嫉妬渦巻く湖の畔11
「……気のせいかしら? 自分はどうなってもいいからこの子を助けてくれって言ってるように聞こえるわ」
不快そうに眉をひそめた妖精の氷のような視線は刺さるように鋭い。
「その通りだ」
短く応じると、途端に妖精の表情が豹変した。
「そんな取引、私になんの益もないじゃない! もともとあなたをどうするのかは私の勝手なのよ!!」
激高した妖精の声は高ぶりを押さえきれずにわずかに震えていた。
「いったいなんなの? 保身のために周りがどうなろうとどう思おうと知ったことじゃないって思ってたくせに、なんでこの子のために自分の身を擲とうなんて言い出すわけ!?」
怒りと憎しみに歪む口元が、無理矢理笑みを形作る。
「……ふふ、そんなあなたでもさすがに人を死に追いやることには罪悪感が拭えないのかしら? その贖罪のつもり? それとも憐憫かしら? 情が深いから、かわいそうって思ってるんでしょう? それとも――」
腕の中のディーネを忌々しげに見た妖精に、冷酷な視線と冷笑が戻ってくる。
「――やっぱり、この顔のせいかしらね?」
ディーネを迎え合わせに抱き直し、つっと頬のラインをなぞり、乱れた銀色の髪を手で梳き流す妖艶な指先。
そこに先ほどまで露わにしていた憎しみを全部集中させているように思えて背筋が凍った。
「よく似ているから、私への想いと混乱しているだけよね」
妖精はディーネの顎に指を添えて見上げさせ、ふたつの顔が見つめ合った。
刹那――ディーネは刃物のように鋭く妖精を睨みつけた。
「……憐れまれているのは、あなたの方でしょう?」
それは静かに言い放たれたが故に、深く刺さるようだった。
「アレス様があなたに抱いているのは憐憫。そして呪縛で無理矢理つなぎ止められているだけ。愛情なんかじゃないわ」
「……なんですって?」
ぴしゃりとしたディーネの言葉に、妖精の形のいい眉が跳ね上がった。
「魔法で自分に向けさせ縛りつけた気持ちなんか、よけいに空しいとは思わないのですか。こんなことをしているから、あなたはいつまでも淋しいままなんでしょう?」
「知ったような口を聞くんじゃないわよ、小娘が!!」
苛烈な言葉に妖精は憎々しげに顔を歪め、水龍が遺した泥濘に向かってディーネを突き飛ばした。
「――わかるものですか! 約束を破られ、いつまでも待つだけの淋しさを!!」
「待ち焦がれるのが淋しいなら……その気持ちが分かるのなら! なんで6年もあなたに焦がれたアレス様の気持ちを踏みにじって笑うんですか!!」
頭から泥にまみれたディーネはすぐさま身を起こして再び妖精を睨んだ。
垂れ落ちてくる泥水を拭いもせずに、強く。
「好きな人のそばにいたいと思う。愛されたいと思う。それを嘲笑う人が、誰にも愛されるわけが、ないじゃない!!」
吹き飛ばされそうな強烈な風を思わせる威圧感を漲らせている妖精に、ディーネは一歩たりとも譲らなかった。
普段の、物腰が柔らかくてお人好しで、人に言われたことに逆らわないディーネとは思えないほど、屈強な意志の籠もった目だった。
それはまるで、爆発だった。
これまでずっと押し込めて続けていた怒りや恨み、鬱憤がすべてがいっぺんに弾けたようだった。
「……悔しかったら、アレス様にかけた呪いを解いてみなさい! あなたか私か、どちらを本当に愛しているか、それともすべて魔法で作られた幻影かがわか――きゃっっ!!」
「言ってくれるじゃないの、たかが器の分際で!」
肩を妖精に蹴り倒され、悲鳴とともにディーネは再び泥濘の中に伏した。妖精はその背中を泥の中に塗り込めようとするかのように忌々しげに歪む笑顔で踏みにじる。
「器なんかじゃ……ない」
ディーネは泥と涙にまみれても、痛みを堪えて呻いた。
「私は――私は、たとえここで殺されようとあなたの道具になんかならない!!」
泥にまみれても決して失わない輝きが――金剛石のように強固な意志が顕れる強い光が、その目にはあった。
その決して屈しない目で妖精を刺すように睨み、叫ぶ。
「あなたに抵抗して殺されるなら、私がちゃんと人間として生きた証だもの。アレス様が……人として生きろって、自分の意志を持っていいって、そう、望んでくれたから。――私は、あなたのものには、ならない!!」
一瞬、妖精が後ずさったように見えた。
怒号の余韻が消え、わずかな沈黙が流れ――そして、妖精はにたりと笑った。
「……そう。言うだけならなんとでも言えるわね。でも、どうやって?」
「くっ……ぅ……っ!!」
妖精は肩を踏みにじる足に体重をかけ、ディーネは痛みに呻いた。
その痛みのせいか、それとも徹底抗戦を腹に決めていても実際にできるのは口答えくらいという事実の悔しさに堪えきれずか、両手は泥を強く握りしめ、その目からはぽろぽろと涙がこぼれていた。
妖精はそれを背筋を伸ばして髪を背中に流しながら満足げに見下ろす。
「どんなに足掻いたって、あなたもあの男も私のもの」
「あなたにだけは、譲らない!! この身体も、アレス様も、絶対にッ!!」
ディーネは涙を流しながらも不屈の瞳で妖精を睨み上げる。
「契約で縛っているのは、本当に愛されている自信がないからでしょう? 自信があるなら呪いを解けばいいじゃない!!」
畳みかけられた妖精の動揺は、仄暗い笑みの中に消えていった。
「そう……じゃあ、」
ぐりっとディーネを踏みつける足に力が込められ、妖精は右手を空に翳した。
その右手の少し上に、まるで透明の水風船でもあるかのように薄く黄色かかった液体が現れる。ぽたりと垂れた一滴が草むらに落ちると、じゅっと不快な音と腐卵臭のする白煙を上げて焦げを残す。
「………こうして、みましょうか?」
妖精はゆっくりとそれをディーネの顔に近づけていく。
「その顔が、私と似ていなければいいのよね?」




