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アジア大陸の東端にある島国「日本」は、四日前に大きくその姿を変えた。
京都府のある一点を中心にして、突如、原因不明の大爆発が生じたのである。
火山の噴火などでは決してあり得なかった。第一、京都を含む近畿地方には活火山らしい火山は現在のところ存在が確認されていない。たとえ存在したとしても、それはもはや死火山でしかない。
また、仮にそれらの死火山がいっせいに噴火を起こしたとしても、今回の異常な爆発には全ての点で遠く及ばぬ筈である。
爆発時に生じた熱線と光、そして風はその後も徐々に広がり続け、わずか十分あまりで直径を一二〇キロにまで達したのである。
凶悪な爆風が、灼熱を浴びて脆くなった一切の物を粉々に砕いていくのは容易なことであった。やがて爆風が熄み、モウモウと立ち上る砂埃がようやくおさまったとき、地上に残されたのは全き生物の気配が消えた、無惨な文明の骸でしかなかった。
これが、果たして大自然の為せる技なのか。
人の生命を優しく育んできた地球の怒りなのか。それとも、神の計画であったか。
そのどれに於いても、答えは、否であった。
爆発の瞬間、世界中に確かに存在する真物の霊能力者たちが、全く同じ内容の幻覚・夢を見て意識を失っていたという真実が、瞬時にして秘密結社〝美槌〟にもたらされた。
ある者はロサンゼルスの教会で、ある者は高野山で、ある者はチベットで、そしてある者はギリシャで、バチカンで……。
〝美槌〟は即座に動いた。この現実から人々の意識を逸らさなければならない。
報道機関に圧力をかける程度では済まされなかった。
ここ十数年のうちに何度も日本を襲った震災で、人々は喪失の虚無感に囚われていた。
自分の大切な人が、圧倒的な力で有無を言わさずに喪われていくのだ。
その喪失感たるや、想像を絶するものであろう。
だが、今回の異常事態は、それを遥かに上回る規模だ。何よりも、誰も何が起こったのか理解できない。地震でも火山の噴火でも、津波でもないのだ。何の前触れもなく、いきなり全てが消滅したのだ。
〝美槌〟にとっても、非常事態であった。
そこで〝美槌〟は、世界各国に存在する超常能力者たちに呼びかけ、全世界のあらゆる人々の精神に働きかけ、この異常な現実から意識を背けるよう、意識しないように精神操作することにしたのだ。
爆発に巻き込まれ消滅した身内や友人・知人がいたとしても、意識しない。
消滅した現場を見たとしても、視界には入っても、脳まで届かない、理解できない。
幸いなことに機械の眼であるカメラ、それこそビデオカメラから人工衛星に至るまで、魔の放つ妖気のせいで、映像は乱れ、音声はノイズに掻き消され、何一つ伝えることが出来ずにいた。
精神操作は最終手段であった。何故なら、人権や倫理といったものに抵触するからだ。
しかし、今回はその手段を採らざるを得なかった。
もし真実を知れば、人々はたちまち正気を失いパニックに陥り、未曾有の大混乱が生じるだろう。
それだけは何としても避けなければならなかった。何故なら、混乱と狂気こそ悪魔の好む物に他ならないからだ。
人が理性を失ったとき、悪魔は人の精神の網の目をくぐり抜け、容易に悪の種を植えつけてしまう。
つまり〝憑依〟するのだ。
この四日間で、地上に残念した邪霊にとり憑かれた人間が九百人、すでに世界中で死亡したという報告も入ってきている。
魔界貴族が降臨し、魔道門が現出したため、まさに人間界と魔界は隣同士になった。
悪魔は、すぐそばにいるのだ。
それはともかく、幸いにして、意識不明になった霊能力者たちは二日後には全員蘇生していた。
彼等は何を見たのか。
いや、見せられたのか。
