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好きな人の“好き”を、私は尊重しない自由を選ぶ  作者: 妙原奇天


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第15話「主役の定義」

 朝いちばんの空は、紙の裏面みたいに薄くて、少しだけ繊維が見えた。窓を開けると、王都の並木から落ちた銀杏の葉が、石畳の上でゆっくり乾いている。乾きかけの音は、紙より厚く、布より軽い。机の上では名札――RENA――の四文字が、昨夜よりも輪郭を細くした。引き出しの中の返却印は冷え、保留印は朱の気配を残すだけで黙っていた。私は鏡を拭き、拭き跡を最後の一本まで消す。鏡が返す顔は、昨夜の「前室」の続き。扉の蝶番は、油が行き渡っている。音は小さい。


 上着の内ポケットには、細い金具で束ねた鍵束が入っている。寮の鍵、史料院の更衣室の鍵、家の合鍵――そして、使うかどうか分からないまま連れて歩く、小さな箱の鍵。歩くと、鍵束は控えめに鳴る。音の高さが混ざらないよう、金具の向きを揃えるのは、最近の癖だ。鍵は言い訳を嫌う。言い訳は、蝶番にすぐ砂を噛ませるから。


 約束の時刻は「ちょうど」。五分前に着かない努力が、朝の散歩の筋肉みたいに私の中で温まっている。私は並木道の入口で一度だけ深呼吸をし、靴紐を確かめる。秋の終わり。葉は「降っている」のではなく「降りたあとを思い出している」みたいに地面にいて、風が通るたび、うなずき合う。私は白い丸――“保留位置”の小さな目印――を石畳の継ぎ目に想像し、そこに一度足を置いた。三拍、遅らせる。遅らせてから、歩き出す。


 ユリウスは、時間ちょうどに視界へ滑り込んだ。巡業で日に焼けた線は薄くなり、彼の足音は相変わらず踏み外しがない。二段目で一瞬だけ迷う癖――それは練習の印だ。彼はパスも花束も持っていない。空の手は、誠意の準備体操。私は頷き、彼も頷いた。それで、挨拶は済む。


 「歩こう」


 「歩く」


 並木はまっすぐではない。角の少し手前で膨らみ、冬支度を始めた店のそばで細くなる。私たちは左右どちらからも寄らず、並び方の幅を微調整する。「歩幅を合わせないまま、並んで歩く練習」を、今日の話の導入に置くと決めていた。合わせないことは、無礼ではない。合わせないまま並ぶには、技術がいる。


 初めの五十歩は、話さない。足音を互いの耳の中で計る。落葉が紙片になって足裏で鳴り、それぞれのテンポを薄く可視化する。ユリウスが先に口を開く。


 「準備はしてきた。けれど、台本はない」


 「台本があると、舞台になる」


 「今日は街路」


 「街路のほうが、光が均一じゃない」


 彼は笑う。笑いを短く終わらせるのは、彼がこの半年で増やした筋肉――“戻す筋肉”と同じ系統だ。私はポケットの鍵束を指で揺らし、音を一度だけ確かめる。鳴った。鍵は、今日もしっかり物理だ。


 「答えを、聞かせて」


 ユリウスが言った。彼は立ち止まらない。立ち止まらずに問うのは、舞踏の訓練が染みている証拠だ。私は頷き、呼吸の位置を「声」に寄せる。


 「あなたを尊重しないのではない。――あなたの『好き』を、私の義務にしない自由を選ぶ」


 並木の影が、石畳に鍵穴の形を作った。風がその上を通る。私の声はその形に落ちて、鍵の歯の段差をたどる。私は続ける。


 「『好き』は、所有じゃなく現象。現象は観測者を増やすほど歪む。私の『好き』を守るために、義務を減らす。――あなたの“今”を疑っているわけじゃない。私の“今”に、手順が要るの」


 彼の横顔は、舞台の照明がないときの表情――筋肉の影で支えられている。彼はすぐ答えない。三拍分、遅らせる。保留の練習は、彼の体にも根を張りつつある。


 「不成立、か」


 「成立/不成立は、主語ではない。……主語を言うなら、私は私の主役であることを選び直す」


 「主役、の定義は?」


 「“時間割の編集権を持つこと”。“やらないことリスト”の署名者であり続けること。“拍手の音量を自分で決めること”。――あなたの『好き』に拍手は送る。でも、拍手の回数を、義務で増やさない」


 「うん」


 彼は一度だけ目を閉じ、開けた。目を閉じるのは終止形の仕草だが、彼の開け方は連用形だった。続くための閉じ方。彼は歩幅を少しだけ狭め、葉を踏まない足取りに調整する。


 「なら、俺からも定義を返す」


 「聞く」


 「“主役”は、照明に選ばれない場所でも、自分が見える人。……俺は舞台の上で長く、自分の輪郭を光で決めてもらってきた。光がない場所で輪郭を保つのは、まだ下手だ。だから、君の主役の定義に敬意を払う」


