表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
怨念の異形神  作者: 神月裕二
第2章 小林裕介
10/74

1

 先ず感じたのは、静寂だった。

 恐ろしいまでの、異様とも言える静けさが、そこにはあった。

 妖と玲花は、つい先日開店したばかりの大手デパートに来ていた。

 その最上階にある、見晴らしのいいレストランに、二人は足を踏み入れていた。

 光化学スモッグに覆われた街を見下ろして飯を食っても美味くないだろうに。

 人は高い所にいて下界を見下ろすのが好きな生き物らしい。そうでなければ、高層建築物など造るものか。

 二人は、周囲に鋭い視線を飛ばしながら、レストラン内部を窺うように入っていった。

 無論、足音は立てない。

 突然の攻撃にも対応できるように、自然な形で構えを取っている。

 この階まではエレベーターで上がってきたので、途中の階に人がいたのかまではわからない。

 とにかく、その静けさが異常であった。

「なんだ…? どういうんだ…」

 思わず、妖が呟きを洩らす。

 人の気配は、ある。

 しかし、姿はなかった。

 午後一時を少し過ぎた辺りだから、レストランの利用者がゼロということは先ず有り得ない。

 入ってすぐのテーブルに眼をやった。途端、二人の顔が?マークに変わる。

 おかしい。

 同時にそう思った。

 テーブルの上に、コーヒーのカップが置いてある。しかも、湯気を立てて。

 そのすぐそばには、食べかけのハンバーグが、じゅうじゅうと音を立てている。

 今まで、いや、ほんの数瞬前まで、確かにここに人がいた。

 ここにいて、楽しく家族や友人、恋人と語らいながら食事をしていたのだろう。

 それが、消えた。

 今は、誰一人として残っていない。

 一瞬のうちに、そこで食事をしていた数十にも及ぶ人間が姿を消したのである。

 ちょっと用を足しに、と席を立ったとでも言うように。

「――あれ?」

 と、突然妖が素っ頓狂な声を上げた。

 どうしたの、と訊く玲花に、妖はおかしな質問をした。

「何故、俺たちはここへ来た?」

「お昼を食べに、でしょ?」

「本当にそうか?」

「え――?」

「俺たちは、本当に、ここで飯を食おうと思ってきたのか? 飯は、ついさっき食ったばかりだぞ」

 玲花は、ようやく、妖が何を言いたいのか悟ったらしい。

「あっ!?」

 そうなのだ。

 思い出した。

 よく考えれば、今、昼食を摂る必要はないのだった。

 それなのに、何故、ここに来たのか。

「操られていたってわけか」

 妖が、チッと舌打ちする。

「この俺に、それと悟らせずに精神操作をかけるとはな。さすが稀代の大魔導師殿だ」

「ホントね」

 玲花が、かわいい仕種で肩をすくめる。

 妖は、その仕種に微笑した。

「――ね、調理室の方とか、どうなのかしら」

「一緒だと思うよ。でも、まあ、見に行くか。何か手がかりがあるかもな」

「それって、自分の意思?」

 玲花が、いたずらっ子のような眼をして訊いてくる。

「――さあね」

 言われて気づいたように、妖は肩をすくめて返答した。

「どっちでもいいさ、この際。――奴が、俺たちと戦いたいのなら、そこへ行くだけだからね」

 その通りだった。

 相手の出方が全くわからない今、こっちから仕掛けるより、向こうのやり方を見た方がいい。一瞬にして数十人にものぼる人間を神隠しの如く消し去るなど、正気の沙汰ではなかった。

 何を考えているのか。

 それが、今の妖の正直な感想であった。

 二人は、調理室に入った。

 足を踏み入れた途端、溜め息が出た。

 やはり、ここも同じだったのだ。

 誰一人として存在していなかった。

 ガスの火が、つけっぱなしになっていた。

 換気扇がまわったままであった。

 水道の蛇口から水が出ていた。

 火にかかった鍋の中身が、ぐつぐつと煮え立っている。

 湯が沸き、料理がいい匂いを通り越して、焦げついていた。

 だが、そこにコックはいない。

 奥の部屋の扉が開いていた。

 行ってみると、そこはロッカー室であった。

 妖はロッカーを全て開けてみたが、どのロッカーにもコックたちの私服が掛かっているだけだった。

 なかには白衣の掛かったロッカーもあったが、それは非番のコックのものなのだろう。

「やはり――」

 消えたか。

 しかし、何処に?

