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国の骨  作者: 清河逢真


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第十七章 眠っていた優先帯

 未明の空調は、眠気より先に喉を乾かした。


 東都技研・統合基盤棟の隔離検証フロアは、始業前の白さをまだ整えきれていなかった。夜通し回した筐体の熱が床際に薄く残り、その上を乾きすぎた風が撫でていく。窓の外では、東都の高層線が夜明け前の灰に沈み、遠い車道の光だけが細く流れていた。向坂凌はジャケットの前を開けたまま、中央卓のサンドボックス端末へ身体を寄せた。


 画面には三つの結果窓が並んでいる。左が障害再現条件。中央が復旧候補列。右が切替後の保全配分。意味を読もうとする前に、向坂の目を刺したのは並び方だった。


 【神港中枢決済束 復元候補先行】

 【中央港保全系 優先維持】

 【沿岸燃料供給 同期回復待機短縮】


 その下に、黄色い線が三本、同じ幅で遅れていた。


 【小児用抗痙攣薬補給 再審査】

 【内陸透析補液 後順位遷移】

 【個別指定緊急搬送 経路保留】


 再現条件は同一だった。海底線障害の規模も、港内制御網の負荷も、同期の乱れ方も揃えてある。なのに、前へ出る束と後ろへ落ちる線だけが、毎回きれいに同じ側へ寄る。


 向坂は中央窓の一行を指で叩いた。


「またこれか」


 横の補助卓で篠原奈津が顔を上げる。前髪を無造作に留めただけで、夜勤明けの目をしていた。だが端末を叩く指だけは鈍っていない。


「今の走行系にはない並びです。現行の復旧優先なら、ここまで同じ偏り方しません」


「自然故障でもしない」


「はい」


 篠原は比較窓を一段掘った。同期の崩れ方そのものは汚い。欠損もある。再試行痕も混ざる。そこまではいい。気持ちが悪いのは、そのあとだった。崩れたものを拾い直した段から先だけが、不自然に整っている。抜け方の癖まで揃っていた。


「あの日と同じです」


 篠原が言った。


「切断面だけ真っ直ぐだった時と」


 向坂は返事をしなかった。言わなくても同じものを見ていると分かっていた。初動日の朝、南西海域第一海底線の瞬断前後で見た再同期記録もそうだった。崩れたはずのログの端だけが、鋏で合わせたみたいに揃っていた。自然障害のあとに残る汚れ方ではない。誰かが一度ほどいて、別の順番で積み直したような整い方だった。


「結果だけ先に出せ」


 向坂が言う。


「説明欄は閉じろ。復旧候補列と切替後だけ」


 篠原が従う。余計な凡例が消え、白い画面に配分結果だけが残る。


 先に生き残る束。


 静かに後ろへ落ちる線。


 理由が付く前から、順番だけが見える。向坂はそういう画面が嫌いだった。数字の上ではまだ持っているから、あとで誰も責任を引き受けない。だが、遅れる側にはいつも人がいる。病院。地方便。内陸の補給。名前を呼ばれないまま後ろへ回される線だ。


「互換層、休眠参照まで下ろせますか」


 篠原が訊いた。


「落ちる前なら」


「落ちたら」


「痕だけ拾う」


 篠原はうなずき、補助キーボードを引き寄せた。乾いた打鍵音が、冷却機の低い唸りの上を細く跳ねる。向坂は立ったまま、画面の黄線がもう一本増えるのを見た。今度は地方病院向け輸液束だった。変動は小さい。だから余計に悪い。大きく崩れないまま、先に弱い側だけが擦り減る。


 比較窓の下段で、短い文字列が現れては消えた。


 【pri_map_legacy.tmp】

 【ref_ot3】

 【hold_f47──】


 最後は途中で欠けた。向坂は画面へさらに身体を寄せた。


「そこ、もう一回」


「今やってます」


「説明欄は要らない。呼び出し痕だけ残せ」


 篠原が別窓を開いた瞬間、右端の結果窓がひとつ白く明滅した。切替後の保全配分が再計算され、最上段の神港中枢決済束だけが先に緑へ戻る。その下で、小児用抗痙攣薬補給の黄線が一段沈んだ。


