横死
もうすぐ二歳になる私の子どもはよく歩く。
今日はお昼にうどんを一緒に食べた後、直ぐに昼寝をせず、テーブルや本棚に手をつきながら歩き回っていた。
大丈夫だとはわかっていても転んだり、ぶつけたりして怪我をしてしまわないかと心配になる。
高いところが好きなのか、腕の力がついてから段差を上がっていこうとする。
目を離した隙に浴槽の縁を登ろうとしていたのには心底肝が冷えた。
痛い出費だがベビーサークルを使ってリビングと和室以外には入れないようにした。
ベビーサークルの向こう側を二人で見つめる。
何も無いよ。何も無いよ。と話しかける。
警報の様な洗濯機から終了のアラームで目が覚めた。
あぁ…いつも子どもと一緒に寝ている時間だからうたた寝をしてしまった。
ハッとして辺りを見回すと子どもは一人で音のなるボールを転がして遊んでいる。
刺激しないようにそっと洗面室へ滑り込み、ぐしゃぐしゃの中身を背の高い籠に放り込こんで急いで引き返す。
慌てすぎて籠の底を洗面室のドアにぶつけてしまった。
大きな音がしたからか、母親が消えたからかわからないが、リビングに戻ると潤んだまんまるの瞳で私を見つめていた。
「ママ。眠い。」
顔に出るのを堪えた。
手を引いて和室へ行き布団を敷く。
子どもは一番のお気に入りであるパジャマを来たペンギンのぬいぐるみを抱きしめたまま立っている。
家族でショッピングモールのゲームセンターを通りがかった時、子どもが泣いて欲しがったので若い店員さんに協力してもらって千円で取れた景品だ。
私も主人もUFOキャッチャーが下手だから手前に置いてくれなかったらいくら使うことになったのだろう。
あの店員さんには感謝してもしきれない。
子どもを真ん中に川の字になり頭を撫でて子守唄を歌う。
早く寝てくれないと洗濯物が皺になる…邪な私の気持ちを察したのか寝返りばかりうって中々寝付いてくれない。
効果が薄まってしまいそうだから使いたくなかったが、スマートフォンでヒーリングミュージックを再生して子どもを背後から片肘ついた状態で抱きしめた。
三曲程流れてやっと安らかな寝息が聞こえた。
起こさないように細心の注意を払って立ち上がる。
首の骨を軽く鳴らしてから子どもの顔を見ると、よだれを垂らして天使のような顔をしている。
うちの子は他の子に比べても落ち着きが無いから安心感と相まって尚更のこと可愛く見えてしまう。
いつまでも寝顔を見続けてしまいそうだ。
小さな声で「よし。」と呟いて、リビングに移動し洗濯物をハンガーに通す。
今日は天気が良いのでベランダでシャツ類は干す事にした。
道路脇の街路樹が少し揺れる程度の風とはいえ、マンションの五階だ。
洗濯バサミでしっかりと止める。
時折救い上げるような強い風が吹く事もある。
どんな天気でも洗濯バサミを使わないといけない。
テレビの隣に置いてあるベンジャミンに下着や靴下でいっぱいにしたピンチハンガーをぶら下げた時には14時を回っていた。
子どもを見るとまだ眠っている。
寝返りをうった時にぬいぐるみを手放したらしく、布団の外に転がっていた。
ぬいぐるみを手に取り服を脱がせて、よだれが付いている部分を丁寧に手もみ洗いをし、ハンガーにかけた。
小さいがこれも洗濯バサミでしっかり止めれば飛んで行かないだろう。
ベランダに一枚追加するついでに、ぬいぐるみに消毒できる消臭スプレーをかけて踏み台の上に置いた。
子どもが起きてくる前にお米を研いでしまった方がいい。
頭ではわかっていても焦ったり、慎重になったりしたせいか体が重い。
出産してから休む事が多くなった。
重たい息を吐きながらインスタントコーヒーを入れる。
スティックシュガーを使うか迷ったが、ブラックに飲むことにした。
ソファーに深く腰掛け窓の外ではためくシャツを眺めながら静かに啜る。
「これを飲んだらお米を研ごう。」
半分程コーヒーを飲んだ所でその思考は真っ黒な波の中に消えていった。
コーヒーよりも前から意識は飲まれていたらしい。
そうじゃなかったら窓の鍵を閉め忘れるなんて初歩的ミスをしないはずがない。
私のせいで子どもが死ぬことはなかった。私のせいで死んだのだ。
鍵を掛けていればベランダの前で泣く子どもの声で目を覚ましただろう。
寝ていなければ。
