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怨念の異形神  作者: 神月裕二
第6章 暗黒の支配者
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5

 

 オフィス・ビルの内部は、すでに地獄だった。四〇階建てのビルの屋上から下り始めた獅天たちが、その「地獄」に出会ったのは、三五階を過ぎた辺りからだった。

 最初は、何かのケーブルかコードだと思った。しかし、すぐにその異常さに気づき、それはコードなどではないことがわかった。

 それ――粘り気のある、ゼリー状の物質「触手」は、壁の建築材の接合面やコンセントの穴などから無数にその身体を伸ばし、蠢き続けていたのである。

 妖気は、その「触手」から放出されていた。

 よく見てみると、半透明な物質の中に、微少な妖魔がびっしりと詰まっているのがわかる。そいつらは文字通り無数にいたが、一匹とて同じ形態を持ったものはいなかった。

 見てみるだけで、身の毛のよだつ「触手」は、今や内部のあらゆる天井からもすだれのように垂れ下がり、床を埋め尽くしつつあった。

「――これは……。怨念の異形神〝ロゲス〟の触手なのか?」

 獅天が声を絞り出すように言った。

 廊下の蛍光灯には明かりが点っていた。恐らく、一階から流れ込んだ暴徒のうちの誰かが、ビル内部全ての照明を統括する配電盤を探し当てたのだろう。

 しかし、霊視のきく彼等の眼には、それ以上に、廊下に満ち満ちた悪意の念と渦を巻く暗黒が映っていた。

 蛍光灯はついている。

 だが、もの凄く暗い。いや、昏い。

 魔剣を持つ三人の戦士は、自然に各々の剣を抜き放ち、構えていた。

 妖から預かった〝ふうまの壺〟は、玲花の隣を歩く紀羅が大事そうに抱えている。

 これを使うのは、最後の最後だ。

 思い詰めた表情を浮かべていた。

 そんな紀羅を守るように、義親は根杖を構えている。

 彼等は、ゆっくりと慎重に足を運び始めた。

 この「触手」が、どういう役割をしているのかわからないが、怨念の異形神の一部である以上、不用意な行動は避けたい。

 とはいいながら、もしこの「触手」が一斉に襲いかかってきたら、一気にこの場を切り抜けるしかないこともわかっていた。

 五人が動き始めると、その気配を察知したのか、一斉に「触手」が顔をこちらに向けた。

 今まで、天井からただぶら下がっているだけだった「触手」が、うねるようにその先端をこちらに向ける光景は、はっきり言ってかなりイヤな感じだった。

「焼き払いましょうか、獅天」

「どうしたんだ? やけに積極的じゃないか」

「こういうのが嫌いなだけです」

 珍しく冗談が光炎の口をついて出る。

 この会話にも、何処か余裕が感じられた。

 精霊界における最強の炎の魔神の力を得、そして未知への恐怖を克服した者のみがまとい得る気が、光炎にはあった。

「獅天、あなたは後方を」

「あいよ」

「玲花は左、義親は右をお願いします」

 四人は、紀羅を取り囲むようにして立ち、それぞれの方向からの反撃に備えた。

 たとえ、「触手」と向き合うようにして立っていても、油断は出来ない。

 彼等の耳には、おぞましい音が聞こえていたのである。

 壁のコンクリートや鉄、電気などの配線を喰らい、侵攻を続ける「触手」の音が。

 バギ、バギギ、ベキ…。

 ズル…ズル…ズル……。

 ギチギチ…。ギチ…ギチ。

 最後のは、哭き声だろうか。

 光炎が青竜刀をかざした。

「我に宿りし炎の魔神よ。炎の働きを我が剣に」

 青竜刀の巨大な刃に、不可思議な光が宿り始める。精霊界と地上とを結ぶ次元門が開き、精霊の力が働きだしたのである。

 火焔魔神の炎の力は、恐ろしく巨大だった。

 肉体的にも、精神的にも術者が脆弱であれば、一瞬にして心身を逆に支配され、灰すら残さず焼滅してしまうほどの魔力が、今、青竜刀に宿ろうとしていたのである。

 そして、次元門を展開していたのは、光炎だけではなかった。

 獅天もまた、鞘走らせた広刃の剣に風の魔神を宿らせつつあった。