 ふむ、と腕を組んで首を傾げる妖の耳に、玲花の短い悲鳴が聞こえてきた。

「どうした!?」

 ロッカー室から飛び出した妖は、ガスに掛けてあるシチュー鍋を指さして立ち尽くす玲花を見つけた。

 何事か、とそれを覗き込んだ妖は、胃の内容物が思わずせり上がってくるのを感じた。

「な――」

 こんな悪趣味な造形を見たのは、初めてであった。もちろん、悪魔の仕業であるなら、別に珍しくもなんともない。しかし、今、妖たちが相手をしようとしている敵は、人間なのだ。

 これを造った男――ベルゲリウス・ホーンとは、何とおぞましい芸術家なのだろうか。

 二人の視線が絡み合うシチュー鍋の中、ビーフやニンジン、タマネギなどの具にまじって浮かぶのは、どろどろに溶けかかった男の首であった。

 凄まじい熱で煮られた所為か、顔中にやけどを負い、皮膚はすでにとろけ、髪が抜け、もはやもとの顔の想像がつかなくなっていた。

 まさか。

 妖は、他にもあった鍋の蓋も急いで取り払った。ついで、三つあるオーブン・レンジの蓋を開けにかかる。

「……!?」

 二人は、あわてて手で口を覆っていた。

 吐きそうになる。

 他の鍋にも煮詰まりかけた首が一つずつ浮かび、レンジからは黒こげの首がやはり一つずつ出てきたのである。

 そのときになって、ようやく異様なまでの臭気が調理室に充満しているのに気づいた。

 どうやら、嗅覚までもいつの間にか支配されていたらしい。

 妖は怒りに震える身体を抑え込もうと必死だった。

 これでわかった。

 奴が何をしようとしているのか。

 これは天魔降臨の儀式でも、呪詛でも何でもない。ただ、遊んでいるだけなのだ。

 強力無比な魔力を秘める魔人〝妖〟の冷静さを失わせ、戦いを有利に運ぶための戦略。ともとれるが、しかし、奴は遊んでいる――そう思えるのだ。

 罪のない、全く関係のない人間を殺して。

「何処にいる!」

 妖が声を上げて呼ばわった。それは、玲花が驚くほどの怒りを込めた声であった。

「何処にいる! 出てこい!」

 このとき、玲花には決してみせることのない、凄まじい形相が妖の美貌には浮かんでいた。

 かつて、魔界侯爵フェノメネウスが、妖を「魔界の裏切り者」と呼んだ。まさしく、悪魔の怒りの形相がそこにあった。

「――!?」

「どうしたの?」

 その瞬間、妖が辺りを素早く見まわしていることに気づいた玲花が、不審そうに問いかける。

「笑い声が聞こえる。俺たちを馬鹿にしていやがる」

「え?」

 玲花は、形のいい眉をひそめた。

 彼女には聞こえていなかったのだ。

 その嘲笑の声は、妖にのみ聞こえる特殊な(パルス)で構成されていたのである。

〝ククク…どうしたね、私の姿が見えないのか、裏切り者よ〟

 人間如きに裏切り者呼ばわりされたくなかったが、それは口には出さなかった。

「玲花、離れるなよ。奴が近くにいるらしい」

「ええ」

 玲花は、妖と背中合わせになって、敵からの襲撃に備えた。

「――しかし、いきなり今日、攻撃してくるとはな」

「思いもよらなかった?」

「いいや」

 という妖の口調に、玲花はくすっと笑った。

「何処から、来るの?」

「わからん。妖気は、これほど満ちているのに」

 妖が玲花の問いに答えて視線を正面に戻したとき、また声が聞こえてきた。

