10
ファレスがニヤリと笑った刹那、妖の左脇腹に鋭い痛みが走ったのである。
見ると、脇腹から包丁の鋭利な刃が生えていた。
血が、ジワリと滲み出てくる。
包丁は妖の腰に突き立てられ、腹まで貫通していたのだ。
それを成し遂げた者――何よりも、ファレスと対峙していたとはいえ、妖に気配を悟らせることなく背後に立てた者とは一体何者なのか。
背後を顧みた瞬間、妖に再び衝撃が走る。
そこには、小さな少女がいた。
年の頃はまだ八歳ぐらいだろう。
その少女が、何故に妖を傷つけるのか。
少女は、死んでいた。
いや、殺されていたのである。
この凄まじい狂気の渦の中、おそらく母親にでも殺されたのであろう、大きな瞳――右目には、少女が今手にし、妖の腰に突き立てているのと同じぐらい――少女の小さな手には大きすぎる包丁が深々と突き刺さっていた。
「まさか――」
ファレスが、操っているのだ。
見れば、妖の表情を読み取ったのか、ファレスが嗤っている。
死人男爵。死霊、死人を己が意思のままに自由に操る魔力を持った魔人。
だが、更なる衝撃が妖の全身を疾り抜ける。
少女の手に、いつの間にかダイナマイトが握られていた。
一瞬、理解出来なかった。
それが、幻のように思われた。
何故、少女がそのようなものを手にしているのか。
何故、少女の持つそれの導火線に火がついているのか。
何故、少女が笑っているのか。
妖の反応がここまで遅れたのは、恐らくこれが最初であろう。
妖が、少女の手からダイナマイトを払い落とそうとしたとき、それは、少女の小さな手の中で大爆発を起こした。
耳を聾する轟音と衝撃波に、妖がたまらず吹っ飛ぶ。
左腕を吹き飛ばされ、妖は体勢を立て直すことも出来ず、ブロック塀に叩きつけられていた。
力無くブロック塀の前で頽れる妖を見て、ファレスが哄笑を上げる。
その笑い声を、妖は遠いもののように聞いていた。
自分がだらしなく投げ出した足――その向こう側に、少女の首が落ちている。
半分になって、こちらを見ている。
包丁が突き刺さっていた右半分は、どうしたのだろうか。
その口が、半分になっても笑っているのを見て、妖の心に怒りの炎がともった。
ゆっくりと立ち上がる。
こんな所で、休んでいるわけにはいかない。
奴は、死んだ人間の魂ばかりか、肉体までも弄ぶのだ。
こんな事は許されない。
止めてみせる。
妖は少女の瞼をそっと閉じさせてやると、再びファレスと対峙した。
「ファレス、貴様はやってはならないことをやってしまった」
「片腕一本で、なにを強がっているんだ、妖。それに、やってはならないことって、何だ? 死人を操ったことか?」
「いいや、俺を怒らせたことだ」
「――!?」
刹那、妖の姿が視界から消えた。
と思ったときには、ファレスの視界を塞ぐように、妖の右手が広がっていた。
瞬時にして間合いを詰めた妖がファレスの頭部を鷲掴みにし、押し倒し、地面に叩きつける!
「死ね!」
「お前がな!」
その刹那、ファレスの右腕が、腕のなくなった妖の左肩――その傷口に向かって弧を描く。
俺の本当の狙いは、これだ!
