第1話 帰宅コマンドが消えた日
俺は障害者になった。
頭が痛てー。
夕飯のそうめんを食っていた、そのときだった。
右の後頭部に、いきなり強烈な痛みが走った。
思わず箸を置く。
目の前のテレビが二台になっている。
買い替えた覚えはない。
テーブルも二つ。時計も二つ。箸まで二組ある。
何だ、これは。
一人暮らしの部屋が、急ににぎやかになった。
しかも全部、ぐるぐる回っている。
気持ち悪い。
吐きそうだ。
このまま死ぬのかもしれない。
そう思いながら、テーブルに残されたそうめんを見た。
まだ半分以上ある。
よりによって、なぜ飯の途中なんだ。
食い終わってからにしてくれないか。
誰に文句を言っているのか、自分でもわからない。
とにかく病院だ。
いや、待て。いきなり病院へ行くほどのことなのか?
頭痛なんて誰にでもある。
めまいだってある。
物が二重に見えることだって……いや、それはあまり聞いたことがないな。
救急相談というものがあったはずだ。
確か、#7119。
スマートフォンを手に取る。
画面の文字まで二重になっていて、実に使いにくい。
何度かけても、うまくつながらない。
仕方がない。
119番に電話しよう。
救急車を呼ぶためではない。
相談するためだ。
症状を説明し、どうすればいいか聞く。
それだけのつもりだった。
電話の先で話が進み、救急相談の女性につながった。
後頭部が痛むこと。
目が回ること。
物が二重に見えること。
吐き気がすること。
一通り説明したところで、女性が言った。
「じゃあ救急車を呼びましょう」
……え?
「救急車ですか?」
「はい」
ちょっと待ってくれ。
俺は相談したかっただけなんだが。
しかし、女性の声は落ち着いている。
こちらが想像していた以上に、事態は深刻らしい。
電話を切るころには、救急車が来ることになっていた。
どうやら俺は、相談するだけのつもりで、別のイベントに参加してしまったようだ。
さて。
救急車が来るまでに、やっておかなければならないことがある。
まず、パンツを替えた。
なぜ最初にパンツなのか。
そんなことは、俺にもわからない。
ただ、救急車で運ばれた先で、看護師に服を脱がされる可能性はある。
そのときに、くたびれたパンツでは格好がつかない。
いい歳をして何を格好つけているんだ、と言われれば返す言葉もない。
だが、男には譲れないものがある。
俺の場合、それが今夜はパンツだった。
続いて、スマートフォンの充電器をリュックに放り込む。
ケーブルも入れる。
財布も忘れてはいけない。
一応、準備はできた。
どうせ検査をして、薬でももらって帰ってくるのだろう。
帰ったら、そうめんの続きを食べるか。
いや、さすがに食欲はないな。
そんなことを考えているうちに、救急隊員が到着した。
そこから先は、もう俺の都合では進まなかった。
救急車に乗る。
搬送先を探してもらう。
最初の病院では受け入れが決まらず、別の病院を探すことになった。
救急車の中で横になっていると、天井が揺れて見える。
頭も痛い。
それでも、妙なことが気になった。
リュックに充電器は入れた。
しかし、電源アダプターは入れただろうか。
ケーブルだけ持ってきていたら、何の役にも立たない。
いや、今はそんなことを心配している場合ではない。
わかっている。
わかっているのだが、気になる。
やがて搬送先が決まり、病院に到着した。
検査が始まった。
CT。
レントゲン。
採血。
首や肩にも注射を打たれた。
次から次へと人が現れ、次から次へと何かをしていく。
俺はただ横になり、言われたとおりに動くだけだ。
昔は自分で仕事の段取りを決め、人に指示を出す立場だった。
今は寝返りを打つタイミングまで、人に尋ねている。
なかなかの出世である。
しばらくして、医師が検査結果を持ってきた。
血液検査で、CKという数値が異常に高かったらしい。
「9000を超えています」
9000?
ずいぶん景気のいい数字だ。
最近、そんな大きな数字を見た記憶がない。
しかし、医師の表情を見る限り、喜んでいい数字ではなさそうだった。
病名は、横紋筋融解症。
「おうもん……?」
「横紋筋融解症です」
聞き直しても、わからなかった。
横紋筋。
融解。
漢字だけ並べられると、ずいぶん恐ろしい。
筋肉が壊れ、腎臓にも影響が出ることがあるという。
そうなのか。
それは困る。
しかし、そもそも俺は頭が痛くて病院に来たんじゃなかったか?