 「ありがとう」


 「“敬意”は評価じゃない。――今日は、評価を持ち歩かない」


 言葉が軽く、けれど薄くない。私は鍵束を握り直し、金具の向きを揃える。鍵束が二度、短く鳴った。鳴り方は同意の合図に似ている。合図は旗より音のほうが長持ちする。


 「『お試し契約』は、ここで終える?」


 ユリウスが訊く。街路樹の影が彼の肩を二色に分けた。私は頷く。


 「終える。――報告書の末尾に『成立/不成立』の欄は置かない。『観察完了』の印だけ押す」


 私は鞄から小さなカードを取り出し、保留印ではなく、薄い墨で書いた〈観察完了〉の字を彼に見せる。印は押さない。今日は紙に音を記録しない日だ。


 「“ありがとう”を先に置く」


 彼が言った。「遅れて届いた熱に、君は道具で返してくれた。俺は、道具で学べる男でありたい」


 「あなたはもう、学ぶ手順を持ってる」


 「それでも、書いておきたい。――“待ち合わせの五分前に着かない努力”、継続可。“三割ルール”、自動化。“噂の紐”、手を出さない。……君と、友人として“現状報告”を時々やってもいい?」


 「いい。朝に読む」


 「夜は封」


 「夜は封」


 二人で繰り返す。合唱ではなく、確認。確認は、誓いより長持ちする。


 道の端に露店が出ていた。紙製の風車。子どもがそれを持ち、父親が屈んで高さを合わせる。風車は風が選ぶ方向で回る。私は、あの回転に嫉妬しない。風車は風車。私の鍵は鍵だ。鍵束の歯は、扉の側で初めて意味になる。


 「你的你的にいにい


 露店の老主人が、どこの言葉か分からない挨拶を投げた。異国商の声は季節の縁に紐を通す。ユリウスが小さく会釈し、私は手を軽く上げた。歩幅を合わせないまま並ぶ、という試みは、他者の波に飲まれない練習でもある。飲まれず、遮らず、通る。


 「君が“主役の定義”を言うとき、俺は“端役”に降りることを怖がらない」


 ユリウスが不意に言った。私は首を横に振る。


 「降りなくていい。――“別の主役”でいて」


 「別の主役」


 「『誰かの物語の主語を奪わない』って、同盟の共有メモに書いた。――あなたはあなたの物語の主役。私も、私の。重なる場面はあるけれど、重なりが“役職”ではない」


 「わかった」


 彼の「わかった」は、理解の宣言というより、練習開始の合図に聞こえる。私は内心で一度拍手し、小さく畳んだ。拍手の最小単位は、私に返却されたままだ。


 並木の終点に、低い橋がある。水面は浅く、陽の反射で小さな鍵穴のような光が揺れる。橋の手前、石に白い丸――保留位置――が本当に描かれていた。誰かが、私のいたずらを現実にしたのだろう。私は丸の上で一拍立ち止まり、足の角度を直す。ユリウスも、遅れて一拍乗せた。


 「ここで、言葉を置く」


 私は言った。「期待された結末の型に、小さな“さよなら”を言う」


 「“期待された結末”」


 「『成立』か『破局』の見出しで棚に仕舞う参照カード。――その棚に、今日は札を貼らない。参照カードの代わりに、鍵束の紐を強く結び直す」


 「君が選ぶ扉に、俺の影が邪魔をしないようにする」


 「影は必要。影がないと立体は見えない。――でも、影の濃さは、光と距離の関数だと忘れないで」


 「気をつける」


 彼は胸に手を当て、私の名札を一瞬だけ見る。RENAの四文字に、彼の視線は敬礼をしない。見る、だけ。見る、という礼儀。私は橋の欄干に指を置き、冷たさを一滴だけ指先に溶かす。最後の挨拶は、きれいな温度が必要だ。


 「ユリウス」


 「うん」


 「踊りを、やめないで」


 「やめない。君も、紙を」


 「やめない」


 葉が一枚、私たちの間を斜めに落ちた。落ちるそのものが、拍手の代わり。私はポケットから小さなカードを取り出し、彼に渡さないまま見せる。〈未読:なし/保留:解除/返却:完了〉。三つの印はない。印がない紙は、軽い。軽い紙は、風で飛ぶ。飛ぶ紙を追わない。追わない筋肉は、長生きする。


 「じゃあ」と彼が言う。「ここからは、歩幅を合わせずに並ぶ練習の“解散”。――散歩の“現状報告”は、来月の初め、朝に」


 「了解」


 彼は笑い、光のほうへ歩いていった。歩幅は広く、けれど前より地面に近い。私は反対側の影へ戻る。橋の上で、一瞬だけ輪郭が重なり、それから別々に薄くなる。薄くなる線は、さよならの安全装置。大きな音で切らない。細い線でほどく。


