クリストファー・ハインリヒ
自分の意志の元に自分の足で歩き始めたロザリンドでしたが、彼女にもアウロォラにも護るものが有る以上は、思いのままに成ることばかりでは有りませんでした。
それでも、未来へ向かって行動を起こす彼女の今後は?!
クララに手伝わせて、旅立ちの荷造りを済ませ、早々に床につきました。明日は、東駅に着いた後、オテル・クリヨンで手続きの完了を待つ予定です。
皆が寝静まり、表戸を執事が閉じる刻限を過ぎて、そおっと、クララを起こさぬように寝室を出ました。
ガウンの下に着ていた服の上に、お母様の形見のベールを被って屋敷を出ました。
公子宮迄はかなり距離が有ります。でも、ヒールでは無くてアンクルブーツにしたので歩けるでしょう。
暗い夜道を歩いていると、涙が零れて止まりませんでした。母の形見に包まれて少しの間道端で泣きました。
父と母が相次いで亡くなった時よりも孤独を感じました。
でも、わたくしにはあの方がいるわ。
わたくしを思い遣って慰めて下さった優しい方が。
アウロォラ様への想いを支えに歩く内、公子宮が見えてきました。思わず走り出してしまったものの、ここまで来て、お約束も何も無く来てしまった事に思い至りました。
お部屋が何処かは存じていました。
2階の北翼…灯りが点いている!
本邸では無いので高い柵などは有りませんが、外から2階へ上がる階段などは有りません。
何か…小石でも投げて気づいて下さるのを期待しなければ…そう思って探すのですが、綺麗に整備された庭には見当たりません。
途方にくれて探す内、固い物が手に当たりました。
薔薇の蕾…まだ開く前の大輪の蕾がこんなに固い物だったなんて知らなかった。
「ごめんなさい」
花首を手折って窓に投げました。
上手く当たって、こんっ!と音を立てました。
…思いの外小さな音です。
お願い気付いて…
願いながら10程も折ってしまったでしょうか?!
窓が開いて、アウロォラ様が顔を覗かせられました。わたくしに気付くと驚いておいでになります。
我慢していた涙が溢れて泣きながら立ち尽くしました。大慌てで降りてきて下さったアウロォラ様に抱きついて泣きました。
「何が有ったの?!一人でここまで?!」
「…急に…フランスへ…行くことに…なったの」
何とか涙を抑えてしっかりご説明せねばと思うものの、なかなか嗚咽が治まりません。
「泣かないで。ローザ。大丈夫だから」
薔薇の庭に建つ温室に誘われ、籐のカウチに腰を下ろしました。
「貴方との婚約を解消するって、お爺様が仰るの。一生懸命お願いしたけど駄目だった。とても怒ってらして…」
おおよそは判っていらしたようで、溜め息をつかれました。
「私が、兄を王にと言ったんだ。君に会う前に決めてしまっていたんだ。ごめんね。ローザ」
「貴方のせいでは無いわ。仕方が無いのよ…でも、わたくしは諦めるのは嫌」
「ローザ?!」
「お爺様が亡くなるのを待つのよ」
アウロォラ様は目を見張り、酷く驚かれました。
「貴方が…お妃を迎えずに待っていて下さるなら」
酷い娘だと思われたでしょうか?!
