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怨念の異形神  作者: 神月裕二
第1章 胎動
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 オオオオ――ン!


 聞く者の心を恐怖で満たすほど、地獄めいた不気味な咆哮が、そのとき天に谺した。

 凄まじいレベルの妖気が、一気に地上に噴出する。

 妖気は周囲の大気の温度を下げてそこに存在するため、〝美槌〟の観測によれば、近畿地方一帯の気温がこの瞬間十五度も下がった。

 夏の夜――熱帯夜であった筈が、一気に一〇度前後にまで下がったのである。

 このことは、生きている人間が近畿にはいないため、一般人の生活には大した影響は与えなかった。ただし、今のところは、だが。

 だが、結界のぐるりを五〇メートルおきに監視していた警備員と〝美槌〟、そして気象衛星だけは、この異常事態に気づき、迅速にデータの収集を開始した。

 ファレスは、すでに結界内に足を踏み入れていた。このとき、彼は全身の肌で感じていたのである。侯爵フェノメネウスの生ぜしめた爆発で死んだ数百万にも上る人間の怨念を。

 熱さや痛みを感じる暇すらなく消滅した人々は、怨念に満ち満ちた魂だけを依然としてこの地上に残し、彼岸へはまだ発っていないらしい。

 あまりにも怨念のエネルギーが強いため、自らを地上に縛りつけているのである。

 生きている者たちが憎いから。

 何故、自分たちだけが死なねばならなかった。

 彼等には、阿弥陀仏の救いも神の救済も訪れないのだろうか。ただひたすらに人を憎悪し続け、救世主の降臨を待つしかないのだろうか。

 ファレスは、その天上の音楽にも似た怨念のエネルギーを全身で感じながらも、目的のものを探し当てていた。

 それは、暗黒であった。

 衛星軌道上からでも容易にそれとわかる、直径一二〇キロの傷痕。

 その真上に、常人の眼には決して見ることの出来ぬ〝空間のひずみ〟がある。

 地上十キロの虚空に、である

 それなりに能力のある霊能力者なら、そこに闇があるのをぼんやりと見て取れただろう。

 魔空間である。

 そして、魔空間にいる悪魔の存在が大きすぎるため、地上界にも影響が及んでいるのであった。

 今、魔界と地上界とをつなぐ魔空間の中に、一匹の巨大な龍がいた。

 だがその龍は、魔空間に横たわるフェノメネウスが得意とする龍身変化によって彼自身が変身した邪龍ではない。

 フェノメネウスの魔力が弱っているため、妖気を龍の形にして、絶対防御の結界としているのである。

 侯爵は、龍の両前肢の間にいた。

 龍珠のように光る球がそれである。

 その内側(なか)で、侯爵は、あの男に受けた傷を癒しているのだった。

 普通の傷であれば、受けた直後に魔界貴族特有の脅威的な再生能力が働き、一瞬で、遅くとも数秒であらゆる傷は完治する。

 しかし、その魔界貴族の侯爵位にある魔人をして、すでに四日もの間苦しめ、今なお苦しめ続ける傷を負わしめたのは誰か。

 妖。

 それが、あの美しい若者の名だった。

 そして妖こそが、「魔界の裏切り者」であり、魔族に刃を向ける今、最強の敵でもあった。

 妖を斃さぬ限り、大魔王の復活は困難となる。よしんば復活は果たせたとしても、妖を欠くのは魔王軍団にとって致命的な問題となるのだった。

 妖は、それほどまで魔空神王サタンにとって、いや、魔界にとって重要な地位(ポスト)にいたのである。

 しかし、妖は裏切った。理由は現在のところ不明である。妖自身覚えていないのだから。だが、とにかく敵となった以上、斃すしかなかった。それが悪魔の本質である。

 魔界侯爵をも上回る魔力が完全に覚醒していない今こそ、妖をしとめる絶好機なのだ。

 フェノメネウスは眼を閉じながら、そんなことを考えていた。

 妖の魔力の根源は、闇である。

 それを魔剣の刃に乗せて相手を斬り裂くのだ。

 侯爵を傷つけたのも、その技だ。

 鋭い刃が肉に食い込んだ瞬間、妖の魔力が刃より迸るのがわかった。それが暗黒そのものとなって、侯爵の骨肉を吸収し始める。

 啖うのだ。

 闇が、肉体を蝕むのだ。

 だが、闇が喰うのはそれだけではなかった。

 その者の持つ生体エネルギーさえもすするのである。それを吸い尽くされたものは一瞬で老いさらばえ、頬はこけ、眼は落ちくぼみ、髪は白くなって抜け落ちていく。

 立ち上がる気力さえ失ってしまうのだ。

 その状態が、現在の魔界侯爵であった。

 彼を知る者が見たら、これがあのフェノメネウスなのかと眼を(みは)るほどである。

 今は、魔神アスタロトがサタンに進言して届けられた「魔界の光」によって徐々に生体エネルギーを回復しつつある。

 しかし一番の薬は、やはり、下等な人間どもの阿鼻叫喚であり生き血であることを、彼とともに地上に降りた死人男爵は知っていた。

「…ファレスよ」

 侯爵は、やや生気を帯び始めた声で、光の中からファレスに呼びかけた。

「は。控えております」

 応えはすぐにあった。

 フェノメネウスは、ファレスが空間のひずみを乗り越えて、この魔空間に侵入して来たことに、すでに気づいていたのである。

 それも当然だった。何故なら、この魔空間は侯爵が己れのために閉鎖した、一種の内宇宙なのだ。だから、この空間に入ってくることは、たとえ同族であれ、侵入したことになるのである。