それは――
人類の敗北と破滅。
引き裂かれる大地。
絶望に立ち尽くす人々。
死と地獄を導く暗黒。
魔界帝国の主にして七大悪魔の長の復活。
そして、地上への降臨。
薙ぎ倒されていく文明。
瞬時にして全世界に波及する狂気、そして、死に至る病。
そこから導かれる核の爆発…地震…落下してくる無数の隕石。
この地上から一切の生命が消え――
灰色の世界――やがて暗黒虚無へ。
それを、ノストラダムスの預言や黙示録のように暗号か何かであるとして、早速預言書の解読を始めた研究者もいた。しかし――
そんな誰もが思うのは、
悪魔は、本当にいたのだ……。
いつの日か、無数の不気味な姿をした悪魔どもが、この大空を覆い隠す日が訪れる。
いつの日か、大地が悪魔どもに黒く埋め尽くされ、蹂躙され、大魔王サタンが甦る秋が来る。
誰かが言った。
その日は静かに忍び寄り、いつの間にか人の精神を支配するだろう、と。
霊能力者たちの言葉と日本の怪異な爆発とが、全く別次元に展開されるものであると考えられる人は幸福である。
二つの事件を関連づけて考えたとき、霊能力者たちを昏倒せしめたのが、爆発の瞬間に信じられない数値で検出された不可解な波――信号であることが想像できる筈だ。
その波こそ、この爆発を生ぜしめた存在、すなわちアスタロト麾下の〝魔界侯爵〟フェノメネウスの妖気波動なのだった。
そして、彼は今もなおこの地上にいる。
――
近畿地方に広がる妖爆の痕には、魔界侯爵が去った今でもなお妖気が残留しており、それが浮遊霊や邪霊などと融合し、霊的変貌を遂げて奇怪な生物を無制限に生み出し続けている。
体長三メートル、胴回り五〇センチの人喰いミミズや、脚の長さだけでも一メートル近くになる巨大な蜘蛛がその良い例だ。
そいつらに手足を喰われたり、糸でぐるぐる巻きにされて体液を抜かれた人間が二人出た時点で、〝美槌〟は即座に爆発跡のぐるりを囲むように結界を布陣した。
結界は、直径が五〇センチほどもある荒縄でこしらえられていた。
行動が遅れたのは、よもやそのような事態が発生するなどとは思いもよらなかった幹部――八導師の責任である。自分たちの精神操作は完璧だと思っていたのだ。
今、布陣した結界の周囲を二四時間体制で〝美槌〟の隊員たちが見回っている。
迷彩服に身を包み、マシンガンを手にしている。眼にかけているサングラスは、暗視装置となっていた。
しかも〝美槌〟技術局特製で、そのサングラスは霊物質の存在を見出すことが可能なのだ。
すでに閉鎖地区として厳重な警戒体制下に置かれたこの地に、警備の目を盗んでまで侵入してこようとする輩はいない。
八導師たちによる精神操作のおかげで、それ以降この結界に近づいてくる人間は一人も出なかった。
それでも、日中、何か不思議な気配を感じて結界に目を向ける人間がいないこともない。恐らく霊感が強いとか、そういう類だろう。
だが、近づいてくることはない。
誰の眼にも、結界はおろか、〝美槌〟の隊員の姿さえ映らない。
だから、誰も来ない。
その筈であった。
だから、人喰いミミズや、顔だけを地表に突き出して獲物を狙う液状の肉食獣などの餌食になるかも知れぬこの地域に、その人影が現れたとき、隊員たちは思わず眼を疑ったものだ。
荒縄の結界はもとより、警備員の衣服には強力な霊気を染み込ませてあるために妖物は近寄ろうとはしなかったが、何の装備も持たぬ一般人が、妖魔の活発化する夜にここに足を踏み入れるなど自殺行為に等しかった。
一瞬で生気を抜かれ、衰弱死してしまうからだ。
しかし、その男に限って、そうはならなかった。
彼が警備員らの前に立ち、ゾッとするような薄ら笑いを浮かべた瞬間、辺り一帯から狂ったような方向と、それに見合うだけの妖気が噴き上がったのである!
