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怨念の異形神  作者: 神月裕二
第1章 胎動
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8

 ――


 妖は、いきなり、自分の眼前で妖魔の身体が潰れたので驚いていた。

 ビルが崩れてなどいないばかりか、一ミリの亀裂さえ入っていない。

 つまり、妖魔が見ていたのは幻覚だったのだ。幻覚の中で、それを現実と感じて死んでいったのである。

 それが幻だろうと(うつつ)だろうと、死は「死」に他ならないのだった。

 妖は振り返って、潰れた赤黒い肉塊を見つめていた。

 哀しみを、その眼にたたえていた。

「――功を焦ったのか。悪魔が、人間風情に使われるからこうなるんだ。悪魔が仕える相手は、魔王ただ一人で良いものを」

 妖は、知らず呟いていた。

 そして、来たときと同様フェンスを乗り越えて、下で待つ恵子のもとへ飛び降りたのだった。

「――何があったの?」

 飛び降りて、ふぅと溜め息をつく妖へ、恵子が問いかける。

「警告、さ」

「警告? どういうこと?」

「来ないかも知れない未来にしがみつく人間たちへの、ね。そして、挑戦状を受け取った」

 あのとき、妖魔へ向けられた悪想念の中に、妖は、自分たちに向けられた挑戦状を受け取っていたのだ。

「誰からの?」

 こう訊いたとき、恵子の美貌には戦士〝玲花〟としての険しい表情があった。

 気がついたのだ。

 いや、認めてしまったのだ。

 もう、平和な日々が終わったことに。

 妖の後を追って歩くその一歩一歩が、再び始まる地獄に近づいていくことに。

「――古き時代の忌まわしき大魔導師」

「まさか!?」

 恵子は愕然と足を止めた。

 妖が振り返る。

「そう、奴さ。破滅を呼ぶ魔道士ベルゲリウス・ホーンが、三百年ぶりに姿を現したんだ。――この街にね」

 そのとき、恵子は、突き抜けるように蒼い空を、暗黒の巨大な影が包み込む光景を幻視した。

 その光景は、もの凄い悪意の念に満ち満ちていた。

 あまりの凄愴さに、寒気すら覚えるほどであった。

「地獄が、始まるなぁ」

 そう言ったとき、妖の声が歓喜を帯びているような気がしてならず、恵子は戦慄した。

 妖は、天を仰いでいた。

 そこには、まばゆい光をたたえる太陽と、広大な蒼穹が美しく広がっていた。

 まさか、それがこの日のうちに血に染まろうとは、妖でさえ気づかぬ事であった。


「……ただいま」

 小さな声でそう呟くように言いながら、小林裕介は建て付けの悪い玄関の戸を開けた。

 紀羅によって解放されてから、約二時間が経過している。その間、何処で何をしていたのか。少年の表情からは何も読みとれない。

 無論、すぐに例の空き地から離れたので、その後紀羅と少年たちの間に起こった一悶着など知る筈もない。

「おかえり」

 少年が、身体のあちこちに残る擦り傷や打撲痕を隠すようにして自分の部屋のある二階へ上がり始めたとき、奥からか細い声が聞こえてきた。

 一階奥の部屋からは光が洩れていた。そこには、近頃めっきり身体が弱くなり、床に伏せることの多くなった裕介のお婆ちゃんがいる。

 玄関の戸を開ける音か、靴を脱ぐ気配で気がついたのだろう。

「夕飯は食べるんだろう?」

「うん。また、適当に作るよ。婆ちゃんは?」

「さっき、お隣さんが夕飯を作って持って来てくれてねぇ」

「ふうん」

 裕介は、お婆ちゃんの咳を耳にしながら、自分の部屋に入った。

 思わず溜め息が出てしまう。

 いつもと同じパターンで物事が繰り返され、進んでいく。裕介は、時折り、自分とお婆ちゃんがこの時代の流れというものに乗り遅れ、取り残されているのではないか、という錯覚に陥ることがある。

 自分たちは、何のために生きているのか。

 明かりをつけずに自分の部屋にいると、そんな思いが心の底からこみ上げてきて、涙が出てしまう。

 この宇宙にいるのは自分一人なのではないか。そんな孤独感さえある。

 そんなときはいつも、声を殺すために布団にしがみついて泣くのだ。

 ひとしきり泣き終わったとき、裕介は、ようやく自分の机の上にある小瓶に気づいた。

「――!?」

 裕介の表情が動いたのは、小瓶を抱えるようにして存在していた黒いものが、ふわっと拡散して霧の如く消えたのを目撃したからだ。

 思わず眼をこすった。

 幻覚だったのだろうか。

 裕介は恐る恐る小瓶に手を伸ばした。

 なんだ――?

