2
「悪あがきはよせ」
林立する石槍の間をすり抜け、魔導師と対峙した瞬間、妖の顔面めがけて氷嵐が舞った。
ベルゲリウスが、氷の輝きの中に銀閃を見たと知ったとき、氷片の壁が左右に分かれ、その中から妖を生み出した。
「俺には勝てはしないよ」
「ぬ、ぬかせぇ!」
刹那、今度は妖の身体が炎の柱と化した。
しかし、音を立てて燃えさかる炎をその身にまといつかせたまま、妖は平然と歩き続けた。
「ほめてやるよ、ベルゲリウス」
「――!?」
「これほどまでに魔法が使えるとはな。人間にしては素晴らしい素質だ」
妖は呟くように告げた。
「――だが、ここまでだ」
そのとき、妖を燃やし尽くそうとがんばっていた炎が一瞬にして消えた。
妖は、わずかな火傷すら負わず、しかも服に焦げつきさえもない。
何という――
何ということか――
玲花は、ただ瞠目してこれを見守るばかりであった。
何という、歴然とした魔力の差か。
三百余年の間、転生を続け、魔力を高めて生きて来た大魔導師が、妖にかすり傷を負わせることも出来ないでいるのだ。
人類は、最強の味方を手にしていた。
しかし、妖の持つ強大な魔力が、容易に全人類、全生命体を滅亡させうるのだと知ったとき、果たして、人類は妖を、人類最大の敵を受け入れるのだろうか。
玲花は、自分の足が小刻みに震えているのに気づき、何故だろうと思った。
戦いへの高揚感か、それとも――
妖の魔力への恐怖か。
ベルゲリウスは焦燥と恐怖のため、先程までいた位置からかなり後退してしまっていた。
そこは、ほぼ魔法陣の中心である。
今や、妖は魔法陣の端に足をかけていた。
これまで、ベルゲリウスがいたところだ。
「――どうした、魔導師。もう終わりか?」
「まださ。まだ、これからなのだよ、妖」
「くく。強がりを」
そう嗤って、妖が魔法陣に向かって足を踏み出そうとしたときだ。
突如、玲花の脳裡にある光景が浮かんだ。
暗黒。
そして、灼熱。
奈落のイメージ。
落ちてゆく妖、そして玲花。
シルエット化した街並み。
「なに…何なの、これは」
その答えを見出す前に玲花は走っていた。
「妖! 駄目ぇ!」
叫んで飛びついたのだが、遅かった。
妖は、わけもわからぬまま、抱きついてきた玲花もろとも魔法陣内に足を踏み入れていた。
「かかったぁ!」
瞬間、これまで負け犬のような表情をしていた筈のベルゲリウスが嬉々として大声で嗤った。
今までのは全て演技だったのか。
今頃だまされていたことに気づき、妖は舌打ちした。しかし、もう遅いのだ。
もう、この魔法陣から外に出ることはかなわない。
ベルゲリウスが叫ぶように言う。
「大魔導師ベルゲリウス・ホーンの名に於いて命ず。来たれ、暗黒の王! その力、我が眼前に示せ!」
瞬間、このデパートの建物を包み隠すかのように、巨大な暗黒球が出現した。
同じ時刻。
〝美槌〟本部にある霊気測定器の針が振り切れ、火を噴いた。そして、周りにいた何人かの人間が意識を失い、昏倒した。そのまま彼らは植物人間となり、二度と立ち上がることはなかったという。
「いったい、何があった!?」
「わかりません。――しかし、今まで結界のあった地点に、強力な妖気が発生したということしか……!」
「思念映像、入ります! 精神を集中してください!」
その報告を受けた〝美槌〟全員の脳裡に、思念が投射され、ある映像が結ばれた。
「こ、これは――!?」
暗黒の球体だった。
全員の脳裡に、あの忌まわしい記憶が蘇ってくる。
魔界侯爵の創り上げた結界も、これと同じではなかったか。
「これが、妖気の正体なのか。――しかし、いったい、何が内側で起こっているんだ……」
絶望的な口調で、誰かが呟く。
妖と玲花がその内部にいることはわかっている。二人の生還は、果たして望めるのか――。
瞬間、ベルゲリウスの立つ足許に黒い点が生じた。それは、「穴」であった。
地獄へと続く異次元回廊が、今、大きな口を開き始めたのである。