座っていなければ。
洗わなければ。
取らなければ。
行かなければ。
天使だなんて思わなければ。
人生に”もしも”は無い。
わかっているが考えてしまう。
ずっと、ずっと考えてしまう。
主人は慰めてくれたが、自分で自分を許せない。
寂しい想いをしているのだと考えたら居ても立ってもいられなくなる時がある。
一日、二日と時間が過ぎるに連れて焦燥感が目の前で渦巻いて掻きむしっても剥がれなくなる。
眠る度にベビーサークルに手をついて向こう側を見つめる子どもが立っている。
夢の中で目を覚ます。
そしてあの日が始まる。
私は葬儀を終えた時に決意した。会いに行こうと。
◆
マンションに着いたのはいいが、どのマンションが目的の場所なのかわからない。
同じデザインのマンションが三棟、二階建ての駐車場を囲んでコの字状に建っている。
周りを三回もぐるぐると歩いたが、凹んだ場所や補修した場所は見当たらない。
献花や地蔵も当然の様に無かった。
学ランだがこれ以上歩くのは良くないかもしれない。
けばけばしい色のよれたシャツを来たババアに二度も見られたし、肩にぶら下がるバッグが邪魔になってきた。
潮時という事にする。
何か映っていて欲しいと思いながら適当に周囲を撮って隣の公園に止めた自転車へ戻る。
鍵を外し、バッグの中から気の抜けた炭酸ジュースを取り出して、それを飲みながらマンションの上層階を眺める。
数年前、二歳児がベランダに入り干してあったぬいぐるみを取ろうとして転落。
頭部から地面に激突。
大きな音を聞いた一階住民が発見し通報するも救急隊員が駆けつけた時には息をしていなかった。
この程度の話なら新聞の地方欄を飾って終わりだが、ネットに載るからには続きがある。
事故後母親は抜け殻となり、父親が葬儀を取り仕切った。
葬儀後、疲れて昼寝をしていた父親を殺し母親はベランダから飛び降りた。
子どもと同じく頭部から地面に激突した為、このマンションでは頭部がぐっしゃぐしゃになり脳漿と血液を垂れ流しながら子どもを探す霊が現れるという。
よく出来たネットの話だと思いながらも、そんな話が出来上がったマンションというものを見てみたくて家から二十分もかけてここまできた。
おかしさが込み上げてきたので半分以上残っていた炭酸ジュースを飲み干した。
ペットボトルを持て余していると、学ランの男がマンションの下からこちらへと一直線に歩いて来るのを見つけた。
目算で10m位は離れている。
絡まれるのは勘弁して欲しいと思い素早くサドルに跨った。
「藤井!待てよ!」
「クソが。」聞こえないように呟いた。
自転車に乗ったまま声を掛けてきた奴と相対する。
「久しぶり。こんな所で何撮ってたんだ?」
まじまじと顔を見るも覚えがない。
俺と同じ笹の葉が緑色の校章だ。
久しぶりってコイツとどこで会ったんだろう。
「マンションだけど。」
「マンション?地面ばかり撮ってたのに?」
「そんな気分ってところ。お前はここで何してるんだ?」
「いつも見てるまとめサイトでこのマンションの事載ってさ。
見てみたくなったんだよね。」
「へぇ。どういう内容?」
「このマンションに住んでたり、心霊現象が嫌いだったりしたら話さないけどどうする?」
「言ってるんじゃねえか。住んでないから何さ。」
「『Close-edge』っていうサイトに転落死亡事故と無理心中の話が載っていて調べたらこのマンションだったんだ。」
あんなニッチなサイトを見ている奴なんて学年でも俺ぐらいだと思っていたが、世間は狭い。
「趣味の悪いサイトだな。どの部屋なんだ?」
「二番館の左端、五階だ。」
危うく声が出そうになった。
なんで自信満々に断言出来るんだ?
「細かく載っているんだな。」
「いやいや!そこは新聞部だからさ。
更に詳しくネットで調べる方法があるのよ。
あと友達に聞くとかな。
俺が作ってるサイト中々アクセス数あるんだぜ。見てみるか?」
「あぁ。そこまで言うなら見てみたいな。」
俺が興味を持った事が嬉しかったのか電話番号を交換して、メッセージアプリにIDを登録した。
コイツのIDが「wwwatari」で表示名が「渡@ワタリー」だった。
下の名前は分からない。
「ワールドワイドを目指しているのか?」
「そこに気がつくなんてナイスセンス!
