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国の骨  作者: 清河逢真


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第十六章 伏せた綴り

 鍵束の触れ合う音が、廊下の静けさに先に傷を入れた。


 久世邸の西廊下は、夕方になると板の冷えが足袋越しに上がる。障子の外では雨こそ落ちていないが、庭の石は昼の湿りを残し、薄い風が松の枝先をわずかに擦っていた。綾乃は書斎から出たところで足を止めた。廊下の曲がり角に、式部院の事務補助を兼ねて出入りしていた槙島が立っていた。三十代の終わり、痩せた肩に濃紺の外套が似合う男だったが、今はその襟元だけが乱れている。手には布に包んだ鍵束と入棟札。どちらも、返す時にしか持たない形で握られていた。


「どうしました」


 綾乃が訊くと、槙島は一度だけ視線を下げた。


「史料棟の補助権限を外されました」


「いつ」


「今、通知が来ました」


「理由は」


「整理前資料の照合手順違反、と」


 言い方が整いすぎていた。整いすぎているから、実際の理由が別にあると分かる。昨日まではまだ、院の内側の慎重さだと思えた。だが今日は違った。何に触れたかより、誰が触れたかで線が閉じている。


「あなたが開いたのは目録札だけでしょう」


「そうです」


「本文ではない」


「はい」


「それでも外す」


「それでも、です」


 廊下の先で、澪が湯呑を載せた盆を持ったまま止まっていた。近づかない。聞かない。だが、聞こえている。家の中の空気が、もうそういう空気だった。


 槙島は布包みを両手で持ち直した。


「今から式部院へ返しに行きます。館内端末も、今夜で切られます」


「誰の指示ですか」


「文面上は副主務官です」


「文面上は、ですね」


「はい」


 綾乃はそれ以上訊かなかった。訊けば名が増える。名が増えれば、その分だけ人が沈む。だが、沈ませないために止まる段も、もう過ぎていた。


「車を回します」


 澪が静かに言った。


 綾乃は首を振った。


「要りません。私も行きます」


「お一人で出られる件ではありません」


「一人で行く件に、今からするのです」


 槙島の手の中で鍵束がもう一度鳴った。小さな音なのに、やけに硬かった。綾乃はそれを見たまま思った。継続は、空白を恐れるための語だったはずだ。壊した後に何が散るか分からないから、先に繋ぐ。その考え自体を、今も間違いだとは言い切れない。だが、繋ぐための床板の下に、人命を切った記録が入っているのだとしたら、その継続は何を持たせてきたのか。


 綾乃は書斎へ戻らず、廊下の柱に掛けてあった薄灰の外套を取った。


「槙島さん。返納は私の前でしてください」


「見届けるおつもりですか」


「違います」


 綾乃は袖へ腕を通した。


「誰の手から、何が外れるかを見ます」


 式部院史料棟の地下閲覧室は、暖房が入っていても指先だけが冷えた。


 外套を脱いでも寒さが抜けないのは、温度のせいではない。古い紙と乾いた木、金具の錆び、薬液の薄い匂い。そういうものが、人の呼気だけを浮かせて、体の芯へ別の冷えを入れてくる。天井の低い通路の先、第二閲覧室は卓が三つしかなく、灯りは白すぎるのに影が薄かった。影が薄い場所ほど、人は小さくなる。


 御厨宗親は奥の卓にいた。灰色のカーディガンに、いつもの細い眼鏡。席を立たない。代わりに、卓上の札と綴り受渡簿だけを、指先で静かに揃えた。


「補助権限の返納は見られましたか」


 挨拶より先に、そう言った。


 綾乃は椅子を引かなかった。


「ご存じだったのですね」


「今日のうちに閉じるだろうとは」


「閉じたのは人です。棚ではありません」


「人が閉じるから、棚が残ります」


 穏やかな言い方だった。穏やかなまま、逃げ道を狭める時の声だった。


 卓の脇に、槙島が立っていた。もう院内側の札は外している。胸元が妙に軽く見えた。彼は何も言わず、鍵束と入棟札を黒塗りの盆へ置いた。金属が盆に当たる音は短く、乾いていた。返納の印は押されなかった。代わりに、別の職員が横から紙片を差し入れ、回収控えだけを持っていく。名前も告げない。告げない方が、責任が散るからだ。


