翼
進化は現在時点でその生物に備わっている器官を基盤として進んでいくという生物学の基礎知識を持ち出すまでも無く突然変異や遺伝子操作が行なわれること無しに人間の背中から翼が発生することは無い。
なので自分の置かれた状況に非常に困惑している。
もしもこのまま背中に翼が生えたまま暮らして行かなければならなくなったら少なくとも今迄通りの日常を送ることは不可能である。
膝を軽く曲げ上半身を起こした姿勢で寝台の上にいるのだがその背中には腕を広げた位の長さの灰色掛かった翼が生えている。
指先で触れてみたり抓んで引いてみたりしたところ神経や血管や筋組織が通っているいらしい。
肩甲骨の辺りに意識を集中させ左右のそれを軽く近付けたり離したりすると連動して翼もばさばさと動かす事が出来るようだ。
子供の頃の無邪気な空想としてもしも自分に翼が有ったらと思わなかったかといえば嘘になる。
だがこうして実際に背中に翼が生えてみるとそんな思いは笑止千万な狂妄でしかなく己の奇怪さに当惑するしかない。
こんな姿で街を出歩けば他人から好奇の視線を浴びせられるだろう。
贅沢な悩みに思われるかもしれない。でも何一つも取り柄の無い人間の方が不本意な有能さを持ち合わせた人間より余程良い。
それにしても何故にこのような事になったのだろうか。
翼が生えた事に気が付く直前の行動を振り返ろうとするが記憶が半透明の板硝子様の何かに阻まれている感覚がするだけで全く思い出せない。
じっと頭だけを働かせていたのでは思考が堂々巡りして行くばかりなので取り敢えず背中が開いたままで着られそうな服を身に着け鋼製の硝子障子を開けて露台に出る。
今居る場所は地上十階で手摺りが胸の高さまであるので下から翼を見られる心配は無い。
この建物の前の通りは繁華街。
ここの一階にも雑貨店と定食屋が軒を連ねている。
今はまだ昼前なので人通りは少ないが昼過ぎから夜に掛けては何処から湧いて出るのかと思う程の人手で賑わいを見せる。
このまま思考し続けると沸騰しているのに火を弱めない鍋の中身ように粘性が増して焦げ付くばかりに為りそうなので冷却させることにする。
右腿の隠しから煙草と燐寸を出し紫煙を燻らせていると現状を打破する簡単な方法を思い付く。
何も難しく考える必要は無いのだ。
煙草と燐寸を携帯灰皿に押し込む。
露台の手摺りに脚を掛けるとそのまま跳躍し蒼天に浮かぶ雲の切れ間へと飛び立つ。
ここで目が覚めた。
居場所が無いなら創れば良い。
択一式の試験では必ず正解が予め示されて居る。出題者の意図を読み解けば合格するだろう。
しかし現実の社会では時として既存の枠を超えた発想を持たなければならない。
必ずしも現在する選択肢の中から選ばなくてはならない事はない。
ところで夢の中ではさも当然のように身に着けていた服があるけれどもあの服の構造はどうなっているのだろう。
背中に大きな開口部があるのは確実だが肩や首や腰周りとどう繋がっているのか謎である。




