35:前触れ
朝日がカーテンの隙間から差し込み、空はどこまでも澄み渡っていた。
世界が私を祝福している。そうに違いない。
「……よし。今日こそは、絶対に大丈夫。絶対何も起きない」
私はベッドの中で、リネンに顔を埋めたままぎゅっと拳を握りしめた。
自分に呪文をかけるように言い聞かせる。大丈夫、イケる、イケる。
昨日の大失態。客のカツラを毟り、地獄の空気にしたあの光景。思い出すだけで顔から火が出そうになるけれど、冷静に分析すれば、あれはあくまで不可抗力の連鎖に過ぎないのだ。
たまたま、リマングスタという慣れない土地の潮風に平衡感覚を乱され。
たまたま、エプロンの紐が椅子のささくれに引っかかり。
たまたま、そこにカツラを被ったお客さんが絶妙な位置にいただけ。
そう。私の忌々しい『不運』は、昨日の騒動で全エネルギーを使い果たし、もうとっくに収まっているはずだ。いつまでも自分が不幸の元凶だなんて思い込んでいたら、それこそ自立できないじゃない。
「おはよう、ミオ。朝からずいぶんと考え込んでるみたいだね」
突然、背後から声を掛けられる。犯人は一人しかいない。カシムだ。
彼は私を、背後から抱きしめるようにして横たわっていた。
私たちの間に入れていた枕という名の国境は今日も無惨に突破されていた。昨日は部屋の隅へ落ちていた。今日は扉の前へ。……何故だ。何故どんどん遠退いて行くのか。
国境線は容易く動かないでほしい。そして、そろそろ離して。心臓が限界だから。
「……カシム。いつから起きてたのよ」
「君が可愛い寝顔で『カツラ……』と呟いた頃からかな」
「最悪……! 見ないでよ!」
逃げ出そうとするが、彼の拘束はびくともしない。それどころか、彼の髪が首筋に当たるほど引き寄せられる。スゥっと冷たい空気が項を擽る。……匂い嗅がれてる!?
「やめてよ!?……近い!!はーなーしーてー!」
「いいだろ。新婚なんだから」
「ーーっ、設定だけでしょ!?」
結局、今日もカシムが満足するまで腕の中から逃げることはできなかった。
……ものすごく疲れた。まだ朝なのに私のライフ(主に羞恥心的なやつ)がごっそり削られる。
なんとか乱れた髪と服を整え、逃げるように寝室を飛び出してリビングへと向かう。後ろからは、そんな私の狼狽ぶりを愉しむような、カシムの静かな足音がついてきた。
「……さて。朝食の準備をしようか」
キッチンに立ったカシムは、慣れた手つきでエプロンを身につける。その背中はどこまでも余裕たっぷりで、私一人が心拍数をかき乱されているのが本当に癪に障る。
今日こそは、彼の手を借りずに済む「デキる女」を見せつけなければならない。
「私も手伝うわ! スープくらいなら作れるし……」
「いいよ、ミオ。君はそこで大人しくしてて。……と言いたいところだけど、ミオも大人だもんな?」
カシムは苦笑しながら、棚を指差した。
「じゃあ、そこからマグカップとお皿を出してくれ。 それくらいなら、君の足腰にも負担はかからないだろ?」
「……馬鹿にされてる気がする。もう、足腰が弱いなんて設定、とっくに忘れていいのに……」
ぶつぶつと文句を言いながら、私は食器棚へ手を伸ばした。
…………。
一瞬、昨日の店の取っ手がもげた感触が指先に蘇り、背筋に冷たいものが走る。もしここで家のマグカップまで破壊してしまったら……。私が選んだ時のカシムの嬉しそうな笑顔が脳裏を過ぎる。
(落ち着け、私。あれは店の備品が古かっただけ。これは新品。大丈夫、イケる……!)
