18.私はあなたを支援できる ~I can assist you.~
「鏡の世界の人ねぇ……」
上陸用の書類に書かれた乗客の名前が、船に備え付けられた名簿のものと違わないかをチェックするという作業をしながら、私は誰に聞かせるわけでもなく静かにつぶやいた。午後のお仕事は、入港直前で猫の手も借りたい状況になっている事務室のお手伝いだ。しかし、事務室以外にも人手を欲している場所はいくらでもあるので、私たち4人は珍しく別々の場所でそれぞれの仕事に当たっている。次に一緒になるのは夜になることだろう。
先輩客室乗務員は普段私たちにとても優しく接してくれているが、今日はみんな黙々と自分の作業に徹していて会話はなかった。引き続き私は無心で書類とにらめっこする作業に戻る。
事務室に置いてあるハサミは相変わらず使いづらい。今まで特段気にしていなかったことも、「鏡の世界の人」という言葉のおかげか今日はやけに引っかかるように思えた。目の前の単純作業も相まって、そこから私の思考はいろんなところへ飛び火を始める。
そもそも、西の大国とやらが私の元いた国の文化に近い文化を持っているとはいえ、この船は北の大陸を母港にしているせいか、乗客も乗員も、船内サービスもすべて元いた世界では「西洋」と呼んでいた文化に近くなっていて、私一人場違いなのではないか。というか私は本当にこの文化に馴染めるのか。ル・トゥーガで食べたお寿司は美味しかったけど、結局あれ以来お米は食べられてないし。そもそも、「七海」という名前を持ち、自分でも船と海が好きだと自負していたくせに、ちょっと船が揺れたくらいで船酔いにかかりダウンしてしまうなんて、本当は海も船も向いてないんじゃないのか。この世界も、さらに客船という特別な世界も、「私のいるべき世界」ではないのではないか。やっぱり私は鏡の世界の人なんじゃないのか。じゃあ、私のいるべき世界って……?
私の思考がぐるぐると回転し摩擦で熱を出し始めた頃、「この世界」の太陽は西の水平線へと姿を隠し始め、夜が訪れた。いつの間にか私の分の作業も片付いてしまっていたため、私は事務室を後に再び船員食堂へと向かい、夕食をとることにした。みんなの仕事も立て込んでいるのか、船員食堂にセーラ達の姿は無く、私は一人夕食のハンバーグの皿を取り、席につく。
そういえば、こっちの世界に来てから一人で食事をするのは初めてかもしれない。
結局、食事中に誰かが食堂へ顔を見せることは無かった、夕食を食べ終えた私は、仕事中の頭のモヤモヤを引きずったまま、あてどなく船内を歩いていた。最初はセーラの後を追わなければ自室にも帰ることの出来なかった私だったが、今ではすっかり船内のデッキプランを覚えてしまい、こうしてフラフラしていてもとりあえず迷子になることは無かった。
船内後部の重い重いドアを開けると、そこは救命艇などが置かれている作業用の甲板だ。ここは船員専用の区画でありながらも、外の景色を眺めることが出来る上、人もめったに来ないという穴場スポットだと教えてくれたのはポーラだった。甲板から空を見上げると、そこには満点の春の星座がきらめいていた。
船は現在、イルミス港を目指し南へ進路を取っているため、船の後部から見えるのは北の星空だ。私は北斗七星を見つけ出すと、ひしゃくの口を5倍して北極星を探り当てる。これは航海士をしている私の父から教わった技だったが、この世界でも通用するらしかった。星の配置まで元いた世界と一緒だということは大きな発見だった。
「なのに、微妙に違うんだもんなぁ……」
星座の形も、星の距離も一緒、なのに完璧に同じではない。いっそ全く違う未知の世界なら後ぐされ無く新しい人生を送れたのかもしれないのに、微妙な違和感が私をチクチクとさいなむ。
「やっぱり、ここは私の世界じゃないんだね……」
その時、人がめったに来ないはずにも関わらず、重い重いドアの開く音がした。運航部門の船員さんだろうか、客室乗務員見習いの制服でこんなところにいると怪しまれるかもしれない。
「ここにいたんだ!みんな七海の帰りが遅いの、心配してたんだからねっ!」
駆け寄って来たのは運航部門の人では無く、私と同じ見慣れた白いセーラー服に身を包んだ金髪碧眼の少女だった。さっきの独り言が聞かれていたらどうしようか、彼女に気を使わせてしまうことはほぼ確実であるように思われた。
「それと七海、ここは私の世界じゃない、ってどういうこと?」