 凄まじい霊気が、迫り来る妖気とぶつかり合い、ギシギシと空気を軋ませている。

 そんな中にあって、玲花は不思議な気の高まりを感じていた。

 獅天と光炎は、以前とは比較にならぬほど強くなっていた。しかし、自分の体内で稼働する能力も、彼等のそれと全くひけを取っていない。そう感じていた。

 それは、自覚症状のない彼女にとって奇妙なことであった。が、玲花もまた、妖同様に強くなっていたのである。

 大魔導師の内宇宙に封じられた際に、生体エネルギーを根こそぎ奪われてしまった彼女は、妖のエネルギーを分け与えられた。

 そのときは妖もとっさの判断で行ったことなのだろうが、それが結果的に玲花の精神レベルを引き上げる引き金となったのである。

 恐らく、この三人の中で一番強いのは自分であろう、と思う。確かに攻撃力では彼等に勝るはずもないが、「強い」というのは、それだけではない。

 どんなに強くても、人の変革を迎えなければ、この戦いに勝利はない。

 獅天と光炎も、徐々にではあるが、意識野を拡大しつつある。しかし、それ以上に玲花は覚醒しつつあったのである。

 覚醒に必要なのは、母親の如き深い愛情であろう、と玲花は思う。

 人を信じ、愛し抜くこと。

 それが精神を強くし、更なる高みにまで引き上げるのである。

 妖の魔力は、玲花にそのことを悟らせ、変革への道を指し示したのであった。

 変革を迎えつつある人間は、戦いの無意味さに気づき、争いの愚かさを感じるようになる。といって、戦いのない世界に自分だけが逃避するというのでは、人類を導く覚醒者であるとはいえない。

 戦いの無意味さを感じるからこそ、その人は、無意味な戦いをやめさせなければならない。その戦いとその人に、最も適した方法で。

 怨念の異形神は、人の精神を混乱せしめ、人に無意味な殺し合いを強いた、憎むべき敵である。しかし、憎むべき敵は本当にこの妖魔なのだろうか。

 この妖魔を使い、地上に悪夢を現出させたのは、悪魔である。が、人が怨念や憎悪をこんなにも抱かなければ、地上に開いた〝穴〟など決して広がりはしなかっただろうし、一人の少年の心を妖魔に支配され、妖魔そのものに変えることもなかった筈だ。

 では、どうすればいい。

 小林裕介という少年は、完全に心を閉ざし、全てを敵と見なしてしまっている。

 その少年の心を開くためには、どうやればいいのか。

 壁に亀裂が走る音が、玲花を現実の世界に引き戻した。

 見ると、壁一面に蜘蛛の巣状に亀裂が広がり、その隙間から細い「触手」が顔を覗かせている。

 いや、壁だけではない。天井も、床も同じようになっていた。

 ビル内に侵入した外敵が、おかしな行動を起こしたことを知って、ついに妖魔が行動を起こしたのだ。

 駆除にかかったのである。

 そのとき玲花は、フッと自嘲めいた微笑を浮かべた。

 戦いをやめさせるための、戦いか。

 それこそ、一番矛盾した方法であると感じる。が、自分たちには、これしかないのだった。

 だから、この戦いを無意味なままで終わらせたくない、という思いがある。

 それは、エゴだな。

 ふと妖のことを思い出した。


「この戦いに、意味はあるの?」

「ない、と思ったら、俺たちの存在や人生そのものが無意味さ。だから俺は、この戦いは、人の変革を実現させるための戦いだと信じている」


 そうだ。私たちの戦いは、無意味じゃないのよ!

 一瞬、玲花の美貌が嬉々と輝く。

 が、その美貌が曇ったのは、そのすぐ後であった。

 両方の壁と天井、床に走った亀裂がさらに巨大なものとなり、ほぼ同時に空気を揺るがせて一気に崩れ落ちたのである!

 粉塵が立ち上り、彼等の視界を奪う。

 その瞬間、紗の向こう側から束となった「触手」が伸び、五人の身体を捕縛した!

 太い縄は、そう簡単にはちぎれなかった。

 困惑が判断力を鈍化させる。

 逃れる手段を講じ得ぬまま、彼等は「触手」に封じ込められ、凄まじい圧力に潰されようとしていた。


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