私は、爆弾でも扱うような手つきで、慎重にマグカップの取っ手を握った。
……。
取れない。カップは大人しく私の手に収まっている。お皿も、指が触れた瞬間に割れたりしない。
「ほら! ちゃんとできたわよ!」
私は内心安堵しながら、二人分の食器をテーブルに並べた。
それを見たカシムが、スープの入った鍋を火にかけながら、意地悪く目を細める。
「お疲れ様。……家のマグカップは壊さないでね? 替えはきかないんだから」
「大丈夫に決まってるでしょ!? アレは、ガロンさんの店のカップが古かっただけ! 寿命だったの!」
私の鼻息荒い宣言に、カシムは「そうだね」とだけ言って、出来上がったオムレツを皿に盛り付けた。
香ばしいバターと卵の匂いが、空っぽの胃を刺激する。
「さあ、召し上がれ。今日は俺が食べさせなくても、一人で食べられる?」
「当たり前でしょ! 昨日はお店だったから、ガロンさんに合わせるために甘んじて受け入れただけなんだから!」
私は椅子に飛び乗り、カシムの差し出しそうになるフォークを牽制しながら、自分の手でフォークを握った。
フォークは折れない。オムレツを口に運んでも、喉に詰まらせることもない。
(ほら! 大丈夫! 私は一人で食事ができる女よ!)
やめよう。……悲しくなる。
朝食を終え、いよいよガロンさんの店へと向かう時間になった。
私は、自分の手で戸締まりを確認し、玄関の段差で転ぶこともなく、一歩外へと踏み出した。
(今日こそは、カシムがいなくても一人で完璧にこなしてみせる!)
隣を歩くカシムの横顔を盗み見ながら、私は心の中で勝利宣言を掲げた。
意気揚々と出勤したガロンさんの店には、昨日以上に活気……というか、混沌が満ちていた。
入り口には、交易船から届いたばかりの巨大な木箱が、うず高く積み上げられている。
「おお、ミオちゃん! おはよう! 今日は顔色が良さそうだな!」
ガロンさんが丸太のような腕を振り回して迎えてくれた。その背後では、カシムがすでにエプロンを締め、テーブルを拭いている。
「ガロンさん、今日こそはしっかり働きます! 椅子に座ってるだけなんて、もう嫌ですからね」
「わっはっは! 威勢がいいな! だが、無理は禁物だぞ!……カシム、悪いが店の倉庫まで、このハーブの木箱を運ぶのを手伝ってくれ!」
ガロンさんの言葉に、カシムが一瞬だけ動きを止め、私の方へ振り返る。
「ミオ。少しの間だけ一人で留守番してて。……言っとくけど、余計なことしちゃダメだからね」
「失礼ね! いいから早く行って!」
私は彼を追い払うように手を振った。
カシムは納得がいかない様子で、何度も私を振り返りながら、ガロンさんと共に裏手の倉庫へと消えていった。
店内には、私一人が残された。
市場から聞こえる遠い喧騒が、妙に静寂を際立たせる。
(さあ……私の実力を見せる時よ!)
私は気合を入れ、隅に立てかけられていた掃除用の箒に手を伸ばした。
以前なら、ここで手が滑って箒を倒し、それがドミノ倒しのように瓶を割り、店中をめちゃくちゃにしていたはずだ。けれど、今の私なら大丈夫。
そう確信して、箒の柄を握りしめた、その瞬間。
――パキッ。
乾いた音が、静かな店内に響き渡った。
え……?
昨日まで、ガロンさんの太い腕に長年耐えたはずの木の箒が。
私がただ、軽く握っただけで、枯れ枝のように真っ二つに折れていた。
「……う、そ。え、何、これ」
嫌な汗が、背中を伝う。
いやいや、落ち着け、私。これはきっと木が乾燥しきっていたのよ。経年劣化。寿命。そう、ただの偶然が重なっただけ。
私は折れた箒をそっと元の場所に戻し(戻した瞬間にさらに三つに砕けたが、見なかったことにした)今度は窓を拭こうと、カウンターに置かれた布に手を伸ばした。




