第三十話 命の尊さ
重い足を引きずりながらネスが部屋に戻ると、床に転がっていた空瓶が爪先にぶつかった。
(これは……酒瓶か?)
拾い上げようと腰を屈める──が、床のあちこちに乱雑に点在しており、片付ける気が失せてしまった。腰を上げ瓶を辿っていくと、窓辺に腰を下ろしたアンナに辿り着く。
「…………っ、………………うぅ…………っ」
シャツ一枚の姿のまま、アンナは声を殺して泣いていた。両膝を立てて縮こまり、夕日を見ながら、恐ろしく度数の高い酒瓶に直接口をつけている。
「飲みすぎだよ」
アンナはネスの言葉を無視して、横に置いてあった翡翠色のボトルを飲み干した。二本目の瓶が空になって彼女の口が離れた瞬間、ネスは彼女の腕を無言で掴んだ。開いたままのシャツの間から、彼女の白い胸と腹がちらりと覗く。
「エリックは行ったんだ。だから俺達も──」
「わかってるわよ!」
わかってる、ともう一度呟くとアンナはネスの腕を振りほどいた。
「あたしも馬鹿よね……酒の力でも借りないと、あんたに向き合えない……」
アンナは何かを語ろうとしている。エリックの言っていた「直接本人から聞くといい」という言葉がネスの脳裏に浮かび上がった。
「大丈夫。一人でもちゃんと、できるわ」
「一人じゃない、俺がいる」
不意にアンナが静かに笑った。涙が目に溜まったままなので、なんだか可笑しな雰囲気だ。
「俺がいるだなんて、あんたみたいなガキに言われたくないわよ……」
「……すぐ俺をガキ扱いする」
「あんなに小さかったガキが、こんなに大きなガキになるなんて」
「……どういう意味かわかんねえよ」
呆れつつネスがぼやくと、アンナはいつものようにネスを睨み「あ?」と低い声を上げた。相変わらず怖かったが大丈夫、いつもの彼女だ。
「あたしは面倒な説明も長々と語るのも嫌いだから、要点だけ話すわ」
アンナは開いたままのシャツのボタンを全て閉め、大きく伸びをすると窓の外を見ながら口を開いた。
「十六年前、あんたが生まれた時──あたしはそこにいた」
「それって……」
「そこにいた、というか」
アンナは照れているのか、一度口を閉ざし、一口酒を飲んだ。ネスは黙って彼女の二言目を待った。
「レノアさんの体内からあんたを取り上げたのは、あたしなの」
「──────!!」
あまりの衝撃にネスは言葉を失っていた。
(待て……そうか、そうかそうか。だからアンナは、昔俺の家に来たことがあると言い、俺の誕生日も知っていたのか)
「しかも最悪なことにレノアさんは出産直後、流行り病に罹って隔離されるし、一緒に立ち会ってくれたおばさん……名前、忘れちゃったんだけど……そのおばさんも、途中で流行り病に罹っちゃうし、シムノンは仕事だって言って仲間を連れて途中で出ていくし……仕方なしにこのあたしが、あんたら兄弟を一ヶ月も世話することになるし……あんたは何も覚えていないかもしれないけど、大変だったのよ」
アンナは早口で言い終えると、ネスを睨んだ。
「……ちょっと、何か言いなさいよ」
(──そうか、今やっと、分かった。
彼女は、俺にとって──)
ネスは気が付くとアンナを抱きしめていた。鼻の触れる位置にある彼女の肌は、歯を立てたくなるくらい甘い香りがした。 記憶の彼方にあった、この肌の香り。
「──ありがとう」
「なにがよ……」
唐突なネスの行動にアンナは驚いたものの、抵抗はしなかった。
嘘みたいな話だったが、ネスが朧気に覚えていた──いや、思い出した、アンナの肌の香り。彼女の首筋に鼻を埋め、意識を過去へ飛ばすと、生まれてたてのふにゃふにゃな自分が、彼女の腕に抱き抱えられている光景が脳内に映し出された。傍には兄のルークがいて、眉間に皺を寄せて困惑するアンナが、懸命に自分をあやしている。
(なんだ──これは──なんだ──この現象は──)
それから数秒間、ネスは過去の意識の中にいた。何故こんなことを覚えているのか不思議だったが、気が付くと涙が頬を濡らしていた。
「──育ててくれて、ありがとう」
やっと、分かった。
この気持ちは恋とも憧れとも違った。ネスは、アンナの中に母を見ていた。
「いつまでそうしているつもりよ」
