その心を知る
近頃のハルは、ため息をよくこぼしているらしい。
それは、私が直接目にしたわけではない。
使用人からの、慎重に選ばれた言葉によって知らされた事実であったのだ。
「ハル様は、何やら思い詰めていらっしゃるご様子で……」
その言葉が、胸の奥へと静かに沈んでいく。
私が問いかけてみても、ハルは決まってこう答えるだけであったのだ。
「なんでもないよ、大丈夫」
そう、常と変わらぬ明るい笑みを浮かべていた。
その笑みが、かえって私を苦しめていた。
何か不満があるのか、それとも未だ拭いきれぬ不安でもあるのか。
それとも私に対して、何か思うところでもあるのだろうか。
手紙を書いていた頃は、ハルの心が近くにあったような気がしていた。
拙くも誠実な文字で、その喜びも寂しさも、不安さえも素直に綴ってくれていた。
しかし、今はどうだ。
同じ屋敷にいながら、同じ部屋でともに過ごしているというのに。
その心が、かえって遠く感じられていた。
書類を書き終え、私は静かに息を吐いた。
机の上に広がる文字の海の中で、ふと、ハルのあの文字が恋しくなった。
今やその姿も声も、すぐそこにあるというのに。
それであるというのに、なぜこのように満たされないものがある。
そして、気付く。
私は、ハルの心が欲しいのだと。
だがその考えは、あまりにも傲慢だ。
心は決して奪うようなものではない。
もしこの欲を悟られてしまえば、ハルに嫌われてしまうようなことがあれば。
私は、生きていくことなどできないだろう。
「……セラも、大丈夫?」
「何がだい?」
「その、ため息が多いから……。少し、休む?」
「ありがとう。ハルは、優しいな」
「そんなこと、ない……」
それほどまでに、ハルの存在はもはや私のすべてになりつつあったのだ。
***
使用人の報告によれば、ハルは人を遠ざけるようにして過ごしているらしい。
身の回りの世話も、自らの手で行うことができるようなことは全て自らの手で行いたいのだと。
「自立のためであると、おっしゃってみえました」
自立など、しなくてもいい。このままいつまでも、私に甘えてくれればいい。
だがそれは私の願いであって、ハルの望みではないのだろう。
ハルは思いのほか、遠慮をしていた。
そして強がって、無理をする。
私が構わないと伝えても、それをそのまま受け取ることができない。
その結果、ハルは熱を出して寝込んでいた。
寝台の上で苦しそうに息をするその姿を見た瞬間、胸が締めつけられるような思いで溢れていた。
「……ごめんなさい」
掠れた声で、ハルはそう言った。
「迷惑ばかり、かけて……」
「迷惑などではない」
私は即座に、否定した。
「今はゆっくり、休むといい。何も考えなくていいんだ」
そしてまた、私はその手を握っていた。
細く熱を帯びたその指を絡め取り、静かに撫でる
こうしているだけでも、私は充分に幸せであるというのに。
この心は、それ以上を望んでしまう。
やがて抑えることなどできず、思わず言葉がこぼれていた。
「……私はただ、君と共に暮らしていきたいだけなんだ……」
寝息にかき消されるであろうと、思っていた。
「肩を並べて歩き、同じ物を食べて、笑い合い。時には季節の移ろいを感じながら……、同じ時を重ねていきたい」
それでも、私はなおも語り続けた。
「他には、何もいらない。私には……、ハルさえいればそれでいいのだから」
手の甲を撫でて、静かに唇を寄せた。
どうか、この想いが届くようにと。
その瞬間、ハルが静かに目を見開いた。
「……セラ、」
潤んだ瞳が、まっすぐに私の顔を映していた。
「ほんとうに……?」
私はその額に、そっと口づけを落とした。
「本当だとも」
揺るぎなく私はこの想いを言葉にのせた。
「私は、ハルのことを心から愛しているんだ」
「……でも、俺には……身分も、何もない……」
その声は、ひどく震えていた。
「それに、仕事だって……」
「身分など、関係のないことだ」
私は、遮るように言った。
「仕事も、気にしなくていい。ハルが日々、健やかでいること。それだけが私の願いであり、喜びでもあるんだ」
「でも……」
「他に、何が不安なんだ?」
そう問いかけると、ハルは少しずつ心を開いていく。
「……いつか、セラに嫌われたら……」
なおも強く手を握り、私はハルに向けて微笑みかけていた。
「セラがいなくなることが、怖いんだ……」
「決して、ハルのことを嫌いなどしない。いなくなるようなこともない。……他には?」
「男だし……それに、年だって……」
「愛は、すべての者に等しくあるものだという。それがどうした」
「セラに、っ……。もうこれ以上、……なにも返せないんだ……」
大粒の涙が、頬を伝う。
「こんなによくしてもらって、優しくしてもらって……。愛してもらって……」
子供であるかのように声をあげて、ハルは初めて私の前で感情を露にした。
泣きじゃくる背をさすりながら、私はその身を抱き寄せた。
「なにも、返さなくていいんだ。ただ、そばにいてはくれないか」
「……セラ……」
「ハルからの愛が、ほしいだけなんだ……。私のことは、嫌いか?」
「……嫌いじゃない。むしろ、大好きなんだ……」
そして静かに抱き合い、私たちはどちらともなく互いの唇を重ねていた。
それは炎であるかのように熱く、この身を焦がしていくかのようでもあった。
しかしハルは今、病人だ。
これ以上の無理をさせてはいけないと、名残惜しくもその身を離す。
せめてもの代わりにと、頬に口づけを落とした。
「愛しているんだ、セラのことを……」
そう言葉にされて、喜ばぬ者などいるだろうか。
「ハル。私も、愛している」
そしてハルは、私の目を見て静かにこう言った。
「俺の本当の名前、ハルトっていうんだ……。セラにだけ、知っていてほしい」
思わず私は、笑みを浮かべていた。
「ハルト、いい名だ。……まるで、君のことを表しているかのような……」
「でも、ハルって呼んでほしい。どうか、このまま……」
「わかった」
私は、その身を強く抱きしめた。
「ハル」
その名を呼んだ瞬間、世界が確かにここにあると感じられた。
この腕の中に、この温もりがある限り。




