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怨念の異形神  作者: 神月裕二
第2章 小林裕介
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6


 いったい――

 何が、ここであったというのか――

 黒部哲は、眼前に展開するその惨状に声もなく、ただ立ち尽くすばかりであった。

 信じられない光景であった。

 遅れてやって来た高田亜樹も、ヒッと小さな悲鳴を上げて以来、一言も発していない。いや、発せられないでいた。

 何が起こったのか理解出来ないのだ。

 二人は、小林裕介がボロ雑巾のようになって地に這いつくばって呻いている姿を想像していたのだ。しかし、現実は彼等の予想を大きく覆して、そこに存在した。

 まるで、超小型の台風がそこに突如発生し、武雄たち全員を巻き込んで暴走した、とでもいった感じであった。

 フェンスは歪み、校舎のコンクリートの壁は陥没し、地面はえぐれ、少年たちの流した血がそこら中に飛び散っていたのである。

 そこに、小林裕介の姿はなかった。

 あるのは、一目見ただけで重体とわかる少年たちの姿と、いつ果てるとも知れぬ呻き声だけであった。

 このとき、黒部哲と高田亜樹が、妙にすっきりとした気分になっていたのは確かだった。

 もちろん自分もだが、教師ですら親や校長の報復を恐れて手も出せなかった不良グループが、今、身動きもかなわぬ状態で折り重なるようにして呻いている。

 それを見下ろすのは、何と気分のいいことか。しかし、このままでは問題になる。

 黒部は亜樹をそこに残し、校舎の影からグラウンドを見まわした。

 幸い、一時限目が体育というクラスはないようだ。それに期末テストが近いせいだろうか、真剣に授業を受けているらしく喧噪もほとんど聞こえてこない。

 黒部は、亜樹に教室に戻るよう告げた。

「でも…」

「いいから。彼等のことは先生に任せて、君は何もなかったように授業に出るんだよ。このことは誰にも言っちゃいけないよ。いいね」

「…はい」

 聡明な少女は、事態の重大さを理解し、事件がこれ以上大きくなるのを防ぐために、自分の為すべき所を理解したのだった。

 事件が大きくなればマスコミも騒ぐだろう。しかも、武雄の両親は、報道陣さえも操るほどの権力を持っている。裕介の立場が悪くなるのは眼に見えていた。これは、自分たちで解決しなければならない問題なのだ。

「でも、裕介くんは…」

 亜樹は、自分が一番気になっている対象の名を上げた。今すぐにでも裕介を探しに行きたい、という無理な衝動を必死にこらえていた。が、黒部は少女の心理と発言の奥にある少年への愛情を、正確に見抜いていた。

「大丈夫だよ。彼のことも僕がやるから」

 教師は優しく言い返すと、ぽんと少女の肩を叩いてやった。

「大丈夫だ。彼を悪いようにはしない。だから心配はいらないよ」

「あ、あたしは…ただ…」

 図星を突かれて、赤くなりながらも弁解しようとする少女に笑いかけると、

「さ、戻るんだ。いいね、誰にも話すなよ。すべて先生がやるから」

「はい、先生」

「よし、いい子だ。――で、帰る途中、保健の熊谷(くまがや)先生に、ここに来てくれって言っといてくれないか」

「はい。――それじゃ、先生、裕介くんのこと、お願いします」

 ペコリ、と頭を下げると、亜樹は自分の教室に向かって駆け出していった。

「裕介くん、か。いいねえ、若いモンは」

 黒部は、亜樹の後ろ姿を見つめて呟いた。

 そのとき、不意に強い風が吹いて少女のスカートが大きく翻り、健康的な太腿が露わになったときも、黒部の眼は少女を見つめたまま動くことはなかった。

 その教師を動かしたのは、背後から聞こえた少女の呻き声だった。今まで気絶でもしていたのか、教師は、初めて雑草の茂ったフェンス際に、少女が倒れ込んでいるのに気がついた。

 彼女のケガの具合が一番軽いらしいところを見ると、どうやら、ちゃんと理性の持った台風だったようだ。黒部は妙なところに感心しながらも、少女(確か由花と言ったか)が起き上がる様子を見せないのを見て、起き上がれないのだと悟った。

