第三章 Fallen Angel 11
雲でも出てきたのかと思ったが、少女が自分の顔を覗き込んでいるのだった。目を開いた大和に、少女は驚いたようだが、濡れたハンカチを差し出してくれた。
「良かったら、使って下さい」
大和が手を出してそれを受け取った時に、少女の指に微かに触れた。少女が驚いたように腕を引っ込める。大和は切れた唇の端に、濡れたハンカチを押し当て痛ぅと呻いた。
「彼の拳は効いたよ。目が覚めたような気分だ」
その言葉に少女は、大和の側に膝を折ると、地面に額がこすれるほど深く頭を下げた。
「ごめんなさい。私の所為です。私さえいなかったら彼女、あんな目に合わなくて済んだのに」
少女は、小さく肩を震わせている。泣いているのだろうか。大和は呻きながら身体を起こすと、少しためらった後少女の肩に手を触れた。ビクリと少女が顔を上げる。
泣いてはいなかった。唇を歪めて、泣くのを必死で我慢している顔だった。
「僕を憎んでるんでしょう。君の家族を奪ったから」
少女は頷こうとしたが、涙が溢れそうになったらしく、ええと答えるだけに留めた。
「とても憎いわ。あなた達さえ現れなければ、私は近藤愛美として、平凡と言う幸せな人生を送れた筈だもの」
小さな一戸建ての気持ちのいい家。仕事一徹の生真面目だが、家族を心から愛している父親と、口うるさくも主婦業に専念し、子供の成長を楽しみにしている母親。
そんな中で伸び伸びと育ち、思春期にありがちな親への反発を持ちながら、守られていることを理解している子供達。
ありきたりで、平凡な日常の繰り返し。波風も、平凡な日常の範囲を越えることはない。平凡な幸せ・・・。
大和の平凡な日々は、両親を失った七才のあの日に終わりを告げた。
「だからと言って、あなた達を殺しちゃ駄目なのよ。そんなことしたら、また繰り返しだわ。憎しみで憎しみを生むなんて馬鹿みたい。それなのに、私何も分かってなかった。人の命を奪うことがどんなことか、人を憎むことがどんなことか・・・」
愛美は自分が嫌になる。
(私、十年前に夜久野の一族とともに滅べば良かったのかな)
夜久野真名の頬を涙が伝ったが、少女はカーディガンの袖で拭うと、怒ったような顔で頭を反らした。気の強いところが瑞穂に似ていると大和は思う。
「もし、人生をやり直すことができるなら・・・。君とはもっと別の形で出会いたかった。彼が言った真実を、那鬼様に確かめてみるよ」
大和は、ふらつきながら身体を起こした。夜久野真名も立ち上がると、大和の腕を支えてくれた。無言だったが、少女の瞳には気遣いが溢れていた。