 綾乃は、その一連の動きを見届けてから座った。


「本文は求めません」


「でしょうね」


「綴りだけ見ます」


「綴りだけで足りますか」


「足りないでしょう」


 綾乃は御厨を見た。


「足りないと分かったうえで、まだここに来ています」


 御厨は一度だけ頷き、手元の札束から三枚を抜いた。文書ではない。綴り番号札、受渡簿の複写、閲覧導線の照合票。それだけだ。だが、それで十分だと分かる重さがあった。


 最初の札には、細い字でこうある。


 【乙三区分 統優付第四十七綴 第二冊】


 次の札には旧綴りの参照が付いていた。


 【旧援護課別表 避難・医療補給二次配分 抄出参照】


 綾乃の視線がそこで止まった。自分が先に紙片へ控えた索引語と、いま目の前の綴り札が、同じ棚の中で繋がっていることは分かった。


 受渡簿の欄はもっと乾いていた。年月日、出納先、処理区分、継続参照の有無。人名欄はほとんど伏せられている。その中に一行だけ、伏せ忘れたのではなく、わざと残したような薄い字がある。


 【戦後整理抄出済】

 【現行統合優先系 参考付録へ移送】

 【面会確認 木城圀明】


 綾乃はそこでもう、息を浅くした。閲覧ではない。照合でもない。人を通した確認が、綴りの途中に入っている。しかも、移送先は現行統合優先系の参考付録。自分が今まで、制度を持たせるための補助線だと理解してきたものの底に、避難と医療補給の二次配分綴りが触れている。


「参考付録、ですか」


 声が思ったより低く出た。


「正式規範ではありません」


 御厨が言う。


「少なくとも、表では」


「表でなければ何でも軽くなるわけではないでしょう」


「軽いとは申しません」


 卓上の紙は薄かった。薄いのに、そこへ並ぶ語は重かった。継続。参考。付録。どれも、いままで綾乃が使ってきた側の語だった。壊さないために、先に整えるために、表に出すには粗すぎるものを一度伏せるために。そういう時に、迷いなく選んできた語だ。


 だが、その同じ側の語が、人命切断の記録に触れている。触れたまま、今まで制度の底で磨かれてきたかもしれない。


「これが、そのまま現行運用に使われているとまでは、まだ言えません」


 御厨が先に言った。


「ですが、切れてもいません」


「切らなかったのは、誰ですか」


「それを今ここで一人に寄せるのは、正しくありません」


 綾乃は反論しなかった。反論した瞬間、御厨が説明の側へ寄るのが分かったからだ。今必要なのは、解説ではない。自分の足場が、どういう紙の上に立っていたかを見ることだけだった。


 受渡簿の下に、もう一枚、細い照合票があった。東閲覧室第二照合簿。朝の引継ぎ前のみ持出可。夜間欄不可。照合責任者署名欄あり。そこへ、別の鉛筆書きで短く書き足してある。


 【木城圀明 旧整庫主任】

 【直接面会は公線外】

 【東山旧庫裡 午前七時台のみ】


 御厨はその票の上へ指を置いた。


「これ以上は、開けば壊れるものが増えます」


「壊れるのは綴りですか、人ですか」


「両方です」


「いま壊れていないと?」


「壊れているから、まだこの程度で済んでいる面もあります」


 綾乃は目を閉じなかった。閉じると、言葉だけが整ってしまう気がした。目の前にあるのは、まだ全文ではない。何が誰にどう配分されたかの全面確定でもない。だが十分だった。継続の論理は、無傷ではない。自分が守ろうとしてきた秩序は、少なくとも一度、人命切断の綴りに手を掛けている。


 第二閲覧室の扉が開き、別の院務官が入ってきた。若い女で、白手袋の指先だけがこわばっている。彼女は槙島の返納控えへ朱線を引き、無言で卓の端へ置いた。槙島はそれを見て、ほんの一瞬だけ顎を引いた。もうここへ戻れない人間の小さな動きだった。


 綾乃はその控えの端を見た。氏名、補助権限停止、本日付。理由欄は空白だった。空白の方が長く残ると知っている紙だった。


「彼の復帰は」


 綾乃が訊いた。


 御厨は答える前に、眼鏡を外さなかった。


「難しいでしょう」


「私が来たからですか」


「あなたが来たから、だけではありません」


「だけではない、は免罪になりません」


「免罪を申し上げたつもりはありません」


 槙島がそこで初めて口を開いた。


「久世先生」


 声は低かったが、崩れていなかった。


「見られるものは、今のうちに見てください」


「あなたは」


「私の線は、ここで終わりです。終わるなら、何で終わったかくらいは、先生に知っていただいた方がいい」


 綾乃はすぐに礼を言えなかった。礼にすると軽くなる。軽くしてはいけないと思った。


 代わりに、卓上の照合票へ手を伸ばした。


「この番号を控えます」


「本文ではありません」


 御厨が言う。


「ええ」


 綾乃は票から目を離さなかった。


「本文を要求していないのは、私の方です」


 彼女は鞄から細い紙片を出した。昨日、索引語だけを写したのと同じ紙片だった。そこへ今度は、整った字で、ためらわずに書いた。


 【乙三区分 統優付第四十七綴 第二冊】

 【東閲覧室第二照合簿経由】

 【朝引継前閲覧】

 【木城圀明】

 【東山旧庫裡 七時台】


 書き終えても、紙片はまだ軽かった。軽いまま、戻れない重さを持っている。


「公の線へは乗せません」


 綾乃は言った。


「まだ」


 御厨が補った。


「はい。まだ、です」


 その「まだ」に、自分でも救われたくなかった。全面公開へ跳ぶ覚悟は、今もない。秩序が崩れた後の空白を、彼女はまだ恐れている。だが、その恐れを理由に、真下まで入口の外へ置くことも、もうできなかった。