俺が集めた真実を元にアフェリエイトや原稿料で生きていたいと思っているぜ。
今時はフリージャーナリスト目指さないとな!
あーあ。信じてないって顔してるなぁ。」
どうも無意識に見下した様な顔をしていたらしい。
笑ってみせた。
「その現場で変な事起きたら信じるよ。」
俺は自転車から降りて鍵をかけてバッグを持って渡が言う場所に向かった。
マンションの前では流石の渡も騒がない。
何度か歩いた場所は他の場所と同じ様に見える。
五階のベランダの位置を確認して落下する子どもを空想して立ち位置を微調節する。
ここに物置や植え込みがあれば助かったかもしれないが、衝撃を和らげる物は何もない。
「藤井が立っている場所辺りじゃないかな。」
「たぶんそうだろうな。」
テレビや小説だと死に際には人生が走馬灯の様に駆け回るらしい。
二歳で死んだ子どもには縁のない話か。
真っ白な走馬灯を考えていたらカシャカシャと安っぽい音がするので渡を見ると俺の事を撮っていた。
「何やってんの?」
「サイトに載せるのは写真が必要だからさ。」
「いやいや。俺が映ってるじゃん。」
「大丈夫。載せる時には黒い目線入れるから。」
「馬鹿だろ。お前。ちょっと見せろ。」
全く気にせず笑う渡からスマートフォンを受け取ると手ブレした写真があった。
勝手にスワイプして他の写真を確認するとどれも似たり寄ったりで俺がボケているか、斜めになっている。
「ジャーナリストになるつもりあるのか?」
「写真は写真家が撮ればいいんだよ。
藤井はスマホでも俺より上手に撮れるのか?」
「…この写真よりは良い。」
自分のスマートフォンを取り出してカメラを起動する。
渡と立ち位置を交代して構図を似せる。
同じぐらいの背丈だから調節するのは楽だった。
ピントを渡の顔に合わせる。
肘が胴に着く様に腕を畳み、スマートフォンカバーをしっかりと持つ。
プラスチックカバーを使っている渡とは違い、俺のは合皮だから滑りにくい。
数枚撮って渡に見せると感嘆の声を上げた。
「流石写真部だな。凄い。」
「普通の事だと思うけどな。」
「いやいや。そんな事無い。
なぁ。サイトに載せる写真を俺の代わりに撮ってくれないか?」
「はぁ?」
「もちろんタダでとは言わない。
サイトでアフェリエイト収入があるから報酬を渡す。」
「自分で撮ればいいじゃん。」
「俺は下手なんだよ。
自分でもわかる。頼むよ。
ページビューとユニークユーザーが欲しいんだ。」
悪い話じゃないが、この渡の事がわからない。
「わかった。じゃあとりあえず試用期間って事でよろしく。」
「おぉ!ありがとう!いやー頼もしい!
撮るのはスマホでもデジカメでもいい。
載せるための画像加工は俺がやるからさ。」
「そうか。じゃあ次はデジカメで撮るわ。」
デジカメでスマホと同じ構図の写真を撮り直す。
次に手前三分の二が道、残り三分の一が三号館になる様な構図の写真、落下予測地点から五階のベランダを見上げる構図の写真を撮る。
サイトに載せる事を考慮してなるべく窓ガラスが映らないようにした。
撮影モードから再生モードに切り替えて出来を確認する。
「初めてだしとりあえずこんなもんだろう。
家に帰ったらデータ飛ばすから見比べてくれ。」
話ながら俺は踵を返した。
察して渡が俺の横を歩き始めた。
「オッケー。新聞部の部室わかるか?