 向坂は小さく息を吐いた。


「ただの復旧優先じゃない」


 それだけ言った。まだ意味の名前までは付けない。付ける前に、偏りだけが先に身体へ入ってくる。前へ出る束。沈む線。毎回同じ汚れ方。同じ呼び出し痕。


 枝だ、と向坂は思った。


 生きたまま眠っていた別枝が、非常時だけ起きている。


 閉じる時は、音より先に一覧から人が消える。


 端末の右上が小さく震えた。共同検証班・一時権限変更。いつもの通知文言だったが、一覧を開いた瞬間、篠原の名前だけが班から落ちていた。


「早いな」


 向坂が言うと、篠原は画面を見たまま笑わなかった。


「まだ保存前です」


「だからだろ」


 ガラス扉の向こうに保安が二人立つ。続いて霧島沙映が歩いてきた。白い照明の下で、顔色だけが少し悪い。寝不足のせいではないと分かる顔だった。


「ここから先、共同封鎖扱い」


 扉越しに言う。


「深層互換層の参照は上で持つ。共同検証班の権限は切替済みです」


 篠原が立ち上がりかけて止まった。


「私、まだ外へ出してません」


「知っています」


 霧島は即答した。


「出したかどうかではない。見たかどうかで切られる線がある」


 その言い方に、向坂は顔を上げた。前にも聞いた言い回しだった。福原でも、京都でも、深い棚に触れた側から先に外される。違う組織のはずなのに、似た順番で人が切られる。


「共同管理線そのものを守るため、って説明か」


「説明ではない」


 霧島は短く返した。


「理です。ここで互換層の深部まで触らせ続けたら、上はもっと広く閉じる。そうなったら、あなたたちが今見えている断片も消える」


 向坂は何も言わなかった。言えば長くなる。理は分かる。だから腹が立つ。


 霧島が続ける。


「全部を守れない時の枝だった。港を先に持たせるための」


「そのために地方と医療を落としてもか」


「落としていいとは言っていない」


 霧島の声が一段だけ硬くなった。


「でも、広域で崩れる時、何も切らない前提では作られていない。悪意でなくても、切断を伴う保全はある」


 長い説明ではなかった。それで十分だった。単純な隠蔽ではない。先に守るものを決める理が、もっと深いところにある。それ自体が余計に悪かった。悪意でなくても、人は後ろへ回される。


 保安が扉を開けた。篠原の端末はもう白く落ちている。共同検証班の共有欄も消えた。


「私物だけ持ってください」


 保安の一人が言う。


「館内端末は凍結です」


 篠原は机の脇の薄い鞄を取ったが、すぐには動かなかった。視線だけが中央画面へ残っている。黄線がまだ消えていないからだ。


「向坂さん」


「喋るな」


「喋りません」


 篠原はかすれた声で言った。


「でも、左下だけは見てください」


 向坂は画面の左下を見た。互換参照の補助窓に、数秒だけ短い照合列が残っている。


 【OT3】

 【F47】

 【sync_hold】

 【9c-41-ae──】


 すぐに灰色へ変わる。だが、見えた。


 篠原は保安に促され、扉へ向かった。通り過ぎる瞬間、立ち止まらずに言う。


「一回目と同じです。崩れたあとが、きれいすぎる」


「分かってる」


「今回は、そのきれいさに順番が入ってます」


「分かってる」


 篠原はそれ以上言わなかった。扉の向こうへ出る時、社員証を読み取り部にかざしたが、乾いた拒否音が鳴った。もう戻れない音だった。彼女は顔色ひとつ変えずに社員証を下ろし、そのまま保安の横を通っていった。怒ったり泣いたりする段を越えた人間の、妙に静かな歩き方だった。


 霧島は扉の脇に立ったまま、向坂へだけ視線を残した。


「あなたの権限も長くは持たない」


「何分ある」


「知らない」


「知ってる顔だな」


「知っていても言えない顔です」


 霧島は言い切った。


「向坂さん。今ここで深く掘るのは、正しいかもしれない。でも、正しいほど広い線が死ぬ時もある」


「もう死にかけてる線がある」


「知っています」


 霧島は一歩も引かなかった。


「だから止めに来たんじゃない。止まる前に、あなたが何を持つか見に来た」


 それだけ言って、彼女は保安と入れ違いに外へ出た。扉が閉まる。電子錠の音が、部屋の中身まで別のものに変えた。


 残り時間は、画面の隅より指の冷えの方が正確だった。


 向坂は自席へ戻らず、中央卓のローカル領域を開いた。上の封鎖が完全に降りる前に、自動退避された断片鏡像が数十秒ぶんだけ残っている。足りるかどうかではない。足りるしかなかった。