「な、何者だ!?」
警備員の一人がマシンガンを腰だめにし、誰何の声を上げる。声は戦慄と恐怖に震えていた。
「ここが、立入禁止区域だということは知っている筈だ! 生命が惜しければ今すぐ立ち去りなさい! これ以上近寄ると、生命の保障はしない!」
返事は小さいながらすぐにあった。
「生命など惜しくはない。あの御方の復活は我等が悲願……」
「な、なに……?」
呟くような声だったので、彼にはよく聞き取れなかった。もし仮に聞き取れたとしても、男が何を言いたいのか理解できなかっただろう。
「その悲願がために死ぬるは、我等が本懐よ」
男は伝法調で言った。
このとき、警備員たちは男の双眸が、らんらんと赤く光り輝いていることに気づいた。
おお、その眼は――
「あ…悪魔…」
「ここは我等が土地。大魔王復活がために負のエネルギーを取り込む要の地。それをこのような結界で囲んでおいて、何が立入禁止だ。ふざけるのは、ここまでにしておいていただこう」
「な…く、くそ!」
彼はマシンガンのセレクターをフル・オートに切り換え、次の瞬間、思い切り引き金を絞っていた。
怒りがあった。
彼の生まれ故郷は大阪であった。小学校の前半までを大阪で過ごし、そこから東京に移り住んだ。両親は、自分の息子が国を守る大切な仕事に就いていることを誇りに思っている。彼もまた、両親を尊敬し、愛していた。その両親が、今回の爆発事件を耳にし、倒れた。この土地には、彼等の父母――ほとんど記憶にない彼の祖父母がいたからだ。もちろん、彼の旧い友達も。みんな死んだ。殺された。何の罪もないのに、殲滅されたのだ。
そして今、不当な言いがかりによって追い出されようとしている。
恐怖があった。
自分たち人間が生まれて初めて出会う、心の底から恐怖する対象――生命をもがれるという天敵への恐怖。いってみれば、人間としての誇りと尊厳にかけて、悪魔の侵攻を阻止したかったのだ。だが、悪魔にとって眼前の人間は、あまりにも愚かで、あまりにも非力だった。
小気味よく銃口から打ち出される弾丸は銀で出来ており、そこには破邪と降魔の強い念が込められていた。
その弾丸を撃ち込まれたら、人間はもちろん霊的存在の悪魔さえも死滅し、消え去る筈であった。
だが人は、悪魔を見くびりすぎていた。
彼等が恐れるのは純粋な思念だ。その本人が放出する降魔の念だ。
神を崇め、仏を拝することを形式化しつつある人間の念程度では悪魔は傷つきもしない。
弾倉内の破邪弾を全て叩き込まれて、なお、眼前の悪魔が平然と立っているのを見たとき、警備員は死を幻視した。
「馬鹿め」
男が吐き捨てるように言った言葉を、彼は最後の審判を待ち受ける亡者の如き表情で聞いた。
「貴様等人間が、我々を斃せると本気で思っているのか。今の人間どもの思念など、遙か昔に仲間の誘惑を払いのけたイエスやゴータマの足許にも及ばんことを知れ」
「ヒ……」
警備員が声を上げた。
近づいて来る。
ああ…自分を殺しに…あ、悪魔が……。
顔は、ただの人間なのに…俺には恐ろしい悪鬼に見える。奴は…奴は――
突如息苦しくなり、瞬間、永劫の暗黒が訪れた。
男は、己が足許に倒れ伏した、あわれな人間の姿を、赤光を帯びた眼で見下ろしていた。
その眼には、侮蔑と嘲笑があった。
「この地上を這い回ることしか出来ぬ虫ケラが」
再び吐き捨てると、男は顔を結界に向けた。
その顔は、やはり、紛れもなくある街の路地で死んだ筈の男――東山昭吾のものであった。
しかし、今、東山の体内には別のものがいる。彼の臓器全てを口腔より放り出し、そいつは腹の中に巣喰っているのだ。
「――結界か。なるほどな」
死人男爵ファレスは、東山の発声器官を通して呟くように言った。
その眼は、眼前に張られた荒縄を見つめている。荒縄は、〝美槌〟の指導者である八導師の呪力を封じてあり、その全長はおよそ三七七キロにも及ぶ。
また、十メートルごとに高野山座主がしたためた呪符が貼られ、今も妖風に吹かれて揺れている。
結界の内側では赤色の風――妖気を含んだ風が絶えず吹き狂っている。
コレは、先日地上に降り立った魔人たちの残した妖気が発生源になっているのだが、結界を破ろうと吹いてくるため、魔空神王サタンの復活の近きを知らしめようとしているのかも知れぬという憶測が〝美槌〟内部に流れた。
ファレスは、男の両腕で何のためらいもなく結界に触れた。
一瞬、苦痛に顔が歪む。
「くっ……!?」
どうやら神経はファレス自身と直結しているらしい。見れば、荒縄を握った手が白煙を上げているではないか。
ファレスの放つ妖気に、荒縄に封じ込まれた霊力が反応しているのだ。
低級妖魔であれば触れた瞬間に消滅してしまうほどのパワーだった。
だが、たとえそれほどのものであったとしても、ファレスにとっては顔を一瞬歪ませる程度のものだったようだ。
次の瞬間、ファレスは、左手で風に揺れる呪符を薙ぎ払うや、残る右腕で結界を引きちぎっていた!