抱きしめている体勢を言っているのだろう、アンナはもぞもぞと首を動かしながら額にかかった前髪を払った。
「別れ際、エリックに言われたんだ……アンナが一人で泣いていたら、抱きしめてやってくれって」
エレベーターホールでネスのことを睨み付けた後、穏やかな顔になったエリックは確かにそう言ったのだ。後は任せると言わんばかりにネスの肩を叩いて。
アンナはその言葉を聞いて一瞬胸を打たれたが、ネスの涙声を聞くと「泣いているのはあんたじゃない」と言って、ネスの腕の中から逃げた。両膝をついて少し離れた所にあった酒瓶に腕を伸ばし、栓を抜いて口をつけた。
「ありがとうありがとうってうるさいのよ、あんたは」
部屋に転がる酒瓶がまた増えてしまった。嫌みを言われることは慣れっこだが、礼を言われることにアンナは不慣れだった。
そんなアンナの姿を見つめて、ネスはずっと心に書き留めていた言葉を口にした。
「初めて出会った時、自分の心に正直になりなさいって言ったのはあなたじゃないか。だから俺は、もう自分に嘘はつかない」
そう、あの時──自分の夢を語れなかったあの時、ネスはアンナに言われたのだ。彼女は覚えていないかもしれないが──あの時からネスは、自分の夢から目を背けることをやめたのだ。
「だから何度でも言うよ──ありがとう」
真っ直ぐに目を見つめられ、戸惑ったアンナは立ち上がり、バルコニーの窓の前で立ち止まった。
「……礼を言うのはこっちなのよ」
窓ガラスに映る自分の姿に、立ち上がったネスの姿が重なった。あんなに小さかったのに、いつの間にか頭一つ分越されている背。
「あたしは……」
そこに映る自分の顔があまりにも弱々しく、嫌気がさした。
(このあたしがこんな顔をするなんて、駄目だ)
「あたしにとって人の命を奪うのは、簡単なことだった……それなのに、それを作り出し、生み出すことはこれほどまでに困難なのかと、あんたを取り上げた時、思い知ったわ」
──アンナは今まで何千何万という命をこの手に掛けてきた。レノアに「穢れた手」と非難された、その両手で取り上げた命──。
呼吸をするように当たり前に奪ってきた命。その温もりをこの手で抱いた時、彼女はどうしようもなくやるせない気持ちになったのだ。
「あんたは……自らの命で、殺し屋のあたしに……命の大切さを教えてくれた……だから、だから守らせてほしいのよ」
本心だった。殺し屋が何を言っているのだと笑われそうで、シムノンにしか話したことがなかった。十六年経って漸くエリックに打ち明けた時、彼は褒めてくれた。
ネスは何と言うだろうか。
シムノンと同じことを言うのだろうか。
「アンナもいつかは命を生み出すんだよ」
「はあ? なに言い出すのよ、あんたは」
想定外のネスの言葉に、アンナは拍子抜けした。ここは素直に「守ってください」とか言うところだろうが、と怒鳴ってやろうかと思ったが、つい本音がこぼれてしまった。
「……命を奪うことしかしてこなかったあたしが、新しい命を生み出すなんてありえないわ」
怒っていたアンナの顔に、苦悩の色が浮かんだ。
「あり得ない?」
「あり得ないし、資格もないわ……今までこれだけ人を殺しておいて、今更、命を作り出そうなんて──人の親になろうなんて、考えたこともないわ……グランヴィ家はあたしの代で終わり……それでいいと思っているわ」
今のは忘れて、独り言だからと、アンナは付け足した。
「……でも」
アンナは振り返り、食い下がらないネスの胸倉を掴んだ。
「しつこいのよ、ガキが」
口では怒っているが彼女の目には、怒りとも憎しみとも表せないものが宿っていた。彼女は苦しんでいた。
「ガキだけど、男だ」
胸倉は相変わらず掴まれたままだ。今まではただされるがまま宙に持ち上げられていたが、足が宙に浮きそうになったところでネスは、彼女の手を掴み引き剥がした。
「あんた、生意気になんのつもりよ」
アンナの言葉に、ネスは引き下がらずに口を開いた。
「俺は、あなたから見ればガキかもしれない。でも……絶対に賢者になると決めたんだ」
──そう、もう夢から目を背けない。
「賢者になって、あなたを苦しみから助けたい」
その言葉に嘘はなかった。