残念ながら、さっきの独り言はばっちりしっかり彼女の耳に届いてしまっていたようだ。セーラはその整った顔を私の方へと近づけて、私の答えを待っている。
「そうだ、お昼にポーラが七海のことを『鏡の世界の人』って言ったからだよねっ!?ポーラは悪い子じゃないんだけど、そういうところがあるのは良くないよね、文句言ってこなくちゃ!」
「ちょ、ちょっと待って、それは全然関係ないから。」
全然関係ないかというとそうでも無いような気もするけど、ここははっきり否定しておかないとポーラにあらぬ罪が着せられてしまう。とにかく、何らかの答えをセーラに示しておかなければ、彼女とポーラの間に余計な溝を生んでしまいかねない。
「いや、私って、船と海が好きーなんて言っててもちょっと船が揺れたくらいで仕事が出来なくなるくらい弱っちゃうしさ、それにコーラル・マーメイド号はほとんど北の方のお客さんとクルーしか乗ってなくて、私みたいな西の人間は少ないし、お米も食べられないし、いろいろ私の世界じゃないのかなーなんてちょっと思っちゃって……。」
一番最初にしてしまったとは言え、私が別の世界から来たという話を、セーラが私の言うことを信用してくれるようになったタイミングでするのは色々とめんどくさくなりそうな気がしたので、その話題を避ける形で、私は頭の中のモヤモヤを彼女に直接ぶつけてしまった。
「……そんな悲しいこと、言わないでよ。」
セーラがあまり深刻に受け取ってしまわないよう、つとめて明るく言ったつもりだが、彼女にはそう取られなかったようで、セーラはふるふると震えながら言葉をつなげた。
「……そんな悲しいこと、言わないでよ!船酔いなんて関係ないよ、私もポーラも、きっとマリさんだって最初はみんなそんな感じだったよ!西も北も関係ないよ、この船にも数は少ないけどちゃんと西の大国出身の乗員さんは居るよ!お米だってどこかで食べられるはずだよ、たぶん。だってコーラル・マーメイドはこんなに大きい船なんだよ!?」
彼女は碧眼に涙をためながら、両腕をぶんぶんと回してコーラル・マーメイド号の大きさを表現した。
「だから、そんな悲しいこと、言わないでよ……。」
私は軽い口調で明るく振る舞えば彼女にモヤモヤをぶつけてしまってもいいか、なんて思った数秒前の自分を激しく後悔した。セーラはほとんど泣き出してしまっているような様子で、さらに続ける。
「最初は七海のこと、密航者さんなんて疑っちゃったけど、それから迷子の女の子を助けたり、みんなでお寿司を食べに行ったり、いろんなことを七海と一緒に経験できて、七海がそばにいてくれて私すごく嬉しかった。もう、七海のいない毎日なんて想像もできないくらいだって、そう思ってる。」
「セーラ……」
彼女の告白に、ますますさっきの独り言を後悔する。そうだ、セーラにとっての私も、私にとってのセーラも同じくらいに大切な存在なんだ。
「でも、七海がここを自分の世界だと思えないっていうんなら、そう思えるようになるまで、私頑張るから!そして、七海が『ここが私の世界だ』って心の底から思えるようになって、ずっと一緒にこの船で航海したいからっ!」
「だから、だから、今はまだそう思えなくても、そんなに悲しいこと、言わないで……」
セーラの涙ながらの訴えを前に、私は今日一日のモヤモヤがなんだかとてもちっぽけな悩みになっていくのを感じた。周りに左利きの人しかいないから、言葉の微妙なニュアンスが伝わらないから、元いた世界で馴染みのある文化が船の中には見られないから、それが一体なんだというんだ。私は、こんなにも私のことを思ってくれている人が目の前に居るにも関わらず「ここは私の世界じゃない」なんて思っていたのか。涙ながらの訴えが、いよいよ涙だけになってしまいつつあるセーラを前に、私もまた涙まじりに返した。
「ごめんね、セーラ。私もセーラと、みんなのいない毎日なんて想像もできないのに、ちっぽけなことで悩んで、私の世界はここじゃないなんて思ってた。でも、セーラがそれは違うって言ってくれて分かった。だから、もう絶対にそんなこと言わない。約束する。」
私は右手の小指をセーラの左手の小指に絡ませた。この約束の方法がこちらの世界で通用するかは分からなかったけれど、セーラは私の意図を汲み取ってくれ、同じように小指を絡ませてくれた。
「絶対に、約束だからねっ!」
涙声で指切りをする私とセーラの姿を、こちらの世界でも変わらない姿をした北斗七星と北極星が照らし続けてくれていた。