手首まで埋没した瞬間、妖が声ならぬ苦鳴を上げる。
「俺の妖気を、貴様に注ぎ込んでやる!」
「――!?」
逃れ得る術はなかった。
妖の左肩には、ファレスの右腕が食い込んでいるのだ。
魔力を使って脱しようとしたとき、妖は死臭が体内に注ぎ込まれてくるのを感じた。
妖気どころではない。全身の管という管――毛細血管に至るまで、おぞましい蟲が無数に連なりあって入り込んでくる。
腐汁にも似た体液をまき散らして、体内を這いずり回る幻覚に囚われていた。
そして妖は、あろうことか、今度こそ本当に声を出して絶叫していたのである。
自分が、情けなくも絶叫していることに、妖はまだ気づいていない。
死人男爵は、自分のすぐ目の前で絶叫する妖の姿を身、叫び声を聞いて、射精感にも似た満足感を得て恍惚としていた。
「クク。俺の妖気は、全てのものを腐らせるのだ。貴様は、内臓をどろどろに腐敗させて死ぬんだよ、妖」
妖の耳には、もはやファレスの勝ち誇った声も届いてはいなかった。
翡翠色の瞳は、今や何も映してはいない。
その凄まじい絶叫の中、妖はだが、何かを感じつつあった。
胎動?
それとも、覚醒?
身体の内側、血管の仲間でも蟲が蠢き、這いずる感覚に苛まれながらも、妖は何かを〝視〟ていた。
何が〝視〟えるというのか。
暗黒があった。
そして、自分が眼を閉じているのだと知って、彼は眼を開けた。
「――!?」
刹那、網膜をも焼き尽くさんばかりの光芒が、彼を包んで広がっていた。
同時に、心の底から寒からしめ、恐怖せしめるほどの威圧感、恐怖感が、その光の中に在り、彼はそれを感じて絶叫していた。
記憶だ――
これは、俺の、失われた記憶だ。
妖は、ぼんやりと考えていた。
絶叫している自身の声を他人のもののように聞きながら。
ファレスの妖気が、妖の記憶を呼び戻すきっかけを与えたのだ。
閉ざされた記憶の扉を開け放つには、死ぬほどの恐怖が妖には必要だったのだ。
何故なら、妖は、魔界に在ったときは常に恐怖を感じて生きていたのだから。
光の中にいる存在――魔空神王サタンは、それほどに恐ろしい存在だったのである。
扉が開き始めた。
更に眩い閃光が、妖の脳裡を灼く。
妖は光の中にいた。
天界に在っては最も昏く、魔界に在っては最も煌びやかな光。
それこそが、大魔王サタンそのものであった。
その光が、ある形を取り始める。
十二枚の輝く翼を持つ堕天使。
その名が脳裡に浮かび上がった瞬間、妖は恐怖の咆哮を上げていた。
「うわあああああ!?」
そして、全ての魔力を一気に外側に向けて放出したのである。そのパワーがあまりにも強烈であったため、思わず妖の身体にしがみついたファレスを引き剥がし、背後の壁まで数メートル近くも弾き飛ばしていた。
「いったい、何が…」
凄まじいパワーの激浪に、ファレスは声を失う。
何かが原因で、妖は体内に侵入してきたファレスの妖気を、自分のそれともども体外に放出した。
魔人にとっても、自分の許容量以上の妖気の吸収は、身体に悪影響を及ぼしかねない。
異次元街脱出後の、妖の深い眠りがそのいい証拠だ。
しかし、では、何故、一瞬で体内にあった余分な妖気を放出できたか。
如何な悪魔といえども、そんなことをすれば逆に自分の魔力そのものをも吸い出され、下手をすれば死を招くことにもなりかねない。そのため、無意識のうちにブレーカーが落ちてそれを抑制するようになっている。
だが、ブレーカーが落ちるのさえ忘れさせるほどの強烈な何かが、妖の身に起こったのだ。
では、いったい何が起こったのか――
死人男爵は、妖の魔力を浴びてズタボロになった身体で立ち上がりながら、妖を見た。
妖は片膝をついて、喘いでいた。
苦しそうな息づかいの向こう――死人男爵は聞いた。
伏せた美貌から紡ぎ出される嗤い声を。
背筋が凍りつくのを、ファレスは感じた。
なんだと言うんだ――
この感覚――
眼前に在る者が、違う別の何かに変わりつつある。いや、戻りつつあるのだ。
「まさか――」
記憶が、蘇ったというのか。
絶望の二文字が脳裡に浮かぶ。
ゆっくりと、眼前の若者が美貌を上げて立ち上がった。
「――ダーク……」




