幕間 追憶の森(1)
夢を見た。
「はーるちゃん」
白いワンピースを着た女の子がこちらを見上げてわらう。長い黒髪に大きな麦わら帽子をかぶった、小学生の翅。
夏になると、翅はいつも母親の結子さんに連れられて常野にやってきた。墓参りのため、とおばさんは周囲に言っていたけれど、実際は病弱な翅の療養が目的だったらしい。
晴の母親と結子さんは小学校の同級生だった。あの頃はまだ晴の母親も元気で、結子さんが戻ってくると快く屋敷の別棟を貸していたものだ。結子さんは未婚のまま、ひとりで翅を身籠ったらしい。当時常野には下世話なさまざまな憶測が流れたらしく、逃れるように一度は常野を出ていったのだと、あとで聞いた。だから、翅が常野の地に戻ってくるのは、夏のひと月の間だけ。
「あのね、あそこに烏のおじさんがいるんですよ。いつも楠にとまっているの」
翅には昔からほかの友だちとはちがう、不思議なところがある。あやかしや神霊、鬼と呼ばれるあちら側に属するものたちの姿が見えて、声を聞くことができるのだ。夏用のサンダルを鳴らして楠に飛びついた翅は、「こんにちは」と何もないところに向かってとびきりの笑顔を向けた。
「烏のおじさん、どんな顔してんの?」
「ええとね、黒くってね、普通の烏さんより羽が大きくってね」
身振り手振りで懸命に教えてくれる翅に、晴も笑う。晴にはあちらのものの姿が見えないし、声も聞こえないけれど、翅の目を通せば、常野にはたくさんの「お客さん」がやってきていることがわかる。うれしそうに語る幼馴染の伸びやかな笑い声が心地よかった。みんなは翅は変な子だって言うけれど、晴はそう思わない。翅はふつうのひととちがうものが見えるだけ。声が聞こえるだけ。豊かでうつくしい世界を知っているだけ。
晴は、晴には見えない世界のことを教えてくれるこの幼馴染が大好きだった。
「ゆうーやけ、こやけ、で、ひが、くれてー」
手を繋いで歌いながら家に帰る。常野神社の境内は普段から人気がない。夕陽の赤に染まった石段に、晴と翅の影だけが伸びている。
「……あれ?」
目の前をひらりと透明な蝶が通り過ぎた気がして、晴は瞬きをした。ひらひらと不規則な羽ばたきを繰り返して、蝶は宝物庫の向こうへ消えていく。晴は足を止めた。
「はるちゃん?」
「今、ちょうちょがあっちに……」
「だめ」
宝物庫の裏、神社の敷地の端には、てふてふ沼と呼ばれる薄暗い沼がある。昔、水難事故があったとかで、決して誰も近づかない場所だ。晴の手をぎゅっとつかんで、翅が首を振った。
「はるちゃん。あっちにいったらだめだよ」
「……なんで?」
「てふてふ沼には、こわいお客さんが住んでいるから」
睫毛を伏せる翅の横顔に浮かぶのは、いつもとは異なる冷たい表情だ。
「ぜったいに行っちゃだめ。こちらにかえれなくなってしまうよ」
「うん……」
翅の様子に気圧されて、晴はうなずく。
その数年後の夏のことだった。翅が結子さんとともにてふてふ沼に落ちたのは。
その日の常野は車軸を流すような豪雨に見舞われていた。増水した川のせいで常野地区一帯に警報が出されるほど。
「翅がいない」
数日前から、翅は微熱を出して寝込んでいた。夕ごはんの雑炊を持って翅と結子さんの部屋を訪ねた晴は、中がもぬけの空になっていることに気付いた。寝乱れたままの布団には翅が持っていたあざらしのぬいぐるみがぽつんと残されている。
「おやじ。翅とおばさんがいないよ」
雑炊の鍋を抱えたまま、晴は磐に尋ねる。部屋を一瞥するや、磐の表情が変わった。
「もしかしたら結子さんが……」
晴とはちがって磐はこのとき何かの予兆を抱いていたのかもしれない。すぐに近所のひとと手分けをして翅と結子さんを探すことになった。
「おまえは家の中で待ってろ」
「でも、」
「大丈夫だ。警官が来たら、俺の携帯を鳴らせ」
晴の両肩を押して、磐はレインコートを羽織る。屋敷に残された晴は不安で居間を行ったり来たりしながら、父親たちの帰りを待った。ごう、ごう。吹きつける雨風が不安をかきたてる。晴は翅の布団に残っていたあざらしのぬいぐるみを拾い上げた。
――はるちゃん。
か細い呼声が耳朶に触れたのは、そのとき。
「翅?」
――はるちゃん、はるちゃん。
消え入りそうな声は、近づいたり遠のいたりを繰り返している。
「翅」
いてもたってもいられなくなって外に出る。吹きつける雨のせいで見通しが悪い。顔の前に腕をかざして、晴は神社の境内へ向かった。
「翅? どこだ、はーねー!」
