第1話
朝が来るたびに吐き気がした。
「あと何日生きるんだろう」
そう思うのが癖になっていた。
生きることが正しい。
そういう固定概念のもと生きてきた。
死ぬことは間違いで、寿命が尽きるまで生きる。それまで厳しいことに耐え、やりたくもない勉強をして、まともに働いて、結婚をして・・・
それが正解だって教わってきた。
もともと僕は、生きることに対して前向きでも後ろ向きでもなかった。
だから、そんな固定概念に疑問を抱くこともなかった。何となく年老いて、一定の年齢を超えたら年金暮らしをし、八十手前でひっそり死んでいくもんだと思っていた。
脚光など浴びず、劇的な何かが起こるわけでもなく、ただ平凡な人生を送っていく、そう思っていた。
決して悪いことじゃない。
しかし、時が流れるにつれて僕の中で生きていくことがだんだんと後ろ向きになっていった。それは空気が入っていく風船みたいに肥大していき、やがて消化できなくなっていた。
十七年生きて気づいた。人生の無意味さ、そして今を生きることの面倒くささに。
そして、未来への不安が僕を学校の屋上に動かした。
その風船は死にたいという明確な感情に変化していったのだ。
授業なんて誰かの正解をなぞるだけの時間にすぎない。
家も、学校も、友達も、ぜんぶ演技の場所だった。
本音なんか吐いたら壊れるって知っていた。
でも本音を抱えたままじゃ、もう生きていけない。
歳をとることにもなんの魅力も感じない。
これからどんどん朽ちていくだけ。薄毛になり、太っていき、加齢臭を放っていく。
骨や歯も弱っていき、色んな病気に罹るリスクも高まる。
その事実に歳を重ねるごとに気づかされていくのが、この世で最も残酷な仕組みなのかもしれない。
僕は耐えられなくなった。
だから、今日、死ぬことにした。
屋上に繋がる階段を一段一段、丁寧に上っていく。
僕は何も考えなかった。考えることすら面倒だ。
やがて屋上のドアの前にたどり着いた。
鍵がかかっていたらどうしようとは思わなかった。もしかしたら、風船が脳まで支配していて思考を停止させていたのかもしれない。
ドアは簡単に開いた。キィ―という鼓膜を叩く嫌な音を立てて。
外は僕の心に反して快晴だった。
春の心地よい風に小鳥のさえずりが吹かれていた。
いや、訂正する。僕の心に反した空じゃない。つまらない人生を終わらせられるのだ。そう思えば僕の心によくそぐっている。
人生は苦悩の連続だ。
逆にいえば、自殺は別にネガティブな行動じゃない。
こんなことを思う僕は間違っているのだろうか。
そんなことをよく思う。
正解なんてない。だから僕の価値観も大人たちの価値観もきっと正しい。
人間、いや生物は皆、死と向き合う時期が必ず訪れる。
僕は、今がその時なのだ。
数十メートルほど歩き、屋上の柵に触れた。柵は胸のあたりできちんと整列し、高校生の身体能力では、ゆうに飛び越えられる位置にあった。
別にいじめられているわけでも、体が不自由なわけでもない。
ただ、生きる意味や生きる楽しさを見い出せないだけ。
「そんなことで死ぬな!」と誰かの怒声が聞こえてきそうだが、じゃ死んでもいい理由ってなんだ?
満場一致で死んでもいいと言える理由なんてあるのだろうか?