普段俺はそこにいるから直でデジカメ持って来てもいいぞ。
それマイクロSDか?」
「そう。でもマイクロSDはなるべく触りたくないからミニUSBで繋ぎたい。」
「それもあるから大丈夫だ。明日大丈夫なら試すか?」
「そうだな。そうしよう。」
他に確認すること無いか考えた時、後ろから硬い物が落ちた鈍い音がした。
思わず足が止まる。
「急に止まったりして、どうした?」
「何か聞こえなかったか?」
「いいや。…もしかして!」
渡はためらう事無く振り返るが、すぐに笑って再び公園に向かって歩き始めた。
「なんだよ~。ふじい~驚かすなよ~。名演技かよー。」
「うっさい。」
その場の空気が緩み、改めて自己紹介をしながら自転車の元へ戻る。
無防備に話す渡の様子に試用期間は上手く行くような予感を覚えた。
◆
シュンちゃんと待ち合わせして先に着いた事がない。
今日なんて二十分前に来たのにベンチに座って妙に厚い文庫を読んでいる。
流行りのぼっちというやつ?
ゲームが友達とか、本が友達とか…学校ではうまくやっているのだろうか…。
「おまたせ~。ごめんね。待った?」
「いいや。今来た所。買い物って何?」
「買い物っていうか私の代わりに取って欲しいぬいぐるみがあるの。
お金は私が出すからお願い!!」
「マジかよ。お前より上手いとは思うけど自信ないぞ。」
「機械を見て判断していいからさ!」
乗り気じゃないシュンちゃんを引っ張ってゲームセンターへ行った。
目当ては店頭にある大きなペンギンのぬいぐるみが入ったクレーンゲーム。
「これなんだけど・・・。」
んー。と唸りながら仰向けに寝ている一体のぬいぐるみをじっと観察し、クレーン部分を見る。
「アームが強かったら取れるな。
服はこれでいいのか?店員呼んだら後ろにある別な物と交換してくれるぞ。」
ディスプレイスペースにはスパンコールで輝くスーツを着たペンギンと毛皮のコートを着たペンギンが交互に並んでいる。
「このまま、毛皮のコートのやつでいいよ。」
「わかった。」
いつの間に用意していたのか、私が財布を出すよりも早くシュンちゃんは百円を投入してクレーンを動かした。
ぬいぐるみの下を上手く挟んだが、頭は浮かばず垂直近くまで立ち上がって、クレーンから滑り落ち、アクリル板の上で小さく跳ねた。
「これなら上手くいくな。」
何が上手くいくのかわからないが、ためらうことなく五百円を入れて迷わず動かしていく。
一度目と同じところを挟んでまた下だけ持ち上げるのを二回繰り返した。
三回目もペンギンの真ん中を挟むのかと思ったらクレーンは横には動かさない。
びっくりして見ていると降りていくアームの片方が足の部分を突き刺した。
アームとアクリル板に挟まれたぬいぐるみはゆっくりと起き上がり、アクリル板に戻ること無く、自重によって景品取り出し口へと滑り落ちた。
「三回も残ちゃったな。ちょっと待ってろ。」
取ったぬいぐるみを私に押し付けて一人で店の中へ入っていってしまった。
後ろの女の人が立ったまま私を見ている。これは何だか恥ずかしい。
シュンちゃんが連れて来た店員さんは私が持っているペンギンを見てからケースを開けて、スーツのペンギンをセットした。
それからシュンちゃんと二言三言交わして、取り出し口の隣にある小さな扉を開いて機械を操作し、もう一度ケースを開けてペンギンの位置を調節した。
去り際で私に素晴らしい笑顔をして行った。
慌てて笑い返した後に何だったのかと首を傾げていると、シュンちゃんはクレーンを巧みに操り残っていた三回で取ってしまった。
「シュンちゃんすごいね・・・。」
「いや。あの店員さんが手前においてくれたんだよ。最初のやつより近かった。」
「そうなんだ!店員さんに感謝しないとダメだね。」
「つかそのキャラは何なんだ?人気なの?」
「地味に人気。でも、これから爆発的に来るよ。
”無茶振りペンギン”っていうの。この顔がいいよね。
ぬいぐるみの大きさが三種類で決められていて着せ替え出来るのがミソなんだよ。
服だけでも売ってるよ。」
「マジ?すごいな・・・。」
「というわけでちょっとおもちゃコーナーも行っていい?」
「待て。そのまま持ち歩くのは恥ずかしい。袋持ってくるからちょっと待て。」
確かに。さっきの女の人はいなくなっていたが、今度は黒いジャケットを来た男の人が私を見ている。
ぬいぐるみを一つずつ持って、ぬいぐるみの服と自分たちの冬物を見てから一緒に帰った。
家に着いてからゲームのお金を渡し忘れていた事に気がついた。
今度何か奢るか、チーズケーキを作ってあげなきゃな。




