハイテンションな私は快調にジョギングコースを駆けていく。……そう、1周目までは。
ジョギングが2周目に突入すると、やはり自分がセーラと同じペースで走り続けるのは無理だという「現実」がはっきりと顔を出してくる。一向にペースが落ちないどころか、キツそうな顔一つせず、なんなら鼻歌でも聞こえてきそうな様子のセーラに対し、私はすでに満身創痍状態だ。
「……ちょっと休憩しようか?」
私の普通ではい状況を見てセーラが声を掛ける。でも、彼女に付いてきたのは私の判断によるものだ。私がバテているからといって彼女のペースを乱すわけには行かない。
「いや、まだ、だいじょうぶ……」
「明らかに大丈夫じゃないよっ!」
セーラはそのまま内側のレーンに入って足を止めようとする。確かに私が大丈夫でないのは自分でも分かっている。このままセーラと同じペースで走れば、最悪の場合医務室のお世話になることだって否定は出来ない。それならば。
「セーラ、私を置いて先に行って!」
ジョギングコースに私の悲痛な声がこだました。