いいや。ない。
だから、どんな理由だろうと死んでもいい。
そう思えることで僕はいつも楽になれた。
見下ろせば、ひとつの終わりがずいぶん遠慮がちにこちらを見上げていた。
足元に風が集まっている。まるで重力が僕を口説いているようだった。
死ぬのは怖い、でも生きることはもっと怖い。
どちらにも勇気が要るのなら、一体どっちを選べばいいんだろう。
生きることはなんて不条理なんだ。
僕は、笑うことも悲しむこともなく、ただロボットのように僕を現世に引きとめているものを飛び越えようとした。
柵に足を引っかけたその時、僕の鼓膜に何かが飛んできた。
それは、誰かの声だった。
「ちょっと!なにしてんの!」
驚き振り返る。
そこには、クラスメイトである花咲月歌が大きく肩を揺らして立っていた。
「な、なに?」
動揺を隠せなかった。
死のうとしてることがバレていないことを期待した。
バレていたら色々面倒くさそうだ。
「なに、じゃないよ!今、死のうとしてたでしょ!」
僕の期待はあっけなく霧散した。
僕はあまりの驚きで、固まってしまった。
まさか、こんなところで金縛りになるとは。
「はやく、柵から離れて」
彼女がつづけて言った。
しばらく彼女の指示をシカトしていたら、彼女はスタスタと近づき、僕の手を引いて屋上の真ん中まで移動させた。
向き合って黙って彼女をみる。
彼女は意外にも柔らかい表情をしていた。
顔を見て、彼女の思考を考えてみることにした。
でも、よくわからなかった。
今になって、なぜ彼女が屋上にいるんだろうという疑問が頭をもたげた。
口に出そうと思ったけれど、彼女の声によって阻止された。
「死にたくなる時もあるけどさ、もう少し生きてみない?せっかく健康に生まれたんだしさ、もったいないよ」
さっきの威勢はなくなり、彼女は少し照れたように上目遣いで言った。
どう答えていいかわからなかったが、言葉を発さずにただ頷いた。
なぜ頷いたかは自分でもわからない。
彼女の言葉に納得したから?それは違う。
彼女の瞳がまっすぐだったから?それも違う。
本当にただ何となく。
「・・・・じゃ、もういい?」
沈黙が続いたので会話が終わったとみなした僕は、彼女にそう告げて彼女の返事を待たずにドアの方へ歩き出した。
「ちょ、ちょ、ちょっと待って!如月くんがこのまま死なないか、私監視する!」
彼女の思い付きのような言い方に歩みを止めて答える。
自殺を止められて少し苛立っていたのかもしれない。
「もう死なないから。余計なお世話だよ」
「いいや!信じられない!」
高らかに発せられた彼女の言葉。
それは春の空に吸い込まれていった。
「とりあえずさ、屋上から出よ。先生に見つかったら始末が悪いし」
僕は君に見つかって始末が悪いな、と思った。
もちろん思っただけで口には出さない。
彼女に促されて屋上を出て、階段を下る。下駄箱に着き、並んで上履きから靴に履き替える。彼女は器用に靴紐を縛り、立ち上がって先を歩く僕に並んだ。
「さーて、これからどうしよっか~」
「・・・・」
「んー。ゲーセンに行くのもいいし、映画見るのもいいしね~」
「・・・・」
「ちょっと!聞いてるの?」
面倒くさい。
「ああ。ごめん、無視するところだった」
「百二十パーセント無視してるよ!」
「それ何パーセント中?」
「あっ!パフェリゾートに行きたい!」
「どうぞ、ご自由に」
「何言ってんのよ!如月くんも行くんだよ!」
「僕は帰るよ」
「ふむふむ、いいのかい?私を野放しにしちゃって」
隣をみる。嫌らしい笑みを浮かべた顔があった。
彼女はクラスで人気者。
つまり、自殺していることが言いふらさせたら、それこそ本当に始末が悪い。
こういう時は変に逆流しない方がいい。
「はー。わかったよ」
彼女は、「じゃ、決まり!」とガッツポーズをした。
僕は仕方なく、彼女の歩幅に合わせて歩くことにした。
空は、ラムネ色からオレンジ色に顔を変えつつあった。
制服姿で異性と歩くのは実に初めての体験で、僕の顔もややオレンジ色に変化していたのかもしれない。
今日の空はいつになく僕にそぐっている。
店内に入り店員さんに「何名様ですか?」と訊かれ二名席に通された。店内は空いており、かかっているBGMがよく聞こえた。席に着くなり、店員さんが水を持ってきてくれたタイミングで彼女は、パフェタワーを注文したので僕は透かさず、彼女の注文に水を差した。
「ちょっと、パフェタワー?そんなに食べられないし、そんなお金持ってないよ」