〝わからん、だと? 貴様ほどの男が、私の位置すらつかめんのか。こいつは、おもしろいな〟

 声は、完全に妖を馬鹿にしていた。

 挑発さえもしていた。

 確かに、と妖は自嘲気味に思う。

 何故、位置がつかめないでいるのかと。

 これはすでに、奴の術中にあるという証拠ではないのだろうか。

 妖を現実の世界に引き戻したのは、カサ、という音と玲花の短い悲鳴だった。

「――!?」

 振り返って、妖も戦慄した。

 ゴキブリがいた。ハエが食い物にたかっていた。シチューに浮かぶ死体に無数のウジがわいていた。ムカデが足許を埋め尽くしつつあった。

 そして、妖の耳は、人にはとらえることの出来ぬレベルの音――超音波をとらえていた。

 恐らく、この超音波が蟲どもを操っているのだろう。そういう予想はつく。が、その超音波を放っている敵が何処にいるのかわからない。情けない話だ。

 表情はともかく、妖は焦燥を感じていた。

 たかが人間と思っていたのだが、さすが大魔導師と呼ばれるだけのことはある。

 三百年前、宇宙の真理を覗き、暗黒魔道を追究する者にとって最終目的の一つとされる「大魔王の降臨」と杖の享受を実現した男。

 もっとも、サタンの降臨は、妖の存在を考えればベルゲリウスの実力によって実現されたのではないように思われる。つまり、妖と名乗っている魔界の裏切り者を倒すべく、強大な力を持つ人間にその使命を与えたのではないか。だが、それならば、妖はいつからこの世界にいるのだ。しかし、そう考えなければ、サタンが、大魔導師といえどもたかが人間に、あの杖を授ける筈がないのだ。あれは、神の子を殺す最後の兵器の一つなのだから。

 そして、大魔王がそうまでして殺したい妖の正体とは。

〝ククク。どうした、声も出んのか〟

 確かに、声の嘲笑通り、妖は無言だった。

 何故なら、調理台の下の扉から腕や足が覗いて、それにも真っ黒になるくらいに無数の虫どもがたかっているのを新たに発見したからだ。

 赤黒い肉が、それらを貪り食うゴキブリどもの下で見え隠れしている。流れ出た血の臭いを嗅いで、ハエがそれをすすりに来ていた。すでに、食い散らかされた腕の一部では、白い骨の部分が露出している。

「くそっ」

 ああ、ネズミも出てきた。死体に群がる蟲を喰らい、また、屍肉を囓り始めた。

〝くく。どうした、何もせんのかね。今は死体に群がっているだけだが、やがて貴様等の肉をも喰らいに行くぞ。――ほれ〟

「きゃっ!?」

 ベルゲリウスが言い終わらぬうちに、玲花が悲鳴を上げた。見ると、彼女の足にゴキブリがたかり始めている。

 玲花は足をジタバタさせて、それを振り払っていた。

「玲花、俺の背中につかまれ。――跳ぶぞ」

「え…あ…うん」

 足で床を這うムカデを蹴飛ばしつつ、玲花は妖におんぶされるように背に乗った。

 それと同時に、妖は跳んだ。

 ほんの少しだけ曲げた膝を、バネが弾ける勢いで伸ばした跳躍は、わずか一センチの助走もなく、厨房の外までの約三メートルを軽々とクリアーしていた。

 音もなく、レストラン内の赤い絨毯の上に降り立つ。

 玲花は、妖がレストランの入口の方を見やり、薄く笑っているのを知ると、自分の視線もそちらに向けた。

 そこに、奴がいた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