第三章 Fallen Angel 21
那鬼は綾瀬を睨むように見ていたが、突然吹きつけた風とともに掻き消すように見えなくなった。綾瀬は愛美の方を見ずに、もう一度呟いた。
「夜久野真名だけがな・・・」
*
車に揺られているらしい微かな振動。身体が怠い。瞼は鉛でも仕込まれたかのように重く、目を開くことはできなかった。
誰かの腕に抱き締められているような、安堵感だけがある。
「先程は申し訳ありませんでした。もし、あの時綾瀬さんが来てくれなかったら、私は・・・」
紫苑の声は沈んでいる。
「どうせ召還は失敗した筈だ。肝心の名前が思い出せないんじゃな」
綾瀬の声が、直接身体に伝わってくる。愛美は綾瀬の腕に抱かれているのだろうか。
「進歩と言えば進歩だろう。召還を行うだけの呪力が戻ってきたんだ。魔導師だから、魔力と言う方がこの場合正しいのか? まあ、その内記憶も・・・」
沈黙が降りると、不意にラジオから流れてくるらしいピアノの旋律が耳についた。激しい波のうねりを思わせる曲が、沈黙をより深くするようだ。
愛美は、再び意識が薄れていこうとしていることが分かった。
「彼女もいつか、夜久野真名だった時の記憶を思い出すのでしょうか?」
紫苑の言葉に、愛美は薄れそうになる意識を覚醒させようと必死で抗おうとしたが、愛美の意識はピアノの旋律に飲み込まれるように混沌へと誘われる。綾瀬は何と答えるのだろう。
綾瀬は・・・。
「知らない方が身の為・・・だろうな」
どう言う・・・こと。
*
愛美が目覚めたのは、薬品臭い白い部屋の中だった。糊の利いたシーツの清潔なパリッとした感じ。天井の升目を見ながら、愛美は自分が病院に運ばれたのだと知った。
毛布の上に出た剥き出しの愛美の腕から、テープで止められた針と点滴の管が繋がっている。病室には、自分以外の誰かの気配がある。紫苑、それとも東大寺か・・・。
「? 気が付いた・・・」
医者か看護婦かと思ったが、声は声替わり前の少年のものだった。
(誰?)
愛美は身体を起こそうとしたが、その前に制されていた。思った通り相手は小学生ぐらいの少年だった。少年と言うより、ほんの男の子だ。しっかりした態度がなければ、低学年ぐらいにしか見えない体格だ。
「お姉さんは、二十四時間も眠ってたんですよ」
妙に老成した口調だが、見た目とのギャップがあり過ぎて違和感があった。言葉使いは紫苑のように丁寧だが、感情の込められていない形式的な響きを持っている。




