第26話:腹痛
新鮮な海の幸を堪能したわたくしは、シエルさんとともに潮風の吹き抜ける海沿いの道を歩いておりました。
おじいさんいわく、リンクスさんは大きな樹のあるお家に住んでいらっしゃるのだとか。
ここからでも見えるほどの大きさですし、目的地までは一本道ですので、迷う心配はないでしょう。
それに、わたくしには道に詳しいシエルさんがついているのです。
彼女が一緒なら、どんなところでも辿りつけるはずですわ!
「うぅ、食べすぎちゃったっす……」
などと頼りにしていたところ、シエルさんがうめき声をもらします。
おかわりをしていましたし、きっと食べすぎによる胃もたれでしょう。
「どこかでお休みしましょうか?」
シエルさんは首を振ります。
「平気っす。これも修行だと思えばへっちゃらっす。お腹の痛みに耐えることで、精神力が鍛えられそうな気がするっすよ。親父も言ってたっす。精神力を鍛えれば強くなれるって。いまが強くなる絶好のチャンスなんす」
病は気からという言葉の通り、シエルさんは『平気』だと自分に言い聞かせることで胃もたれを克服しようとしているのでしょう。
効果は抜群でした。自己暗示をかけることで、シエルさんは凜としたお顔になりつつあったのです。
とはいえ無理をしているのは一目瞭然。きりっとしたお顔立ちをしつつも、顔色は青白いままでした。
このままでは本格的にお腹を壊してしまいますわね……。
できればお休みしてほしいのですが、シエルさんは頑なに休憩を拒んでいます。
修行とは言っておりますが、本当はわたくしに迷惑をかけたくないだけでしょう。
確かにわたくしはいますぐにでも婚活をしたいと思っておりますが、シエルさんの健康をないがしろにするわけにはいきません。
それに急いでリンクスさんにお会いしたところで、婚活を受けてくださるかどうかはわからないのです。
これまでの婚活相手は好戦的な方ばかりでしたが、リンクスさんは違うのですから。
御前試合に出場するくらいですし、戦うのが嫌いということはないのでしょうが……どういうわけか、最近は勝負の誘いを断り続けているようなのです。
「手土産を用意したほうがよかったかもしれませんわね」
もので釣るのは失礼かもしれませんが、手ぶらで行くより手土産を持っていったほうが心証は良いでしょう。
「手土産なんていらないっすよ。リンクスが勝負を断ってるのは、きっとザコと戦うのは時間の無駄だと思ってるからっす。姉御は強いっすから、断られたりしないっす」
シエルさんがお腹を押さえつつ、わたくしを励ましてくださいました。
本当にシエルさんは良い子ですわね……。
さておき、シエルさんの仰る通りです。御前試合で優勝したことを明かせば門前払いはされないだろうと、おじいさんも仰ってましたものね。
とはいえ、やはり手土産があるに越したことはありません。シエルさんの顔色は優れませんし、ついでに胃薬を買うとしましょう。
「もうちょっとで到着っすね」
思案している間にけっこうな距離を進んだらしく、大樹はすぐそこまで迫っておりました。
ちょうど木陰がありますし、シエルさんにはあそこで休んでもらいましょう。
「シエルさんはあそこで待っていてくださいな。わたくしはどこかでお買い物を……」
そこで、わたくしは言葉を呑みこみます。
バチャバチャと激しい水しぶきの音が聞こえてきたのです。
海のほうへ視線を向けると、ひとが溺れておりました。
必死に両手をばたつかせておりますが、いまにも沈みそうなご様子です。
「まあっ、大変ですわ!」
バンッ! と地を蹴り跳躍したわたくしは、100メートルほど離れた海面に落下します。
「わたくしが来たからにはもう安心ですわっ」
と、わたくしは理想の結婚相手から言われてみたい口説き文句第5位の台詞を口にします。
「わぷっ、わぷっ」
溺れていたのは若い女性でした。
安心感を促すべく声をかけつつ、骨を砕いてしまわないようそっと手首を掴み、彼女を砂浜に引き上げます。
「だいじょうぶですの?」
お顔を覗きこんでたずねたところ、彼女は何事もなかったかのように上半身を起こしました。そして、黒曜石のような瞳でわたくしを見つめてきます。
「平気さ。泳いでいただけだからね」
柔らかそうな唇を笑みの形につり上げる女性に、わたくしは思わず首をかしげてしまいます。
「泳いでいただけですの?」
お手本のような溺れっぷりでしたが……目の錯覚だったのでしょうか?
わたくしが疑問に思っていると、彼女は気を取りなおすように黒髪をかき上げました。
「きみが見間違えるのも無理はないさ。自分でも見苦しい姿だと思っているからね。だからこそ、私は水練をしていたのさ。いつの日か優雅に泳げる日が来ると信じてね」
シエルさんと気が合いそうな性格ですわね。
さておき、溺れていたとは思えないほどの落ち着きようですし、本当に水泳の特訓中だったのでしょう。
「邪魔をしてしまい、申し訳ありませんわ」
わたくしの謝罪に、彼女はお顔の前でぱたぱたと手を振ります。
「とんでもないっ。こちらこそ勘違いさせてすまなかったね。ものすごい勢いで飛びこんでたけど……怪我はしてないかい?」
「ええ、平気ですわ」
この程度で怪我をするようでは、竜の谷に落ちた時点で死んでますわ。
「そうかい。怪我がなくてなによりだよ」
本気でわたくしの心配をしてくださったのでしょう。無事を告げると、彼女は安心したように柔和な笑みを浮かべます。
「だけど服が濡れてしまったね。このままだと風邪を引いてしまうし……そうだっ、うちに来るといいよ。そしたら服を乾かしてあげられるからね」
「お家は近くにあるんですの?」
「うん。あそこが我が家さ」
彼女が指さした先には、大きな樹のあるお家が佇んでおりました。
まさかこの方がそうなのでしょうか?
「失礼ですが、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
わたくしの問いかけに、彼女はにこりと笑うのでした。
「私はリンクスという者さ」