 京都の夜は、音より先に冷えが落ちる。


 式部院を出た時には、門前の石畳が白く乾いて見えた。空に雨はない。だが風が細く、吐く息だけが早くほどける。車へ向かう途中、綾乃は振り返った。史料棟の横口で、槙島が警備卓へ最後の署名をしているのが見えた。小さな卓上灯の下で、彼の手元だけが白かった。署名が終わると、警備側は何も言わずに入棟札を箱へ落とした。木の底に当たる音が、一度だけ鳴る。終わりの音としては、あまりに短かった。


 澪が車の扉を開けたが、綾乃はすぐには乗らなかった。


「端末を」


 と言うと、澪は一瞬だけ顔を上げた。


「こちらで、ですか」


「今です」


 公議院回線ではない。式部院線でもない。久世家の公用補助線でもない。綾乃は個人端末の奥にある、もう長く使っていなかった私設の送信欄を開いた。宛先へ真下朔也の名を打つ。指が一度も止まらなかった。


 本文は短くしないと決めた。短くすれば、また最小限の鍵で止まる。ここで止まれば、また入口だけを渡した側へ戻るだけだ。


 綾乃は紙片を見て、そのまま打った。


 【継承基盤関係資料原目録照会の件。】

 【次に進むなら、乙三区分・統優付第四十七綴第二冊です。】

 【式部院史料棟東閲覧室、第二照合簿経由。朝の引継ぎ前のみ。】

 【公線では開きません。】

 【面会線は木城圀明。旧整庫主任。東山旧庫裡、午前七時台。】

 【私の名を出して構いません。】

 【ただし、公の説明線へはまだ乗せないでください。壊れるだけのものが多すぎます。】

 【それでも、あなたはもう入口だけでは足りないはずです。】


 打ち終えて、綾乃は送信欄の上に残る自分の文を見た。継続や秩序という語は、一つも入っていない。入れない方が正しいと、今は分かった。


 澪が低く言った。


「残ります」


「ええ」


「消せません」


「知っています」


 送信を押す。


 端末の右上で、小さな送達表示が灯った。公線のような大きな確認音は鳴らない。だからこそ、戻せないと分かる灯りだった。綾乃はそこでようやく、肩から何かが一段落ちたのを感じた。軽くなったのではない。支えていた板が、自分の下で一本抜けた感触だった。


 車へ乗り込む前に、綾乃はもう一度だけ史料棟を見た。白い窓のどこにも人影はない。だが、見えない棚の間で、いくつもの綴りが、まだ伏せられたまま重なっているのだろうと思った。そのどれかに、壊した後の空白を恐れていた自分の論理が、すでに触れている。


 澪が扉を閉める。重い音が、夜気の中で短く響いた。


「邸へ戻りますか」


「戻ります」


「公議院の発言案は」


 澪の問いは途中で止まった。続きを言わなくても分かる問いだった。伏せたままの文面を、明日どうするのか。


 綾乃は膝の上に置いた手を見た。指先にはまだ、古い紙の乾いた冷えが残っている。


「明日の朝まで、触りません」


「よろしいのですか」


「良くはありません」


 綾乃は窓の外を見た。


「良くないまま、進めるしかないところまで来ました」


 車が門を離れる。京都の夜道は空いていて、街灯の光が濡れてもいない路面に細く並んでいた。壊した後の空白は、相変わらず怖い。全面に開けば、散るものが多すぎる。それでも今夜、綾乃は自分で一つ、戻り道を切った。真下へ具体的な綴り番号を渡し、閲覧導線を渡し、面会線まで渡した。もう、知らぬふりをする側へは戻れない。


 端末の画面には、送達済の表示がまだ小さく残っていた。綾乃はそれを消さなかった。消せば、まだ自分だけの迷いに戻れる気がしたからだ。


 窓の外で、東山の稜線が黒く沈んでいる。あのどこかに旧庫裡があり、木城圀明という名の老人が、まだ口を開くかもしれない。綾乃はその先を考えなかった。先まで考えると、また継続の側の言葉が戻ってくる。


 今夜必要なのは、ただ一つだけだった。


 伏せていた綴りが、もう自分の外へ出たという事実だけ。


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