実の祖父の死を待つというわたくしを。
「その時…まだ、わたくしを待っていて下さるなら…」
また涙が零れてきました。
「もちろん!君は…凄いよ」
「どんな事が有っても待っていて下さる?!」
「待ってる」
微笑まれると余計に涙が止まりません。
「約束よ?!ううん、今結婚して!」
「今?!すぐに?!ここで?!」
「指輪もドレスも何も要らないわ。そんなもの幾つ有っても何にも成らないもの。本当の夫婦になっていれば何も怖くないわ」
「貴方とここで結婚して、わたくし、学校にも、習い事にも、きちんと行くのよ」
「知らない振りでお爺様を欺くの。お爺様を見送って、リントの家を継いだら、その時に貴方の所へ来るわ」
アウロォラ様ははっきりと頷かれ、約束して下さいました。
「私はここで君が来てくれるのを待っているよ。約束する」
手を取り合って、温室の花々に見守られて誓いの言葉を交わしました。
「私、コンスタンツ・アウロォラ・フォン・オルデンブルクは、サラ・ロザリンド・フォン・リントを、生涯の伴侶として終生愛し続ける事を誓います」
「わたくし、サラ・ロザリンド・フォン・リントは、コンスタンツ・アウロォラ・フォン・オルデンブルクを生涯の伴侶として終生愛し続ける事を誓います」
誓約の口づけを交わして見つめ合いました。
まだ幼い2人でしたが、その後の作法は繰り返し教えられていました。家を立てて行くために運命られた2人だったからです。
夢のような時を過ごして、結ばれた二人は後朝の口づけを交わし、明け初めた朝靄の中を手を繋いで歩きました。独りで来た道を、二人で。
リントの屋敷が遠くに見えて、もうこれ以上一緒に居たら誰かに見咎められる。二人で居るところを見られたら待つことも敵わなくなる…
離しがたい手を取り合って、別れの口付けを交わしました。
「行くわ」
「うん。ここで見ている」
指の先が離れても、温もりが伝わってくる気がして、再びかき抱きたくなるのを振り切って走り始めました。
振り返るとそのまま動けなくなってしまいそうで、もう一度見たいと想いながら振り向くことが出来ません。
涙は止め処なく流れ続け、視界はぶれて定かには見えません。覚束無い足元が、石畳の隙間にとらわれて躰が傾ぎます。
踏鞴を踏む足元がもう躰を保てないと思ったその時、後ろ手を引かれて留まり、抱き締められました。
「…君だけに辛い思いはさせない。迎えに行けるように頑張るから…待っていて」
「…嬉しい…きっとね」
「うん。きっと」
結局、屋敷の近くまで一緒に歩き、裏庭の木立の間から中に入りました。生け垣の向こうで見ていたアウロォラ様は、わたくしが振り返ると手を振られました。
微かな音がして誰かが庭へ降りてくる気配がしました。行って!声には出せないものの必死に訴えるわたくしに、アウロォラ様は眼を離そうとされません。
一瞬の恐ろしいような眼差しがわたくしを通り越して館から出て来る者に注がれました。誰が…恐怖に囚われたわたくしが振り向くと、クララが立っていました。
思わずアウロォラ様を振り返ると、もうあの方はおいでになりませんでした。
フランスの女学校に編入して、寮生活を始めました。ですが、学期の終わり、9月になる頃、わたくしの躰に特別な変化が起きていることを知ったのです。
帰国してお爺様に、体の具合が思わしくないので休学して静養したいと申しました。
その頃既に、わたくしの事などどうでも良くなっていたでしょうお爺様は、仕方の無い奴の一言で、わたくしの申し出をお許しくださいました。
わたくしが思いの外従順だったのに用心なさったようでした。休学も、学問など大した事では無いと思って居られるのでしょう。
休学して暫くは、修道院に隠れていました。
クララを呼び寄せる事に
なっていましたが、彼女が傍に居て、わたくしの秘密に気づけば、お爺様に報告しない訳にはいきません。
修道女の見習いをするのだと言えば、使用人をそばに置く事など有り得ないことなのです。お爺様も否やとは言えません。
10月、11月、12月。
世俗と切り離されて心安らかな毎日でした。
食事の支度をするのも、細々とした日用品を誂えるのもこんなに楽しいことだったなんて。
お掃除も、お裁縫も、お洗濯も、習ったもののここでの生活が無ければ無用のものだったに違いありませんでした。
1月、2月、3月。
ようやくクララに連絡を取り、修道院を後にしました。生まれたばかりのクリストファーを抱いて現れたわたくしを見て、彼女は腰を抜かしてしまいました。
「御免なさいね。大丈夫?!クララ」
「相談しなければ成らないことが有るのよ」
お読み頂き有り難うございました。
この後「邂逅」へ続く為に、2人は以後一瞥も無く死別することになります。
ロザリンドの人生はクリストファーに託されることになるのです。