穴は、見る間に大きくなっていく。
その底知れぬ奈落の縁が自分たちの足許に迫るまで、わずか数秒。
妖たちに逃げ場はなく、ただ、その暗黒が広がるのを見守るしかなかった。
玲花が、妖にしがみついてくる。その華奢な肢体は恐怖と不安に、小刻みに震えている。
「大丈夫だ、玲花」
そういった妖自身、何が大丈夫なのかわかっていなかったが、玲花から不安を取り除くには充分だったようだ。
「うん……」
玲花が小さな声で答えたとき、暗黒が二人を呑み込み、異次元の彼方に待つ地獄へと叩き落としたのだった。
そして、二人は暗黒の中にいた。
落ちていく感覚が玲花にはあった。
「――落ちてるみたいね、私たち」
「わからん。俺には逆に感じられるよ」
「え?」
二人が思わず顔を見合わせたとき、魔導師の気にさわる含み笑いが聞こえてきた。
「く、く、く。どうだね、妖。いつ果てるともしれぬ暗黒の中を漂う気分は」
「あんまりいい気分じゃないね」
と妖がうそぶく。
「クク、減らず口をたたけるのも今のうちだぞ」
「そうかい。――ところで、これは俺も知らない魔法だが、なんて名前だ?」
「知らぬのも道理よ、妖。この術は秘法中の秘法、禁呪中の禁呪。ここ数百年間、この魔法を修得した者はいなかったほどの者なのだ」
「そういう魔法を、俺は修得したのだと自慢したいのか?」
「ぬかせ。――古代の魔法書にさえ出てこないこの術は、直接悪魔に修業を請うほか道はないのだ。この私とて同じだった。この術を得るために、悪魔と契約したといっても過言ではない。それ故に、名前はついておらぬ」
いつしか、ベルゲリウスは妖たちの頭上に姿を現し、浮遊していた。いや、果たして、その姿は本物なのだろうか。
「この術はな、魔法陣によって発生させた暗黒虚無の結界内部に、別次元の事象を引き込み、この世界の事象と原子核融合を惹起させる――魔力回路によって増幅されたその凄まじいエネルギーはあらゆるものを蒸発させ、事象の地平線に歪みさえも生じさせることが出来るのだ」
「よくわからんが、では、俺たちは、何故生きている?」
「原子爆発が生じる寸前に、貴様等を別の並行世界へと叩き落としたからだよ」
「今頃、あのデパートは完全に消滅しているというわけか。――何故だ?」
「貴様等を生かしておいた訳か? 並行世界に叩き落としておけば、如何な貴様とて次元の壁を超えてまで、こちら側に干渉は出来ないだろうからな」
「いやいや、いくら俺でも、原子爆発には勝てないよ」
「本気でそう思っているのか?」
その言葉に、妖はニヤリと笑っただけだった。
恐らく、妖は生き残るだろう。
この地上を七日七晩焼き続け、岩鉄を蒸発させる超超超高熱の炎でさえも、妖を焼き殺すことは出来ないだろう。そんな気がする。しかし、そのときでも、妖は私を守ってくれるのかしら。
「心配いらないよ、玲花。俺はいつも、お前と一緒だ」
玲花の心の声でも聞こえたのか、妖は優しくそういって、玲花を抱き寄せた。
「では、諸君。異次元境で朽ち果てるがいい」
魔導師の姿が闇に紛れるようにして消えたとき、二人は地上で眼を見開いた。
「ここは――」
何処なんだ?
上体を起こし、玲花がそばで眠っているのを確かめて、妖は呟いた。
空が、真紅に染まっていた。
街は、暗黒に沈んでいた。
静寂が、世界を支配している。
シルエット化した街は影絵のように非現実的で、すぐそばにあっても、それが建物であるという実感がわかない。
妖は玲花を起こすと、あたりに鋭い視線を飛ばしながらゆっくりと立ち上がった。
辺りに気配がないとはいえ、油断は出来ない。何処に妖魔が潜んでいるのかわからないのだ。ここは、そう、異次元の街なのだから。
そしてその頃、〝美槌〟にもたらされた絶望的な報告に、人々はそれを耳にした途端石化してしまったという。
「暗黒虚無の結界消失。建造物消滅。それとともに、妖と玲花の生命反応が消滅しました」