「お金は私が払うよ。大丈夫!二人で食べれば完食できるよ!」
間髪入れず、店員さんが確認のために注文を復唱した。
「では、パフェタワーお一つでよろしいですか?」
「お願いします!」
彼女はニコニコと店員さんを見送った。
反対に僕は、冷たい視線を送る。
「どうしたの?怖い顔して」
彼女は店員さんを見送ったニコニコのまま、水を一口飲んだ。
「そうか、僕への心配は建前で、ようはパフェタワーが食べたくて、僕を無理やり連れてきたわけね」
無理やり、の部分を強調して嫌味っぽく言った。
「人聞き悪い言い方しないでよ!如月くんも甘いもの食べたら死にたくなくなるよ」
「僕への心配が建前ってことは否定しないんだね」
「心配してほしかった?でも、本当に心配してるよ~!」
「本当に思っているなら、なんで吐き捨てるように言うんだよ」
彼女はへらっと笑った。
「如月くん、一人っ子っぽいよね。兄弟は?」
「一人っ子に見えることがプラスなのかマイナスなのかわからないけど、兄弟はいるよ」
「上?下?」
「上も下も」
「え!真ん中! 言われてみれば真ん中っぽい気がする」
「嘘つきは泥棒の始まりだよ」
「へーいいなぁ兄弟。私もお兄ちゃんほしかったなぁ」
「君は一人っ子なんだ。そのわがままからよく見てとれるね」
できるだけ嫌味を込めていってみると、彼女がねめつけてきた。
僕は口角だけ上げた。
そんな話をしていると店員さんが大きなパフェを持って現れた。
「お待たせしました~。パフェタワーでございまーす」
パフェが僕らの目の前に置かれる。
店員さんは、スプーンとフォークが二セット入った細長い入れ物をテーブルの端に置き、伝票と笑顔を残し去っていった。
僕は、その巨大な甘味に圧倒された。
ガラスの器にこれでもかと盛られたアイスとフルーツとホイップ。甘いものが得意ではないのでその量に少々食欲を失う。
彼女はスプーンを手に取ると、「ね、生きているうちにしか食べられないでしょ?こういうの」と言ってクリームを頬張った。
映画の主人公が言えば、意味深に聞こえるセリフだが、彼女が言うのだからただの戯言だ。
「くー。あまくておいしい~!」
彼女はクリームの美味しさにうっとりしている。
「ほら!如月くんも食べなよ~」
僕がふたたび金縛りにあっているのを見かねて、彼女はスプーンを差しだしてくれた。
しぶしぶ受け取り、一口だけすくった。
溶けかけのバニラの甘さが、ほんの少し胸をあたためた。
「アイスってなんか今しか食べられない感じするよね」
「今?」
「うん。すぐ溶けるし。あったかい部屋だとあっという間」
「だからなんなの?」
彼女の言おうとしていることがよくわからない。
「だから好きなの」
そう言って彼女はちょっとだけさくらんぼを見上げた。
「私さ、こういうの食べたことないんだよね。途中でいつもお腹いっぱいになるのがオチじゃん?それでも何か頼みたくなるんだよね」
「無駄じゃない?」
「うん、無駄だよ!でも、なんか好きなの。意味のないことって」
テーブル越しに笑うその顔は、どこまでも明るくて、どこまでも遠く見えた。
そこで思った。
僕と彼女とでは、まるで違う世界を生きている。
彼女の価値観を少し羨ましく思った。
意味がないことが好き。
僕は全ての事柄に意味を見出さないと気がすまない。
ひと口目の甘さがまだ舌の奥に残っていて、僕の中の何かをほんの少しだけ軽くした気がした。
気がしただけだ。
パフェを半分ほど減らしたところで彼女が話題を変えた。
「如月くんは趣味とかあるの?」
「強いていえば、絵を描くことかな」
「え!意外。どんな絵を描くの?」
彼女は興味津々と言った様子でさらに尋ねてきた。
「アクリル絵の具で描くことが多いかな」
「へー。アクリルなんだ。風景画?」
「うん。風景が多いかな」
「えー!人物は書かないの?」
「描く人がいないからね」
なにか反応するのかと思ったが、彼女はそのまま一口生クリームを食べた。目を細め、生クリームの一口に美味しさを表す。
じっくり味わい飲み込んだところで再び口を開いた。
「じゃさ!私を描いてよ!」
「私を描く?」
「そう!風景と私」
「つまりモデルをやりたいってこと?」
「うーん、モデルというか・・・如月くんの絵の登場人物になりたい!」
これまた、思い付きのような発言。
言われて、今度こそ唾棄してやろうかと思ったけれど躊躇った。
絵は好きだ。
