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第3話 セーブポイントが見当たらない

トイレに入る前に、セーブしておけばよかった。


もちろん、そんな機能はない。


右手は不自由。

点滴スタンドは邪魔。

服を動かすにも、管が気になる。


看護師を待っていられるか。


俺は、自力で済ませた。


『クエスト達成』


済んでから出てくるな。


さっきまで何の知恵も出さなかった頭の中のやつが、結果発表だけする。


こちらは、それどころではなかった。

準備ができるまで尿意が待ってくれるなら、こんなに困っていない。


ゲームなら、一度止めて考える。

操作を確認し、持ち物を見直し、配置を変える。


ここでは考えている間にも、用事のほうが先へ進む。


点滴スタンドを連れてベッドへ戻る。


家に帰るのが目標だったはずなのに、トイレから帰ってきただけで、少しほっとした。


五十四年生きてきて、ここが達成感のある帰還になるとは。


*


病院のベッドは、回復拠点だ。


横になれる。

食事が出る。

具合を見てくれる人がいる。


しかも、回復役は若い看護師だったりする。


悪くない。


ただし、宿屋と違って、寝たら朝には全回復、というわけにはいかなかった。


入院したとき九千くらいあったCKが、七千くらいになった。


二千も減った。


なかなかの成果ではないか。

効果音くらい鳴っていい。


できれば、帰宅コマンドも復活してほしい。


しかし、七千がどのくらい悪い数字なのか、俺にはよくわからない。

減った。

よくなっている。


その先だ。

俺が知りたいのは。


で、帰れるのか。


点滴スタンドを見る。

まだ、つながっている。


解散の話は出ていないらしい。


自分では元気なつもりだった。

飯も食える。

看護師が来れば、うれしい。


だからといって、体の中まで大丈夫とは限らない。


ここは宿屋ではない。

俺は客ではなく、患者だった。


*


午前六時。


起床。


……誰が決めた。


病院である。


わかっている。

だが、六時だぞ。


無職の俺に、出勤時刻はない。

寝坊したことで怒る上司もいない。


ここへ来たら、いきなり起きる時間が決まった。


俺がまだ眠りたいかどうかに関係なく、病棟の一日が進んでいく。

検温や採血で、看護師が来る。


来てくれるのはうれしい。

ただ、もう少し寝かせてほしい。


『来訪を希望していました』


時間帯の話だ。


自分で自分に言い返しているうちに、目が覚めてきた。


どうやら、このゲームには一時停止もない。


*


朝食が来る。


起床時刻には文句を言うが、飯は食う。

ここで断ったところで、六時起床が撤回されるわけではない。


何もしなくても、食事が出てくる。


米を炊かなくていい。

買い物へ行かなくていい。

食べ終わった食器も、自分で洗わなくていい。


家では、料理をする俺、食べる俺、片づける俺が、全員同じ人間だった。

食べる俺だけが、いつも仕事が早い。


ここでは、その一人だけ出勤すればいい。


食事が出る。

具合を聞いてくれる人がいる。

答えれば、会話になる。


一人で家にいるときには、俺が丸一日黙っていても、誰も困らない。

ここでは名前を呼ばれる。


そのことが、思った以上にうれしかった。


……しばらく、ここにいても。


『入院費は未確定です』


食っているときに、その話をするな。


現実の宿屋は、一晩いくらかも俺にはまだわからない。


*


病棟には時間割がある。


食事。

回診。

点滴。

検査。


そして、また食事。


家では自分で整えられずにいた生活が、入院した途端、規則正しくなった。

健康的な生活というのは、ずいぶん強引にやってくるものらしい。


ただ、予定の合間には暇もある。


iPadでTVerを見た。


映像が止まる。

待つ。

動く。

また止まる。


Wi-Fiが遅かった。


止まってほしくないものは、止まる。


その間も、病棟の時計は進んでいる。

俺の一日も、ちゃんと減っている。


待っている時間だけ、あとで返してくれないか。


隣から、いびきが聞こえる。


あちらはWi-Fiも使わず、カーテンを越えて音声を届けてくる。

しかも、途切れない。


そっちの再生には、一時停止が欲しかった。


*


スマートフォンの充電はできるようになった。


しかし、ベッドからケーブルが遠い。


電気もある。

ケーブルもある。

スマートフォンもある。


全部あるのに、寝たい場所でうまく使えない。


点滴の管は、つながっていて困る。

充電ケーブルは、つなぎたい場所まで届かなくて困る。


俺の行動範囲は、二本の線に決められていた。


どちらも俺を回復させるためのものだ。

片方は体、片方はスマホ。


スマホの残量は画面で見える。

充電すれば、増えていく。


俺のほうは、そう単純ではない。

CKの数字が減っても、右手の動かしにくさが消えるわけではなかった。


頭痛で救急車を呼んだ。

検査を受けたら、そのまま入院になった。


頭痛がする前まで、ロードできれば。


そう考えても、あの夕飯の続きには戻れない。

冷房も扇風機もつけたままの部屋へ、今すぐ帰ることもできない。


できるのは、このベッドから次を考えることだけだった。


*


そろそろ、シャワーを浴びたい。


体をさっぱりさせれば、気分も変わるだろう。


ところが、医師の許可と予約が必要だった。

家なら入りたいときに入る。

予約表も、許可を出す人もいない。


ここには、知らない決まりが多い。


説明書くらい、ないのか。


あった。


病棟案内。

引き出しの中だ。


……先に読めよ、俺。


看護師の顔は覚えようとしていた。

ルールは確認していなかった。


『探索の優先順位に偏りがあります』


否定できない。


ゲームでも、説明を飛ばして始めることはある。

困ったら読み直せばいい。

失敗したら、前のセーブからやり直せばいい。


だが、ここにはその前のセーブがない。


知らないまま過ごした時間も、待っていた時間も、俺の一日だった。


最初から全部わかっている必要はない。

今、見つけたものは使える。


俺は病棟案内を開いた。


*


夜九時。


消灯。


電気が消える。


俺まで一緒に切れるわけではない。

人間に電源ボタンはついていない。


隣のおじいさんは眠れているようだった。

音でわかる。


俺はベッドにいる。

飯も食った。

今日も一日は終わる。


ゲームなら、このあたりで聞いてくるはずだ。


ここまでの冒険を記録しますか。


聞いてこない。


宿に泊まっても、寝る前でも、セーブポイントは見当たらなかった。


*


【EPISODE 03 — STATUS】


年齢:54

職業:無職


【達成】

自力でトイレを済ませる


【獲得アイテム】

病棟案内


【次の行動】

シャワーの許可と予約を確認


【セーブ】

不可


【再挑戦】

可


*


そこで、気づいた。


やり直しがきかないのは、失敗だけじゃない。


うまくいった今日も、もう一度は選べない。


看護師と話して喜んでいた。

飯が出ることにも、ほっとしていた。


俺は、早く帰りたい患者のはずだった。


なのに。


まさか俺が、この病院を少し気に入り始めているとは。


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