 *


 橋を渡り、史料院へ向かう道の途中、アナスタシアと鉢合わせた。彼女は扇を持っていない。かわりに、黒い遮光ガラスを白布で包んだ束を抱いている。照明のガラスだ。彼女は私の顔を見て、言葉より先に呼吸を細くした。


 「朝に読んだ顔」


「朝に読んだ」



 「わたしも、夜は封を守った。――“主役の定義”、更新していい?」


 「どうぞ」


 彼女は短く考え、「“主役”は、照明のない場所で鏡を拭ける人」と言った。「舞台の鏡は、光で誤魔化せる。けれど、稽古場の曇りは、拭かないと踊りが沈む」


 「採用。共有メモに追記する」


 「無署名で」


 「もちろん」


 私たちは笑い合い、鍵を空中に小さく描いて別れた。見せない連帯は、鍵穴の位置を共有するだけで成立する。


 史料院に着くと、ノエルが黒板の前で粉筆を持っていた。〈鏡点検〉の欄の下に、新しい小さな項目が増える。


 ――返却目録(私物):整備済。

 ――観察完了:印なし運用。

 ――主役の定義:時間割の編集権/鏡の自力清掃。


 ノエルは振り向き、私の胸元の名札を見る。「鍵束の音が、今日、軽い」


 「返却印を昨夜押したから」


 「返すと、鍵は鳴る」


 「鳴る。――開ける扉が増えるから」


 彼は頷き、小さな木箱を差し出した。中には、真鍮の細い輪が一つ。「鍵束のための鍵。――束そのものを、時々外せるように」


 「鍵束の鍵」


 「束ねすぎると、選択が遅くなる。束を開け閉めする鍵は、束の外にあるべきだ」


 彼の言葉はいつも道具の形をしている。私は輪を受け取り、鍵束の金具に通す。通した瞬間、音がひときわ高く鳴り、すぐに落ち着いた。束の輪は、ふくらはぎに似ている。歩幅が変わると、負荷が変わる。負荷の変化に対応するのは、結局のところ筋肉だ。筋肉は練習でしかつかない。


 午前の仕事は、未読ゼロの更新から始まった。通達の束は薄く、未読はゼロ。既読の朱は淡い。朱は朝に乾く。乾いた朱は、鍵の歯に似ている。歯の段差が一定だと、扉は静かに回る。私は〈動線変更・速報票〉の角を揃え、〈やらないことリスト〉の四行を指でなぞった。――見世物に乗らない。比較しない。噂に反応しない。連帯を演出しない。そこに鉛筆で一本、薄い線を足す。〈期待された結末の型に乗らない〉。線は消しゴムで消しやすい濃さにした。消せる約束は、守りやすい。


 昼、広報の青年が駆け込んできて、「昨夜の夜会の反省票、掲示できる?」と訊いた。私は「無署名で」と答え、紙を差し出す。「結果だけ」。青年は頷き、紙を抱えて走り去る。背中の汗が光った。光は汗に似合う。汗は拍手より長持ちする。


 夕方、私は一度だけ寮に戻り、引き出しから封緘した手紙を取り出した。封の縁は、夏より少しだけ柔らかい。柔らかさは温度で説明できる。心の柔らかさは、温度以外にも理由がいる。私は理由を探さない。探すと、物語が勝手に出来上がる。出来上がった物語は、私の主語を奪う。封を撫で、引き出しに戻す。鍵束が軽く鳴る。鳴るたびに、扉の名前が増える気がする。


 夜、共有メモの控えに一行を書き足した。


 ――主役の定義:私の主語を私から奪わない。


 そして、余白に小さな鍵を描いた。鍵は、主語を守るための道具だ。誰の許可もいらない。使う場面だけ気をつける。場面を間違えると、鍵は凶器になる。凶器にしないために、鍵束を揺らす。音を確かめる。音が軽ければ、まだ大丈夫。


 灯を落とす直前、窓の外で銀杏の葉がひとしきり落ちた。落ちきる音は、拍手より静かで、だけど拍手の成分を含んでいる。私は胸の内側で最小単位の拍手を一度だけ畳み、名札にふれた。RENA。四文字の密度は、今日も過不足がない。過不足がないということは、強さの代わりに厚みがあるということだ。


 秋の終わり、王都の並木道。私はユリウスに返答をして、期待された結末の型に小さな“さよなら”を言った。恋の成立/不成立は、物語の主語ではない。私が主役であること――それが定義。鍵束が軽く鳴り、私はその音を合図に、扉の前室を出た。前室の次は、廊下。廊下の次は、無数の部屋。開ける扉は、これからいくつでも選べる。選ぶたび、鍵の歯が磨かれる。磨かれた歯は、音を小さくする。小さい音は、長く続く。長く続く音の中で、私は歩幅を合わせないまま、誰かと並ぶ練習を続ける。続けることそのものが、私の主役の稽古だ。鍵束はポケットで温まり、名札は胸で冷え、二つの温度差が、明日の筋肉を育てる。私は目を閉じ、扉の蝶番の見えない光沢を思い浮かべ、眠りへ鍵を回した。

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