頭痛と、筋肉が壊れることに、どういう関係があるのだろう。
医師の説明を聞きながら、俺は考えていた。
さて、何時ごろ帰れるのだろう。
もう夜だ。
できれば日付が変わる前に帰りたい。
病院から家まで、タクシーだといくらかかるだろう。
救急車は無料でも、帰りは自腹だ。
まったく、不親切なシステムである。
そのとき、医師が言った。
「今日ね、あなた帰れませんよ」
……はい?
「帰れないんですか?」
「そうです」
「今日?」
「今日です」
俺は少し考えた。
今日が駄目なら、明日だろうか。
「……明日は?」
医師は検査結果の用紙を見た。
「しばらく入院が必要ですね。場合によっては二週間くらい」
二週間。
俺は医師を見た。
医師も俺を見ている。
冗談を言っている顔ではない。
二週間って、十四日だよな。
当たり前だ。
二週間分の着替えなんて持っていない。
歯ブラシもない。
タオルもない。
充電器の電源アダプターすら怪しい。
第一、家の電気は消しただろうか。
……待てよ。
エアコン。
つけっぱなしだ。
扇風機も回っている。
冷蔵庫には何が入っていた?
そうめんは?
ああ、そうだ。
Amazonの荷物も来るんだった。
誰が受け取るんだ。
俺がいない部屋でエアコンと扇風機が働き続け、Amazonの配達員が訪ねてくる。
そして家賃は、いつもどおり引き落とされる。
本人だけが帰れない。
何だ、この留守番システムは。
そして、何より。
入院費。
いったい、いくらかかるんだ。
無職の俺には、なかなか厳しい話である。
医師は病気の説明を続けている。
俺はうなずきながら、頭の中で家賃と生活費を計算していた。
死ぬかもしれないと救急車で運ばれてきた男が、今は入院費を心配している。
しかし、心配しなかったところで、請求書が安くなるわけでもない。
やがて看護師がやってきた。
「お部屋へご案内しますね」
若い女性だった。
感じのいい声である。
おお。
そうか。
入院というのは、こういうこともあるのか。
俺は姿勢を正した。
「よろしくお願いします」
さっきまで死にそうだった男が、急に礼儀正しくなった。
看護師は気にする様子もなく、手際よく準備を進めている。
病室へ案内された。
複数のベッドが並んでいるらしい。
それぞれがカーテンで仕切られていて、ほかの患者の顔は見えない。
隣からは年配らしい男の声が聞こえた。
向かいのカーテンの奥でも、誰かが咳をしている。
どうやら、じいさんたちに囲まれたらしい。
俺のベッドに案内した看護師は、必要なことをいくつか説明すると、隣のカーテンの向こうへ移動した。
「佐藤さん、今日はどう?」
急に声が柔らかくなった。
「ああ、まあまあだよ」
「そう? よかったね」
……ん?
今、ずいぶん親しげじゃなかったか?
俺には「お部屋へご案内しますね」だったぞ。
向こうは「今日はどう?」である。
俺も調子を聞かれたかったわけではない。
いや、聞かれたら答えるが。
しかし、何だろう。
この差は。
まあ、いい。
きっと長い付き合いなのだ。
こちらは今日来たばかりの新入り。
向こうは常連客というわけだ。
病院にも常連というものがあるのか。
あまりなりたくはないが。
俺はベッドに腰を下ろした。
カーテンを閉めると、周囲の様子はほとんどわからなくなった。
隣からは、ときどき男の声が聞こえる。
向かいでは何か物音がしている。
それぞれのカーテンの中に、それぞれの生活があるらしい。
俺も横になる。
知らない天井。
知らない部屋。
知らない人たち。
家を出たときは、こんなところで寝るつもりではなかった。
まさか、救急相談から入院になるとは。
誰が決めたんだ、こんな展開。
スマートフォンを取り出す。
家には誰もいない。
連絡して帰りを待ってもらう相手もいない。
仕方がないので、充電しようとリュックを開けた。
ケーブルがあった。
そして。
電源アダプターもあった。
よかった。
今日初めて、少しだけ安心した。
【EPISODE 01 — STATUS】
PLAYER:おっさん
職業:無職
LV:1
HP:残りわずか
MP:測定不能
EXP:+10
GOLD:不明(請求待ち)
【獲得アイテム】
・病院のリストバンド
【現在地】
・入院病棟
【新規クエスト】
・家に帰る
【システム情報】
帰宅予定:未定
セーブ:不可
ロード:不可
待てよ。
俺は、ちょっと診てもらうだけのつもりだったんだぞ。
それが二週間?
二週間もここにいるのか?
入院費は?
パンツは?
エアコンは?
Amazonは?
俺のそうめんはどうなる?
なんだっっっっってーーーーーーーーーーーー!?