「な……」
アンナは目を見開いた後、下唇を噛み締めた。ガキだと罵っていた子供の姿に、彼の父親の面影が重なったように見えたからだ。
「あんた、自分が何言ってるのか分かってんの? そんなことのために賢者になりたいだなんて……シムノンが聞いたら何て言うか……」
「か、勘違いするなよ! アンナの為だけに賢者になるんじゃないからな! その……目的はそれだけじゃなくて! 世界中の人々を救うんだ。争いのない世界を作ればみんな幸せだろ? そうなれば、アンナも苦しまなくて済む……違うか?」
言い終えてアンナを見ると、彼女は窓の外を見つめてガラスに爪を立てていた。ガラスには小さく亀裂が入っていた。
そんな彼女の背中が一段と小さく見えた。
「……そんな先のこと、どうなるかなんてわからないじゃない」
不意にアンナがガラス戸を開けた。少し冷たい風が部屋に舞い込み、アンナのシャツと髪を揺らした。その風が、彼女の着ているシャツに染み込んだ、婚約者の煙草の匂いをネスの鼻まで運んできて、なんだか彼に見張られているような心地になった。
「俺は夢を叶えるまで死なないし、諦めるなんてあり得ない」
その言葉を聞いて、背を向けたままアンナはクスリと笑った。
「あんた、その自信はどこから湧いてくるのよ」
「腹の底から、こう、グツグツと」
腕を上下に動かして表現したが、上手く伝わらなかったのか、アンナは「可笑しな奴」と言って笑った。ガラス戸を閉めて振り返ると、彼女はネスの頭に腕を伸ばした。
「気持ちだけで十分よ。大丈夫、期待してないから」
最後は冷たく言い放って、頭を撫でた。
(ここまできても、まだアンナは俺のことを子供扱いするのか)
悔しかった。自分の気持ちが分かった今、もっと彼女に頼って欲しかった。
「アンナ」
名を呼ぶと、彼女は美しい色の瞳をこちらに向けた。こんなに近くにいるのに、救えないなんてことがあるだろうか。
「俺は絶対に賢者になる──殺し屋なんて必要ない平和な世界を作るから──だからそんなこと言わないでくれ。俺が全部なんとかしてみせるから……待っていて欲しい」
アンナの瞳が揺れていた。彼女は一筋の涙を流した。
「──全く、あんたには敵わないわね」
言いながらアンナは涙を拭った。
「さっきエリックも言っていたけれど……あんたには本当に、色々話しすぎてしまうみたい。シムノンの『血』のせいかしらね」
それを聞いてネスは首を傾げたが、アンナはプイと顔を背けてしまった。父の血に関して、説明をする気が全くないということなのだろう。
「もうこの話は終わりよ。着替えて食事に行きましょ」
「でも……」
彼女の言う通り、時計を見ると夕食の時間になっていた。腹の虫が鳴き出しそうではあるが、ネスはまだ話は終えたくないのだ。
(俺はアンナに気持ちを伝えきれただろうか。彼女にちゃんと伝わっただろうか)
自身に自信のないネスはアンナを呼び止めて、しつこいと罵られるまで言葉を紡いでいたかったが、当の本人はどんどんネスから離れてゆく。
「……ネス」
「なに?」
寝室の扉の前で立ち止まったアンナは、ゆっくりと振り返った。
「あんたの気持ちはよくわかったから……その……ありがとう」
照れ隠しなのか、アンナは早口で言い終えると自室に姿を消した。安堵したネスがソファに腰を下ろした数分後、彼女は光沢のある黒いロングドレスに着替えを済ませ、いつもの調子で部屋から姿を現した。珍しくヒールを履いた彼女に引き連れられて、ネスはホテル内のレストランへと向かったのだった。
※とりあげる…産婦を助けて子を生ませる。の意。一応…
ーーー
ネスの母レノアには、ネスを出産したときの記憶があまり鮮明に残っていません。
自分の家族を皆殺しにした憎きアンナが(当時、様々な事情があったとはいえ)出産に立ち会ったことにショックを受けたレノアを見かねたネスの父シムノンは、仲間の魔法使いに、レノアの記憶を改ざんするように頼みました。
というわけで、アンナがネスに「このことはレノアさんに言うな」と口止めしておかなければ、大変なことになりますね。面倒くさがりやのアンナがそこまで気を回せるのかどうか……。