 画面の左端でアクセス権限の帯が黄色から橙へ変わる。個人参照・監査対象。もう長くない。


 向坂はさっき見えた照合列を打ち込んだ。


 【OT3】

 【F47】

 【sync_hold】


 応答は一拍遅れて返った。現れたのは完全な仕様ではない。枝の影だ。現行制御の下に張りついた休眠参照。非常時だけ起きる別枝の、切れ端。


 【分岐名断片 OT3-F47】

 【起動条件断片 line-loss / sync-rebuild / hold-market】

 【保全優先候補 core-port / fuel-coast / settle-main】

 【照合片 9c-41-ae-7──】


 向坂は説明欄を開かなかった。そんなものを読んでいる時間はない。必要なのは結果と、同じ汚れ方をする呼び出し痕だけだ。


 右の結果窓を走らせる。


 同じ障害条件。


 同じ負荷。


 同じ海底線損失。


 それでも先に緑へ戻るのは、港の中枢側ばかりだった。逆に押し下げられているのは、地方医療補給、内陸小口便、個別指定搬送。これまで港や現場で見えていた異常が、そのまま技術の底へ降りてくる。


 向坂の喉が乾いた。


 古い。


 しかも、死んでいない。


 誰かがこの危機の最中にその場で書き足した枝ではない。もっと前から、使われていないように見せて残してあった回路だ。広く崩れる時、太い束と港の骨を先に持たせる。そのために、細い線は遅れてよいものとして扱う順番。


 橙の帯が赤に変わる前に、向坂はローカル出力を開いた。社内端末から外へそのまま投げれば監査が走る。だから印字形式を変える。保守機器点検票の体裁へ落とし、枝名と照合片を点検コードの欄に埋め込む。


 【OT3-F47】

 【hold-market】

 【9c-41-ae-7】


 全部は要らない。全部持てば消される。外で照らせるだけの断片でいい。


 熱感紙が細く吐き出された。薄い紙片は、手に取るとすぐ冷たくなる。向坂はそれを二つ折りにし、名札ケースの裏へ差し込んだ。端末ではなく、紙の方を残す。上が切る時、一番遅く残るのはいつもそういうものだ。


 同時に、画面右上へ通知が出る。


 【向坂凌】

 【深層参照権限停止】

 【隔離検証環境利用一時凍結】


 向坂は通知を閉じなかった。閉じる必要がなかった。もう読めている。


 背後で扉が開き、保安が戻ってきた。さっきと同じ二人だったが、今度は余計な言葉を持っていない顔をしていた。


「向坂さん」


「分かってる」


 向坂は端末から手を離した。画面はまだ開いたままだ。結果窓の黄色い線が一本、細く点滅している。小児用抗痙攣薬補給。さっきから消えていない。


 保安のひとりが言う。


「機器から離れてください」


「離れるよ」


 立ち上がる。椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きかった。隔離検証室の空調は相変わらず乾ききっていて、熱を持った筐体の匂いだけが夜勤明けの室内に残っている。窓の外では、東都の空がようやく薄くなりかけていた。


 向坂は最後に一度だけ、中央画面を見た。


 【復元候補先行】

 【後順位遷移】

 【経路保留】


 誰が先に生き残り、誰が静かに遅れるかが、言葉の前で決まっている。


 向坂は名札ケースの裏に入れた紙片を指で押さえた。薄い熱感紙は体温ですぐ柔らかくなる。だが、字までは消えない。


「どこまで見たんですか」


 若い方の保安が、思わずというふうに訊いた。


 向坂は答えなかった。代わりに、端末の黒く落ちた画面を見た。もうそこには何も映っていない。だからこそ、見えた分だけで足りる。


 足りるだけの断片を持った人間から、たいてい先に外へ出される。


 向坂は歩き出した。電子錠が背後で乾いた音を立てる。検証室の白さはすぐ背中の向こうへ引いたが、名札の裏の薄い紙だけが、そこにまだ枝が眠っていた証拠として残った。



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