 手に取ってみると、本物だという感触が伝わってくる。

 そして、その瞬間、ある意思が裕介の脳裡に流れ込んできた。それは、もの凄い意識の奔流であった。

 瓶の蓋を開けろ。開けろ、開けろ……。

 なかみを飲め、飲め、飲め……。

 強くなれるぞ、なれるぞ、なれるぞ……。

誰にも負けぬくらいになぁ。


 ――


 あとに感じられたのは、凄まじい怨念だけであった。

 裕介には理解出来ぬ程の過去――宇宙が誕生し、生命体が発生した瞬間からの、気が遠くなるほどの時空の流れの間、まるでアカーシヤの記録のように蓄積され続けてきた怨念・憎悪のエネルギーがそこにあった。

 時には、その触れてはならぬエネルギーが、人をとりこにする場合がある。

 負のエネルギーは暗黒の次元に直結し、無限のパワーを秘めているため、力なき者、弱き者にとっては神の力を得ること以上に素晴らしいものとうつってしまうのだ。

 世に言う、暗黒魔導師の大半はこういった類の人間たちだ。確かに、魔道を深く追求し、宇宙の神理をかいま見ようとする魔導師たちもいるが、それはわずかな数に過ぎない。

 暗黒の波動に魅入られ、取り憑かれた人間たちの方が、この世界には圧倒的に多いのだ。

 小林裕介も、その禁忌とも入れる魅力に取り憑かれようとしていた。

 強くなりたい。

 他人よりも、何らかの形で優位に立ちたい。

 それは、精神的であれ肉体的であれ、たとえば会社の地位(ポスト)であったとしても同じことで、万人が持つさまざまな希望の根幹を為すものである。

 常に、他人よりも劣る人間が持つ望みだ。

 今、裕介の眼前には、その希望を叶えてくれるという魔法の小瓶がある。

 ただ飲むだけで良いのだ、と誰かが頭の中で囁く。それは、伝説の悪魔メフィストフェレスであったかも知れぬし、蠱惑的な魔女イシュタルの甘い囁きにも聞こえた。

 弱い自分を憎む、それは、もう一人の自分の声だったかも知れない。

 すでに裕介の体内では、くろぐろとした蛇が鎌首をもたげ始めていた。その蛇も、流れ込んでくる凄絶な怨念により、二まわりほども大きく育っている。

 その蛇も、少年の囁きかけてきた。

 俺を大きく育てて、解放しろ、と。

 そうすれば、お前をいじめた奴等を叩きのめしてやるぞ。

 と。

「僕は――」

 裕介は、絞り出すように口を開いた。

「強くなりたい。けれど……」

 強烈な誘惑を振り払うように、裕介は今にも小瓶を握りしめそうになっていた手を、それから引き剥がした。

「けれど、こんなもので強くなりたいとは思わない! 誰だか知らないけど、僕から出ていってくれ!」

 裕介は叫んで、小瓶を思い切り薙いだ。

 水晶の小瓶は勢いよく吹き飛び、本棚の木の枠に激突して砕けた。

 水晶の破片となかの液体が飛び散って、折りしも外から射し込んできた月光に照らされ、きらきらと輝きながら床に散った。

 ドアを閉じる大きな音がした。

 階段を走って下りる音が聞こえる。

 一刻も早く、自分の部屋――己が悪想念の巣から逃げ出したいのだろう。

 階段を半ば下りた頃、裕介は自分が泣いていることに気づいた。

 何故泣くのか。

 くやしかったのだ。

 自分が、あのようなことを無意識のうちに考えていたことがわかって、悲しかったのだ。

 他人を蹴落としてまで強くなりたいなどと。

 その晩、裕介はお婆ちゃんの隣で眠った。

 そして夢を見た。

 両親がいて、まだ、裕介の表情に笑顔が残っていた時代。

 あれは何年前であったのか。

 裕介には、もう何百年も昔のように思えてならなかった。

 もう、あの楽しく懐かしい日々は、二度と戻って来ないのだろうか。

 少年の心を暖かく受け入れ、包み込むような、菩薩の如き心を持った人が現れぬ限り、裕介の心に平穏が訪れることはなかろう。

 裕介が、涙で紗のかかった夢にひたっている頃、少年の部屋ではちょっとした変化が生じていた。

 一人の男が、窓も開いていない密室に姿を現していたのである。

 死人男爵ファレス。

 彼がいるだけで、この部屋全体がざわつき始めていた。

 この部屋に充満していた、少年が無意識に吐き出し、あらゆるものに染みついた悪想念が、ファレスの死臭を帯びた妖気に感応して、暗黒の蛇をつくり上げつつあった。

 ベッドの上を、そして窓以外の壁や机の上を、オタマジャクシほどの大きさの蛇がびっしりと埋め尽くしている。

 ゾッとするような光景だった。

「あの小僧、なかなか精神的に強いな。――まあ、あれくらいの方が、爆発したときに周囲に及ぼす影響が大きいからな。とは言え、そう長くも待てん。すでに奴等の組織も動き始めたからな。

 あの男――妖が動く前に、復活の準備を完了しておかねばならん」

 そうしないと、大魔王の復活が遅れてしまうことになるのだ。

「必ず甦らせてみせるぞ。全てを啖い尽くす〝怨念の異形神〟をな」

 ニヤリ、と嗤った。

 蛇の一つ一つが寄り集まり、ベッドの上にいるひときわ大きな、少年の蛇に融合していく。

 その蛇が大きくなっていくのを、ファレスは嬉々として見つめている。

 ファレスの姿が、かき消されるように消失した。それと同時に、大きく育った蛇の姿も床から消えた。

 あとには、静寂だけが残された。

 そして机の上には、降り注ぐ月光に蒼く照らされて不可思議な光輝を放つ、破壊された筈の水晶の小瓶が乗っていた。

 ただ、ひっそりと。

 何事もなかったように。

 少年が自分の意志で、人間どもを叩きのめしてやろうと考え、その瓶の蓋を抜き取るその瞬間まで、小瓶はそこに凝っと鎮座していることだろう。

 その中で、小さな気泡がいくつか、呼吸するように弾けた。

 ただ一人、月だけがそれを見ていた。


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