「あ、これは、マジでやばいかも知れんなぁ」

 と、黒部は呑気に呟いていた。

 その頃、高田亜樹は、中央校舎の一階にある保健室のドアを叩いていた。

「何か用かね」

 ドアを開けると、太い声が左手の方から聞こえてきた。

 眼を向けると、薬の瓶がいっぱい詰まっている棚の前に、巨大な人影があった。

 大きめの白衣が、はち切れんばかりに膨れ上がっている。

 声は、そこからした。

「あ、熊谷先生」

 亜樹がそう声をかけると、その白衣の山がのっそりと動き出し、濃いヒゲに覆われた顔がこちらを向いた。

 いつもは、女の保険医がいるのだが、交通事故で入院しているため、この巨大な男が代理で生徒たちの面倒を見ているのだ。

 普段は、近くの大学病院に勤務している、黒部の学生時代からの親友であった。

 それにしても、名は体を表すとはよく言ったものだ。

 と、亜樹はこの男を見るたびそう思う。

 まさに、熊だ。

 優しい光をたたえた眼がなければ、その巨体とヒゲ面と褐色の肌を見ただけで、人は立ちすくんでしまうだろう。

 しかも、極真空手の有段者だと言うから困ったものだ。その実力は、残念ながら、誰も見たことはないのだが。

「何かな? どこか具合でも?」

 口調まで動作と同じように緩慢である。

 調子が狂うのを感じながら、亜樹は黒部教師に言われた通りのことを告げた。

「黒部先生が、あの、西校舎脇まで来てくれって」

「西校舎のわき? どうしてそんな所に?」

「さ、さあ。あたしは何も…」

 凝っと覗き込んでくる熊谷の視線から眼を反らしながら、亜樹はごまかした。

 うまくごまかせたかしら、とチラッと熊谷の様子を窺ってみると、まだ保険医の眼は彼女の方を向いていた。

 あわてて眼を反らす。

 それがおかしかったのか、熊谷はニッと笑い、次の瞬間、大声で笑った。

「な、なんですか、先生!?」

「いや、何でもない。用件は、それだけかね」

「え、ええ」

「うん、承知した。今すぐに行かせてもらうよ。あいつが呼びつけるなんて、何かあったに違いないからな。――君は教室に帰ってなさい」

「あ、はい。よろしくお願いします」

 何がよろしくなのか、熊谷にはよくわからなかったが、とりあえず「うん、任せておきなさい」と言っておいた。

 調子のいい男である。

 少女が出ていくのを見届けると、熊谷は早速行動を起こした。白衣を脱ぐと別人のような機敏さで保健室を出、西校舎へ向かったのである。

「何かあったのか?」

 そう黒部に訊ねたときも息一つ乱れてはいなかったし、口調も人が変わったかのようだった。人格転移が生じたというのでもなさそうである。どうやら、こっちが本来の彼の姿らしい。

「――ああ、あったらしいぜ」

 黒部が、背後の事件現場に顎をしゃくる。

 その惨状を見て熊谷は、むうと唸ったきり黙ってしまった。どう対応していいのか決めかねているようだ。

「いったい誰が?」

「わからん。――とにかく、保健室へ運ぶぞ。それから、俺の知っていることを話す。無論、お前にだけな」

 黒部はウインクすると、一番軽くて運ぶのが楽しみな由花を担ぎ上げたのだった。

 一方、熊谷はふんと鼻を鳴らすと、太い猿臂をのばして、気絶している三人の少年を脇に抱え上げた。

「――誰にも見られてないな」

 という熊谷の問いに、黒部は由花を横抱きにしたまま、人気がないか改めて辺りに視線を飛ばしている。

「ああ。行くぞ」

 そう言い残して、黒部はダッシュした。

 中央校舎の保健室までの距離は、約七〇メートルほどだ。無論、校舎内を通るので、ドアや曲がり角がいくつもある。

 三人もの少年を抱えている熊谷のことなど頭にないのか、とにかく全力疾走だった。それでも、保健室に到着したとき、ほとんど呼吸が乱れていなかったのだから大したものである。

 しかし、もっと凄かったのは熊谷の方である。少年たちを抱きかかえているにもかかわらず、彼の走るスピードは異常なほど速かった。黒部から遅れることわずか一〇秒ほどで到着したのである。さすがに呼吸の乱れは黒部よりもひどかったが、すぐにそれもおさまった。

「とにかく、ベッドに寝かせて手当てだ」

 そう言った後の熊谷の行動は、実に瞠目するに値するものだった。

 全く無駄口を叩かずに白衣に着替え、少年たちの服を脱がせ、傷口を消毒し、包帯を巻き、適切な応急処置をケガのひどい順に行っていった。

 どうやら、救急車を呼ぶまでもないらしい。

 見た目はひどい傷に見えたのだが、実際はそうでもないようだ。それでも全身に十ヶ所近くある腫れやアザは当分の間残ることだろう。

 いい気味だ。

 ひそかに黒部はほくそ笑んでいた。

「――さて、何があったのか、聞かせてもらおうかな?」

 熊谷がそう訊いたのは、応急処置を終え、黒部が少年たちの自宅へ連絡を済ませて戻ったときだった。

 熊谷は椅子に座って、マイルドセブンを口にくわえていた。

「親は何て言ってた?」

 正面にパイプ椅子を出して座った黒部に、熊谷が訊く。

「どいつもこいつも留守だってよ。とりあえず家の者が迎えに来るそうだ」

「親はどこに?」

「政財界の偉いさん方の所に行っていて遅くなるってさ。パーティ、パーティか」

「大変だねぇ、お金持ちも」

 全くだ、と肩をすくめる黒部に、

「――で、何があった。話せよ」

「ああ、そうだな」

 黒部は大きく深呼吸すると小声で、自分が知っていること全てを同僚であり、親友でもある熊谷に話し始めた。

 そして、全てを話し終えたとき、熊谷が低く唸るのを黒部は耳にした。

「むぅ。とにかく、これは厄介な事になりそうだな」

 全く同感だった。


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