声を振り絞るが、それも降りしきる雨にかき消されてしまう。はるちゃん。果敢ない呼声が聞こえた気がして、晴は暗がりにたたずむ宝物庫を振り返った。神具などが保管してある宝物庫は、祭りのとき以外に近寄ることはほとんどない。ましてその先――林のなかにひっそりとある、てふてふ沼には。
『てふてふ沼には、こわいお客さんが住んでいるから』
いつかの翅の声が耳奥で蘇る。引き寄せられるように晴は走った。翅。どうしてか無性に不安でたまらなかった。翅。翅。翅。何故かもうあの笑顔は見られないんじゃないかという気がして。
「はね……!」
――はるちゃん。
その声はしじまにぽつんと落ちた水滴のように晴に届いた。はるちゃん。
たすけて。
「晴!」
後ろから肩を思いきりつかまれる。気付けば、晴はてふてふ沼の水際まで来ていた。
「何してるんだ、こっちに……、結子さん!?」
磐が大きく目を見開く。雨で幾重もの波紋を描く沼の中央に、ぽっかりと白い塊が浮いていた。瞬きをした晴を「見るな」と制して、磐が草むらへ突き飛ばした。尻もちをついた晴の頭上で稲妻が光る。雷鳴が轟く中、暗雲の向こうに飛び立つ一羽の蝶の姿を見た気がした。
その日、常野地方を襲った豪雨。
増水したてふてふ沼に落ちて、結子さんは亡くなった。磐が引き上げたときにはすでに息を引き取っていたらしい。けれど、てふてふ沼をいくらさらっても、山狩りをしても、翅の姿は見つからなかった。ただ、黄色と緑の糸でかがった指貫が見つかっただけ。目撃情報はなく、事件は早々に暗礁に乗り上げた。
後日、神御寮の調査員がやってきて、いくつかわかったことがある。翅が失踪したあの日。百年以上前にてふてふ沼に封じられたあやかしが何かの引き金で目覚めたらしいこと。〈てふてふ〉。そう呼ばれるあやかしが翅の失踪に関わっているらしいこと。
それから、こっちは警察のひとが磐にこぼしていた話だ。あの日、結子さんは翅と無理心中をはかったらしい。娘の奇行や将来の不安などが綴られた走り書きが、鞄の中から見つかったのだという。育児ノイローゼだったようですね、と動機は一言でまとめられた。――でも、翅がいないなら、もうぜんぶどうだっていい。
「おまえんち、すごかったんだってな」
事故の後始末や警察の調査が終わって、久しぶりに登校すると、クラスメートが興奮した様子で話しかけてきた。てふてふ沼の転落事故は、新聞の地域版のベタ記事でも小さく扱われていたらしい。そこに「小学生女児が行方不明」の文字を見つけて、晴はどうしてか急に、本当に急に耐えられなくなって、クラスメートに頭突きをして学校を飛び出した。
晴れ渡った空の下を走る。
うわあ。うわあああ。うわあああああ。かすれた嗚咽が次々飛び出して、止めることができなくなる。気付けば、晴はてふてふ沼の前にいた。目の前に広がる沼は、昼間でも冷たい静寂に包まれていた。波紋ひとつない昏い水面が晴に突きつけてくる。
翅はいない。もういない。
いなくなってしまった。あの、あざらしのぬいぐるみがお気に入りで、麦わら帽子がかわいくて、ときどきよくわからない話をして、変なことで癇癪を起こして、そのくせ、さみしがりで、俺のお嫁さんになるって約束してくれた。そんな女の子はもういない。いなくなってしまったんだ。不意に理解してしまった事実に打ちのめされて、立ち上がれなくなる。
「……かえせ」
頬を伝う涙を拭いもせず、晴は水面を睨む。
「翅をかえせよ」
沼に足を踏み入れたのは、何かを深く考えてのことではなかった。中をどんなにさらっても、翅は見つからなかった。昔、晴があげた黄色と緑の指貫以外何ひとつ。九月の沼はひやりと冷たく、すぐに胸の高さくらいまで水が迫ってくる。危うく水草に足を取られそうになりながら、晴は木々が鬱蒼と茂った天を仰いだ。
「翅をかえせ。俺のもの、なんでもやるから……! おねがいだ、〈常野此花女神〉!」
直後、視界がぐらりと傾ぐ。あ、と思ったときには遅かった。泥で滑った身体が暗い水にのみこまれる。無数の気泡が上がるのを目で追いかけながら、晴は光がかゆらぐ水面へ手を伸ばした。けれど、光の帯に指の先がかすめただけで、どんどんと水底に沈んでいく。水流で目を開いていられず、そのうち視界は闇に閉ざされた。
たん、たたん、たたん
微かな水音がしている。胎動のようにやさしく力強い。大地に水が流れる音。
「めずらしい。〈まろうど〉かえ?」
りん、と響く鈴にも似た声が聞こえて、晴はうっすら目を開いた。こちらをのぞきこむ影に息をのむ。桜花紋の千早を纏った女性だった。ひとつに束ねた髪には桜の花挿がつけられている。たたずまいは巫女さんに見えなくもなかったが、面に白布をかけているせいで顔はわからない。半月に歪んだ唇だけが、不気味に布の下からのぞいていた。