いい練習になるかもしれない。
いやでも、待て。僕には死ぬという予定があるじゃないか。
押し黙っていると、暗黙を了承と捉えたのか彼女は喜んだ。
「おー!いいのね!じゃ決まり!!改めてよろしくね!如月くん!」
勝手に話が出来上がり一人で盛り上がる彼女。
「は、はぁ」
そんな間抜けな返事に彼女はまた笑った。クラスでもそう、彼女はいつも笑っている。どうしてそんな弾けた笑顔ができるのだろう。こんなつまらない世の中で。
僕にはさっぱりわからなかった。
生きることがそんなに素晴らしいのか。
僕は何も言えなかった。
喉の奥が詰まって、ただ彼女の笑顔を見ていた。
まるで、自分とは別の惑星の住人を見ているようだった。
たぶん、彼女の中では生きるということはシンプルで、まっすぐなものなのかもしれない。
でも僕は、そんなふうに世界を見る気をなくしてしまった。
悲しいことだ。
「もう、むりー!」
彼女はスプーンをそっとグラスの縁に立てかけた。
パフェの底に、ほんの少しだけ溶けかけたアイスと、飴色になったゼリーが残っている。
「完食できるんじゃなかったの?うーくるしい」
僕は口の中に残った甘さを冷たい水でやり過ごす。
「でも、むしろよくここまで食べたよ」
「やっぱり、生クリームの壁は厚かった。世の中甘くないねー!」
「パフェだけにね」
僕の言葉に彼女はお腹を押さえ、くったりと肩を落としながら、うはははと豪快に笑った。
少し休憩をはさみ、どちらからともなく立ち上がり、彼女は伝票を持ちレジに向かった。
先にお店を出ると外にはお日様の姿はなく、黒いくれよんで塗りつぶしたような空が張り付いていた。
ほどなく、彼女がお店から出てくる。
「帰ろっか」
彼女のかけ声でふたり並んで歩いてきた道を戻る。
彼女は時折、小さく鼻歌を口ずさみながら歩いていた。
少し肌寒い四月の風が頬を撫でる。
僕らの地元は盆地で、夏は暑いし冬は寒い。
まったく厭になる。
すると隣を歩いていた彼女が突然スキップをし、僕より数歩先を進んで振り返った。
なにかと思って僕は首を傾げる。
「私、ここが好き。秩父っていいところじゃない?」
後ろに手を組んで共感を求めてきた。
「そうかなぁ、僕は好きじゃないな。夏は暑いし。冬は寒いし」
「えーいいところじゃん。空気はきれいだし、水は美味しいし、星もきれいだし、人もいいし!私はここに生まれたことを誇りに思う!」
小ぶりな胸を張り、両腰に手を置いて仁王立ちをする彼女。
彼女はつづけた。
「私、この前東京に行ったんだけど空気が汚くて、早く帰りたいっ!て思ったもん!」
それは敏感すぎないか?と思ったが、嗅覚は人それぞれなので黙っておいた。彼女は言い負かしたような顔をする。
その後、僕と彼女とで地元のいいところと悪いところを言い合った。
秩父は春夏秋冬、いつでも自然を楽しめると彼女は主張した。
僕は、夏は暑いし、冬が寒いことのデメリットを説いた。
やがて話は逸れていき、好きなものと嫌いなものの話に移っていった。
「それなら君はなにが嫌いなの?」
「私?んーつき!」
「つき?つきってあの空に浮かんでる?」
「そう!」
「そっちの方が珍しいよ。名前に月が入っているのに」
「そうなんだよね。好きになりたいんだけど」
僕達は高校生の男女として節度な距離を保って歩いていた。けれど、彼女からはリンスなのか洗剤なのかソフトでほのかにグレープフルーツの香りが漂ってきた。こういう匂いを自然と纏えるからこそ星を愛し、水を愛し、地元を愛せるのだろうか。
月が嫌いなのはよくわからないけれど。
そんなことをとりとめもなく考えていると学校に着いた。
「じゃ、ここで!今日は付き合ってくれてありがとう」
彼女はぺこりと頭を下げる。
ショートカットの髪の毛が目の前で揺れる。
「絵の話、ちゃんと覚えておいてね!」
「あ、ああ」
「こらー!もう忘れてる」
「いや、ごめん」
「じゃ、またね!私が死ねまで死なないでね!」
前代未聞の捨て台詞を吐いて、くるりと身を翻し遠ざかっていった。
彼女の頭上には無数の星が、彼女の鼻歌に合わせるように光っている。
あんな彼女だから、不思議と秩父の星空が似合っていた。
どうしてだろう、胸に肥大していた風船が少し小さくなっているような気がした。
人間は意外と単純なんだなと思った。
そんなことをぼんやり思っていると、いつの間にか彼女の姿が見えなくなっていた。
それはまるで灯りが消えるようだった。




