(2) in WIEN
朝の部屋に電話の音が響く。オフは朝寝坊と決めているさく也は、それを無視した。取らずにおけば留守電に切り替わる。しかし相手はメッセージを入れずに電話を切った。
さく也は薄く目を開け、枕に頭をおいたまま部屋の中を見た。南向きの窓のカーテン越しに光が入っている。時間は午後になっているようだったが構わず目を閉じた。睡眠は、さく也の趣味の一つである。
再び眠りの中に入ったさく也を、今度は呼び鈴が起こしにかかる。電話の柔らかい機械音と違って、古いアパートのドアベルは無粋な音で耳を刺激した。
さく也はベッドの上で起き上がった。時計を見ると、午後二時になろうとしていた。いい加減、起きていい時間ではある。仕方なく上着を羽織ってドアの方に向った。
ドアに穿たれた覗き穴で外を確認すると、ユアン・グリフィスが立っていた。
「ユアン?」
チェーンキーをしたままドアを開ける。 ウィーンに来る際には、必ずさく也に連絡を入れてくるユアンなのだが、今回はそれが無かったのでさく也は確認するように声を発した。
ユアンがぎこちなく笑んだ。「入っても?」と漏れる息が白い。冷たい空気が細く開いたドアからすべりこんだ。さく也は彼を中に入れた。
ユアン・グリフィスとは去年の八月、日本の仙台音楽祭で会って以来だ。ゲスト・ピアニストとして参加したユアンの真の目的は、エツシ・カノウに会って、その演奏を聴くことにあった。演奏家として、そして生涯のパートナーとして求めたさく也が、断る際に口にしたのがエツシ・カノウの名前だったからだ。さく也はユアンを完全に拒絶するため、その目の前で彼と弾いてみせたのである。それ以後、メールも電話も、寸暇を割いての来墺もなくなった。
ガス・ストーブのスイッチを入れ、着替えるために寝室に戻ろうとするさく也の腕を、ユアンが掴んだ。そのまま引き寄せる。長身の彼の腕の中に、さく也は抱き込まれた。
ユアンのコートは雪の匂いがした。
「そのヴァイオリンは諦める。だけど君は諦めたくない」
耳元に寄せられた唇が囁く。軽く耳朶を啄ばんで離れた。ユアンの腕に力が入り、さく也をきつく抱きしめる。
「愛している」
青い瞳が、さく也を見つめた。唇が唇を捕らえようした時、さく也の手が遮る。ユアンの腕が緩んだことを見逃さず、さく也は彼の胸を押しのけた。
「どうして?」
ユアンは空になった腕の中に呟いた。顔を上げ、髪と服を整えるさく也を見る。
「ユアンのことは嫌いじゃない。でも恋愛感情は持てない」
さく也は答えると、寝室の方に足を向けた。ユアンの声が、それを追い駆ける。
「彼が、エツシ・カノウが好きなのか? ピアノだけじゃなく?」
「着替えてくる」
「待ってくれ、サクヤ。どうして、僕ではダメなんだ? 彼とどこが違う? 年だって、さほど変わらないし、ピアノだって、タイプは違うけど、劣っているとは思えない。だけど、君を愛する気持ちは、僕の方が強いさ。彼は君を友達以上に見ていないぞ」
「わかってる」
「だったら!」
さく也はユアンを見た。彼はまっすぐさく也を見つめている。その姿は重なった――相手の感情は二の次で、自分の想いを伝えようとする。表現の差こそあれ、加納悦嗣に対するさく也と、どこが違う?
「好きになるのに、理由なんてない」
ただ好きなだけだ。その気持ちが、さく也を悦嗣の元に向わせる。
頬が熱くなったのは、温まった部屋のせいばかりではない。加納悦嗣のことを思ったからだった。ユアン同様、彼とも去年の夏の仙台以来、会っていない。仕事を持つ身にウィーンと日本の距離は遠い。時々のメールが悦嗣との接点だった。国際電話は、口下手なさく也にとって不向きな代物だった。初めて悦嗣に国際電話をかけた時、思うように話せなくて、わずか三分で切った。さく也が口にしたのは自分の名前と、「うん」「それじゃ、また」 そのことを思い出すと口元に笑みが浮ぶ。
「恋愛は相愛になってこそだ。君はそれでいいのか? 可能性の薄い相手に入れ込むなんて、サクヤ、君らしくない」
ユアンの声で、さく也は笑みを消した。
「君はいつだって、愛されることを望んだだろう? 相手もそれに必ず応えた。君は成就しない恋はしなかっ...」
ユアンはハッと言葉を飲み込んだ。そのさく也が、成就しそうにない恋をしていると気付いたのだろう。彼の脳裏には、今までのさく也の相手が浮んでいるに違いない。父親ほどに年が離れ、それなりの地位を確保した大人の恋人。さく也の選ぶ相手はいつもそんなタイプだった。ファーザー・コンプレックスだと、周りは冗談で冷やかしたが、さく也は否定しなかった。であるのに、今度の相手は。
ユアンはソファに座り込んだ。長い指を組んで額を乗せ俯く。しばらく彼は黙ってしまった。
「本気なのか、あんなヤツに?」
搾り出すように、言葉が漏れた。
「...どうして、僕ではダメなんだ、サクヤ?」
さく也に向けられているようであり、自問しているようにも聞こえた。背を向けかけたさく也は、彼を見やる。
「ユアンは錯覚しているんだ。俺がYESと言わないから」
ユアンに口説かれて、NOと言う人間はいない。情熱的に言葉を駆り、『青の中の青』と評される瞳で甘く見つめられると、たとえ一夜の遊びとわかっていても、その誘いを断らない。彼が求めれば全てが手に入った。サクヤ・ナカハラは稀な存在だったのだ。
さく也は十七才の夏に、ジュリアード音楽院が開催した一週間のサマー・スクールでユアンと出会った。三日目のランチ、学院内のカフェで隣合わせたのだ。さく也は一人だったが、ユアンは五、六人のグループの中にいた。グループと言うより、「ユアンとその取り巻き」と言った風で、その人数は日に日に増えていった。男女問わず、誰もがその華やかなカリスマ性と才能に惹かれて行く。他人に興味がないさく也は、名前は勿論、彼の顔さえ知らなかった。それはユアンも同様で、隣に座った時も、「ここ、いいかな?」「どうぞ」のやりとりだけで、後は仲間達とのお喋りに入ったので、さく也に関心はなかったと思える。
親しく――これはユアンの視点だが――話すようになったのは、その夕方から。レッスン室が満室だったため中庭で練習していたさく也のそばを、ユアンが通りかかったのである。練習に集中していたさく也は、一曲弾き終わって、やっと目の前に立つユアンに気がついた。興奮した彼が早口で自己紹介して、さく也はユアン・グリフィスの名を知ったのだ。以来、実技講習以外の講義では、ユアンの隣がさく也の指定席になったが、さく也本人が望んだわけではない。サマー・スクールの日程が終わった日に告白された。「君のことが好きだ」――それが最初で今に至るまで告白は繰り返し続いている。
「俺は毛色が変わっていたから、ユアンの興味を引いただけだ」
「サクヤ?!」
「相思相愛になってこそ恋愛だと言うなら、ユアンとも恋愛にはならない」
自分の言葉を引用されユアンが反論出来ないのを見ると、さく也は今度こそ着替えのため、部屋を出た。