「私の傷は、この通り、まだ回復せん。しかし、復活の準備を遅らすことは出来ぬ。――次の魔を解き放たねばならんのだ」

「承知いたしております。すでに次の標的となる人間、そして魔を解放する地の見当はついております」

「そうか。――では、一任して良いのだな」

「はい。必ず、サタン様の復活に必要な量の人間どもの生贄を、数日のうちに捧げてご覧に入れます。

 我等魔界九層の覇者、魔空の支配者のおんために、光には闇を、平穏には破壊と戦慄を、そして地上には呪いと災いを」

「うむ。私はもうしばらく、この光の中で傷を癒すことにする。――ファレスよ、妖に気をつけろ」

「肝に銘じまして。――では」

 と声が聞こえた直後、光の外に今まで存在していた男爵の気配が消えた。

 人間の住む世界――地上界へ瞬間移動したようだ。

 しばらくして後、侯爵の呟きが魔空間に流れた。

「ふふ…はりきっておるわ。私が倒れたこの機に、爵位の向上を狙うか。ま、それも良し。

 結果的に〝最後の審判〟を優位に導くことが出来れば良いのだ…。しかし、さて〝壺の中の魔〟でどこまでやれるか。――楽しみだな」

 数秒後、再び侯爵は眠りに落ちた。

 ゆっくりと、妖に受けた傷は回復しつつある。それが肉体的にも精神的にも生じていることがわかる。

 いつの日か必ず妖を斃すことを夢見ながら、フェノメネウスは光の中にいた。

 地球だけでなく、太陽系を含む銀河系、さらに、この次元宇宙全てを破滅に導かんとする歯車が、今、暗黒の中で再び回転を始めた。世に満つる妖気と人間どもの吐き出す悪想念が、それを為さしめる程に増しているのだ。

 近く、地獄が人々を呑み込もうと釜の蓋を開くだろう。

 地獄が現出するとき血の雨が降り、人々が絶望に立ち尽くすのは必死であった。


 その危機を感じ取ったのか、ファレスが魔界侯爵と邂逅したのとほぼ同時刻、秘密結社〝美槌〟は、八導師に〝石板の間〟への集結を命じた。

 普通の生活をしている人々が、一生かかっても知り得ない場所――亜空間に、〝美槌〟は存在していた。その一室〝石板の間〟に、八導師と呼ばれ、組織を運営していく立場にある八人が続々と集いつつある。

 古墳の石室のような、石で囲まれた部屋の中央に、一枚の石板が何の支えもなく浮いている。これが、この部屋の名の由縁だ。

 一人、また一人と虚空に開いた八つの〝穴〟から老人たちが出てくる。すると、彼等を吐き出した穴は、その背後で口を閉じ、全く見えなくなった。

 八導師が、自分の能力を駆使して亜空間の〝美槌〟と地上とを結んだ〝霊道〟が、この穴なのである。この穴さえ開ければ、どんな所にいようとも、一分とかからずに望む場所へ向かうことが出来た。 そして今、空中に浮かぶ石板を取り囲むようにして、八人の人間がいた。

 先程、老人たちと書いたが、年齢層としては三〇代から上である。但し、平均年齢は、これより二〇は上だ。

 〝美槌〟に属する人間は、それぞれ暗号化した名を持っている。そして、自分以外の如何なる者に本名を名のることはまずない。

 八導師たちも然り。

 石板の正面に経つ、純白の顎ヒゲを蓄えた老人が、最長老の(テン)である。そして彼から順に右回りに、(ソウ)(トウ)(ケイ)(メイ)(シン)(セイ)()となる。

 このうち、八導師の男の中で最年少の星が、現在の〝美槌〟の戦闘部隊である四天王・八天部の統率を一任されていた。しかし、先日の一件で、あまりにも私利私欲をむき出しにした命令と行動を行ったため、現在は四天王の指揮権を剥奪されてしまっている。

 そして、その四天王でさえも今の〝美槌〟には存在していない。もともと四天王とは、光炎、獅天、玲花、妖の四人から成り、その強力な超能力で退魔を行ってきたのだが、あの一件以来、妖と玲花が組織を脱退させられてしまったため、四天王は解散し、残った二人は天の指揮下に入った。

 老いたるとはいえ、他の八導師よりも長く〝美槌〟にいる男なのである。まだまだ、指揮能力に衰えはなかった。

「――さて、諸君。すでにどういった事態になっているか承知していると思うが……」

 重々しく、天が口を開いた。

「破られた結界は、すでに阿難と果宝を向かわせ、修復を急がせております」

 と星が引き取る。

 彼の向かわせた阿難と果宝というのは、少年少女の超能力者集団である天部に位置する二人である。

「ふむ…」

「しかし、修復には今しばらく時間がかかるかと思われます。結界は強力な力で引きちぎられており、その部分には貴族レベルの妖気が残留しております」

「――また、死亡した隊員の死体を発見したのが、死後十分ほどが経過してからだと思われ、この間にどれほどの妖気――低級妖魔が結界の外に流れ出したのか、全く推測がつきません」

 星の言葉を継ぐように口を開いたのは、希という若い女性であった。

「貴族レベル、といったか、希よ」

「はい、天。その妖気レベルたるや、低級や中級などのそれとは比べものにならぬくらい強力なものでした。そして、その妖気を魔界貴族に接触したことのある光炎、獅天、義親、紀羅の四名に感覚させたところ、四人とも魔界貴族第四位〝男爵〟ファレスのものだと答えたのです」


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