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ゆっくりと、天を覆い尽くしていた厚い暗雲が流れ始め、雲間から月光が地上に伸び始めた。
そして、妖が死人男爵ファレスの待つそこに辿り着く頃には、完全に雲は晴れ、南西の空に下弦の月が浮かんでいた。
星辰の瞬きが見える。
地上は、少し明るくなった。
ちょうど獅天たちがビル内に下り始めた頃のことだ。
怨念の異形神が、つぎの成長段階に入ったのだと、妖は感じ取っていた。
妖もまた、ここに来るまで何度も爆発音を耳にし、天へ噴き上がる炎を眼にした。
炎の色や臭いから、ガソリンスタンドが燃えているのだとわかる。
すぐ近くで爆発が起こり、燃え上がる家屋の放つ熱風を浴びたこともあった。そのときは、ガス爆発であったらしい。
人間とは、何と愚かな生き物なのか。
怨念などの悪想念を生み出したのは自分たち自身でありながら、その悪意に精神を支配され、暴徒と化した。
精神が強ければ容易には支配されぬものを、常に欲望で精神を汚しているから、こうなるのだ。
怨念の異形神を生み出し、生長させるのも、そして殺すのも全て、人類の手にかかっていると知れ。
妖は左手前方に空き地が見えたとき、走るのをやめた。
そこから、凄まじい妖気が伝わってくる。
その地に死人男爵ファレスがいるため、辺りをさまよう死霊や地縛霊などが、魔人の妖気と呼応して姿を現していた。
もの凄い数の霊魂が、空中を飛び回っている。
恨みの声、怒りの声、泣き声が聞こえる。
「痛いよう…。死にたいよう…」
「にくい…。生きている奴等が憎い」
「どうして、俺だけが死んだのだ…」
「淋しいよ…暗いよ…」
男も女も、老いも若きも、あらゆる年齢層の人間の「声」が、その空間に谺していた。
妖はその空き地を封鎖するかのように張り巡らされた鉄条網をはさんで、死人男爵と対峙した。
ファレスは、空き地の中央に立って嗤っていた。
妖のすぐ脇の鉄条網に、縋りついて泣く少女の姿が見える。
めちゃくちゃに衣類が引き裂かれ、あちこちから血を流して泣き叫んでいる。
助けを求めているようだ。
布の切れ端のように裸体にからみつく服の残骸から推測して、少女はどうやら明治初期に生きていた人間であるらしい。
「――暴漢に襲われたのか」
妖は呟いた。
そして、ファレスを睨みつけるように顔を向ける。
「よく来たな、妖」
「誘っておいてよく言う。――あれだけの妖気を振りまいて動けば、誰にでもわかるぜ」
「なに?」
ファレスは秘かに眉宇をひそめた。
妖気など、誰が振りまいて動くものか。
確かに、抑え切れぬ妖気は空気中に残ったかも知れないが、では、妖はそのわずかな妖気を追ってきたというのか。
ファレスは戦慄を禁じ得なかった。しかし、それと同時に喜びをも感じていた。
「強い…。そして恐ろしい。だが、この男を殺せば、俺に待つものは望み得る全てのものだ。侯爵位も夢ではない」
そう思うだけで、自然と身体がわななく。
それを抑えるのに苦労したほどだ。
嬉々とした衝動に身を任せれば、妖に勝つことなど出来はしないのだ。
「まぁいい。――それより、ここがどういう場所かわかるか?」
「――いや? 確かに、他の場所に比べて妖気の濃度が濃いように思うが…。それに、死霊や低級妖魔も存在しているようだし」
妖の言う通りだった。
先程の少女の死霊だけでなく、視界がかすんでしまうほどの雑多な霊が飛びかい、地面を覆い尽くしている。
あおあおとした雑草は全て、妖気にあたって茶色く変色し、枯れてしまっている。
「そうか――。ここは、〝穴〟か」
「その通りだ。この地には、いつの時代からかわからぬが、魔界と地上をつなぐ〝穴〟が開いていたのよ」
この地の四次元的内側にぽっかり開いた〝穴〟。その〝穴〟から、常に妖気が地上に流れ出し、この街に住む人間の精神を蝕み続けてきた。言ってみれば、この街には、怨念の異形神を生み出す布石が、遙か昔から置かれていたのである。
侯爵位を手に入れようとする意欲に燃えている死人男爵が、それを見逃す筈がなかった。
「なるほどな。この地に〝穴〟が開いているというのなら、妖気が濃いのはわかるが…。しかし、それほどでもないな」
「そうかね。――ならば、この地の〝穴〟から流れ出す妖気の大半を、〝ロゲス〟に吸収させているとしたら?」
怨念の異形神は通常よりもかなりのスピードで成長することになる。
「なかなか、味な真似をするな」
妖が、ニヤリと笑った。
そして、鉄条網を予備動作なしで軽々と飛び越えると、妖気の渦巻く空き地へと足を踏み入れたのだった。
瞬間、凄まじい妖気が全身に吹きつけてくる。
しかし、妖は何のお構いもなしに歩き続け、魔人との間合いを詰めていった。
「妖、俺はお前をここで殺す。――殺して、侯爵位を手に入れてみせる」
