9
「来いよ、ファレス」
妖が、嗤って告げる。
「叩き潰してやる」
凄まじい妖気が渦を巻く。
その妖気に応えるように、ファレスがヒッと笑う。
「その言葉、そっくり返してやるよ」
刹那、高速化したファレスの姿がかすみ、一気に妖との間合いを詰めた。
右ブロウ!
妖気を巻いて拳が打ち出される。
しかし、すでにファレスの眼の動きで狙いを読み取り、身体各所の筋肉の動き、気の流れでファレスの攻撃の正体が右ブロウであることを予測していた妖は、身体をほんのわずか――数ミリ動かしただけでこれを躱した。
「――!?」
だが、愕然となったのは妖の方であり、勝ち誇ったような笑みを浮かべたのはファレスであった。
ファレスの拳を躱した――と思った瞬間、妖の左肩に食い込むような鋭い灼熱が生じ、直後、妖の背後にあった住宅のブロック塀が大きく陥没した。
「てめぇ…」
妖の左肩の一部が、食いちぎられたかのように弾け飛び、赤黒い肉が顔を覗かせ、血が奔騰していた。
美貌を歪める妖の目の前で笑うファレスの右拳は、人間のそれとはほど遠い異形に変化していた。
五指はすでになく、獣の如き牙のズラリと並んだ巨大な口にと化していた。
その口が今、妖の肩の肉を旨そうに咀嚼しているのだ。
「叩き潰すんじゃなかったのか、妖」
ファレスが、老紳士の顔でゲラゲラ笑う。
「うるさい奴だな」
そう言い返したとき、妖の左肩には新たな肉が盛り上がり、傷を完全に塞いでしまっていた。
「今のうちだぞ。お前が叩き潰されることには変わりないんだから」
「くく。まだ言うか」
ファレスは、左手で、着ていた上衣を剥ぎ取った。
人間の寿命を遙かに凌駕する時間を、転生の秘術で生き続けてきた大魔導師の肉体は、ファレスの魔力を受けて若返り、逞しさを保っていた。
「その減らず口、叩けなくしてやる」
「いいだろう。やってもらおうか」
妖もまた、破れ、血にまみれた上衣を脱ぎ捨てた。
ファレスが邪悪な笑みを浮かべたとき、今度は左腕が変化した。
まるで太い綱から数十本ものロープがほどけていくかのように、ファレスの左腕は肘の辺りから原型を失い、それぞれが先端に鋭い刃を持った触手の如き形状となった。
しかも、生きている。
一本一本が意思を持って蠢いている。
「切り刻んでやるわ」
ファレスの左腕が赤黒い颶風と化した。
唸りを上げて、妖の正面、左右から同時に攻撃をしかけてくる。
文字通り、眼にも止まらぬスピードで繰り出され続ける刃は、動けぬ妖の全身を切り裂くだけでなく、そこに真空の刃をも生み出していた。
悪魔の業によって生み出されてかまいたち――邪悪な風は妖に不可避な刃となって襲いかかった。
一瞬にして、妖の全身には無数の切り傷がつけられた。
いずれも長さが五センチ前後。深さは一センチに満たない傷だ。
その傷、もっと深く刻み込むことも出来るんだよ。
攻撃を一時中断したとき、ファレスの浮かべた笑みはそういう意味だ。
「おもしろい芸当だな。他にはないのか? この程度の傷なら、すぐに治ってしまうぞ」
実際、その通りである。
ほんのわずかな時間しか経っていないのに、全身に斬りつけられた傷の九割近くがすでに消失してしまっていた。
チッと呻いて、再びファレスが左腕から邪風を放つ。
「――!?」
おかしい、とすぐに感じた。
妖の姿が、邪風の中に在ってわずかにぶれている。輪郭がかすんでいるのだ。
いや、そればかりではない。
傷が――新たな傷が一つもつかないのだ!
躱しているとでもいうのか――
妖が縦横無尽に繰り出される無数の刃を、身体を小刻みに移動させて躱しているのだ。
ならば!
邪風の動きに変化が加わったのは、その直後である。これまでは大小無数の円運動であったところに、直線的な切り込みが加わった。
予測不能な動きに対して、さしもの妖も無傷というわけにはいかない。
そこへ、畳みかけるようにファレスの右ブロウが入った。
邪風の間隙を縫って繰り出された拳に妖は脇腹を食い破られ、ついに集中力を欠いてしまった。
瞬間、さらに風速を増したかまいたちが襲いかかり、妖はついに全身に先程以上の傷を負い、弾き飛ばされてしまった。
宙に舞い、地面に叩きつけられ、だが、すぐに立ち上がろうとする。
その妖の眼が見出したのは、死人男爵の異様な左腕である。
数十本の触手が、螺旋状に寄り添いながら、円筒形態をとりつつある。
それは、巨大な砲身に見えた。
「死霊砲だ」
ファレスが嘲弄するように告げた。
ベルゲリウスの造り出した人工生命体〝ロザンナ〟を狂死させた「死霊弾」のパワーアップバージョンである。
辺り一帯を彷徨う死霊、悪霊、邪霊をファレスの左腕が吸い込んでいく。その中で、高密度な狂気の塊と変えていくのだ。
ファレスの左腕が変化した砲身のサイズから見ても、撃ち出される死霊弾の直径は二〇センチ近い。
ロザンナを発狂死させた死霊弾の直径はわずか五センチ程度。その四倍もの大きさの死霊弾――狂気のレベルは計り知れないものがある。如何な妖とても無事には済むまい。
「狂って死ね、妖」
死霊弾は撃ち出された。
躱すのか。
いや、躱せば、死霊弾はこの街をさらなる狂気の渦の中へ叩き落とすだろう。
ファレスの死霊弾は、超高密度に圧縮された純粋な狂気そのものの塊である。その狂気の一端にでも人が触れてしまったら、その瞬間に人は、この地上に人が生まれ落ちて以来吐き出し続けてきた悪意に精神を浸蝕され、脳が狂気に耐えきれずに弾けてしまうだろう。
この街は、怨念の異形神の波動で破局を迎えつつある。だからといって、今、死霊弾から身を躱すなど、妖に出来る筈もなかった。
では、妖は、この死霊弾にどう立ち向かうというのか。
「この程度なのか、死人男爵」
その呟きは、ファレスの耳に届いたか。
「お前、本気でこの程度なのか」
そのとき、死人男爵は見た。
立ち上がった妖の右掌の上に、暗黒が生まれるのを。
「吸い尽くせ、闇よ」
それは、小さな闇色の穴に見えた。
その穴が、強力な吸引力を示して、撃ち出された死霊弾から死霊どもを引き剥がしていく。
一匹、また一匹と次々に穴の奥深くへ消えていく死霊の姿を、ファレスは茫然と見つめていた。
あれは、ただの穴ではない。
超高速で回転する、小型のブラックホールだ!
奴は――妖は、自分の意思を持ってブラックホールをも創り出せるというのか。
わずか数秒――死霊弾はその全ての死霊どもを吸い尽くされ、力無く消滅した。そのすぐ後、ブラックホールも消えてなくなる。
「どうやら見損なっていたらしい。もう少し楽しめると思ったのだが、残念だ」
「そうかな?」
「――!?」
驚愕は、痛みのすぐ後に来た。