「そのことを、フェノメネウスは知っているのかい?」
「あのような老いぼれの命令など、もはや聞く必要はない」
「本音だな、それは」
「ああ。――人間に転生し、記憶も、本来の魔力も失い、疲弊しきった貴様に敗退を喫するなど、老いぼれた証拠よ」
「仲間割れはいけないな。――それに、年寄りは大切にしないと、罰が当たるよ」
「貴様も、裏切ったとはいえ、魔界の一員だった男だ。わかるだろう? 我等三人の間に仲間意識など存在しないことが」
わかってしまうから困ったものだ、と妖は自嘲じみた笑みを浮かべて肩をすくめた。
そうなのだ。三人の悪魔――魔界侯爵、魔人伯爵、死人男爵は、大魔王サタンの命令にのみ従って、唯一の目的のために動いているに過ぎないのだ。
しかも、魔界侯爵は「中傷者」アスタロトの軍団に属し、死人男爵は、「不正の器」ベリアル麾下の悪魔である。
そのため、魔力の差こそあれ、爵位の上下はあまり関係ないのだ。もっとも、これは原則的なものであるため、究極的には、全ての悪魔は「奇蹟の模倣者」魔空神王サタンの下に存在するということが出来る。
戦うことにのみ存在意義を見出す悪魔にとって、必要なのは絶対的な魔力の差である。
たとえ爵位が上で、同じ王の下にあっても、魔力が減退すれば、そいつは他の悪魔に蹴落とされてしまう。常に実力だけが、我が身を支える世界が魔界なのである。
「ふん。――でも、老いても侯爵だぜ、彼は。魔界貴族第五位の貴様に、俺が殺せるかな?」
「舐めるなよ、妖。俺は、ベルゲリウス・ホーンの身体を手に入れたのだぞ」
死人男爵ファレスは、地上に顕現する際には、必ず地上の生物の肉体と同化しなければならない。同化して、初めてその魔力を振るうことが出来るのである。
しかし、通常の人間の肉体では、ファレスの放つ腐敗性の強い妖気に耐えることが出来ず、数日で使い物にならなくなる。また、耐久性も低いため、強力な魔力を放射しようものなら、一瞬で砕け散ってしまうのだ。だから、ファレスは自らの魔力を半分以下に制御しなければならない。それを補うために編み出したのが、生物の死体を生きているが如く操る「死人使い」である。
そしてファレスは、先日、初めて己が魔力を存分に振るっても腐敗せず、耐久性も群を抜いて強い肉体を手に入れた。
大魔導師の称号を得るにふさわしい肉体であった。
「そうかい。――じゃ、試してみるか」
妖は、猫足立ちの構えを取った。
「後悔するなよ」
瞬間、ファレスの姿が残像を残してかき消える。
「――!?」
残像が残るほどの高速移動。
一瞬にして、ファレスは妖の懐に飛び込んできていた。
「――何!?」
愕然となる妖の右脇腹に、ファレスは伸び上がりざま拳を叩き込んでいた。
たまらず、数メートル近く吹っ飛ぶ妖。
「油断したな、妖」
間合いを取り、ファレスが嗤う。
「まったくだ」
妖は腹に手を当てながら、言い返した。
その美貌が微かに苦痛に歪んでいるのは、ファレスが拳から衝撃波を体内に流し込んだからだ。
今頃、内臓がその波に揺さぶられているのだろう。だが、死ぬほどではない。
妖ならば。
普通の人間なら、今頃内臓を圧し潰されて、血を吐き死んでいることだろう。
「〝高速化〟と来たか。予想外だ。」
苦笑いを浮かべる。
「だが、見えないわけじゃない」
「口の減らない男だ」
「減らず口かどうか、その身体で確かめてみるか?」
「良かろう。――来い!」
刹那、妖が地を蹴って走っていた。
疾い!?
一瞬で間合いを詰め、
「哈ッ!」
裂帛の気合いを迸らせ、ファレスの側頭部目がけて回し蹴りを放っていた。
ファレスが、左腕を上げてブロックする。
「――!?」
愕然となったのは、しかし、ファレスであった。
蹴りをブロックした筈の左腕が、何の痛みも伝えてこないのだ。
困惑は、しかし一瞬であった。
ファレスは、反対側の右側頭部に受けた強烈な回し蹴りで、吹っ飛ばされていた。
何が起きたのかわからない。
そのまま三メートル近くも吹き飛び、ブロック塀に激突し、ファレスは地面に崩れ落ちた。
ブロック塀の一部が激突の衝撃で破壊されてしまっていた。
「――双龍脚というんだが、いかがかな?」
ファレスが苦痛に顔を歪ませて起き上がったとき、妖はそう言った。
「……クッ……」
なるほど。
右の回し蹴りを放った直後、右足が地面に戻るよりも速く左の回し蹴り叩き込む。
しかも、妖の蹴りの速度は、空手家や拳法家の〝達人〟たちのそれを、遙かに凌駕していた。まさに電光石火の攻撃だった。
ファレスが躱せなかったのもむべなるかな。
再び、二人の魔人は静かに対峙した。
空気が、キンと凍りつく。
緊張が急速に高まっていく。
しかし、その緊張も、つぎの激突までのわずかな時間に過ぎないことは明らかであった。




