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【幕間】深く息を吸い込んで


 ――あぁ、息苦しい。

 苦しくて、苦しくて、消えてしまいたい。


 何が嫌というわけではない。

 強いて言うなら、すべてが嫌だ。


 全部なくなってしまえばいい。


 それがダメなら、せめて私のほうが……


***


 ――カンカンカン


 踏切の音がうるさい。



 私はこの音が嫌いだった。


 踏切で待たされるのも嫌い。


 でも、高校からの帰り道だから、この踏切は避けられない。



 踏切が上がるまで、あと数分はかかるだろう。


 この時間がとても気持ち悪い。


 嫌で、不快で、不愉快で――


 あぁ、息苦しい。


「……」


 もうすぐ電車が通過する。


 そうしたら、この踏切も上がってくれるだろう。


 だけれども、なんとなく……。


 そう、ただなんとなく思ってしまった。



 ――もう渡っちゃおう



 踏切は下りたまま。


 電車は迫っている。


 でも、どうでもよかった。


 一歩、踏み出す。



 ――しゃん


「っ!」



 小さな鈴の音に、はっとする。


 その直後に、目の前を電車が通過していった。


「…………っ」


 私はいま、何をしようとしていた?


 困惑してしまう。


 自分で自分の行動が理解できない。


 あのまま渡っていたら……。


「――」


 でも、不思議と恐怖はなかった。


 そうなってもよかった、と考えてしまう。


 むしろ、どうして足を止めてしまったのか?


「……」


 私を止めたのは、小さな鈴の音だった。


 その正体を確かめるために、音の方に目を向ける。



 それは足元にあった。


 小さな赤い布袋。



 刺繍で「御守」と書かれているそれは、祖母からの贈り物だった。


 中には小さな鈴が入っている。


 カバンにつけていたはずなのに、落ちてしまったらしい。


 なにかの拍子で緩んでしまったのだろうか?


「ちゃんと結んでおいたんだけど……?」


 原因はともかく、お守りを拾ってカバンに付け直す。


 もう落ちないように、しっかりと結びつける。


 そうしている間に、踏切が上がっていた。


「……」


 今更もう一度挑戦する気にもならなくて、私は普通に歩き始めた。



 踏切を渡った先に、やっと駅の改札がある。


 この面倒な配置も本当に嫌だ。


 改札を抜けて、ホームで電車を待つ。


 この時間もとても息苦しい。


 ホームにまばらにいる人は、私と同じ学校の生徒が多くて。



 雑談をして、爆笑をしている。


 なにがそんなに楽しいのかわからない。



 カバンをぶつけ合っている男子もいる。


 高校生にもなってバカバカしい。


 しかも、カバンが近くにいた無関係の人にぶつかっている。



 他人に迷惑をかけるなんて、ほんとにバカげている。


 どうしてそんなことも意識できずに生きていけるのか?


 理解できない。


 こんな人たちが楽しそうに生きていることが信じらない。



「……」


 いや、わかっている。


 そんなことを気にしている私のほうが間違っているのだ。


 でも、気になってしまうのだから、どうしようもない。



 他人が他人に迷惑をかけているのを見ただけで、イライラしてしまう。


 どうせ迷惑をかけている人も、かけられている方も、さほど気にしていない。


 それが余計にイライラする。


 どうして、これを許容できるのか?


 誰にも迷惑をかけないし、誰も迷惑を感じないほうが良いに決まっているのに。


 本当に、この世界は私が生きるには苦しすぎる。


 あぁ、息が苦しい。


 呼吸ができない。



 ――カンカンカン


 踏切が下りる音。



 そろそろ電車が来る。


 電車が着いたら乗り込んで、さっさと家に帰ろう。


 そう、早く家に帰りたい。


「……」


 だからかな?


 まだ電車は来ていないのに、私は足を前に出していた。


 線路に向けて、歩みを進める。



 ――しゃん


 小さな鈴の音。



「っ」


 はっとして、振り返る。


 またお守りが落ちていた。


 しっかりと結んだはずなのに……。



 その直後に、風が吹いた。


 電車がすぐ背後を通り過ぎる。


 徐々に減速して、停車し、ドアが開く。


「――」


 あのまま進んでいたら……。


 その想像に、さほど恐怖は感じなかった。


 ただ、タイミングを逃してしまったという感覚だけが残る。


 とはいえ、今更どうにかする気にもならなくて、大人しく電車に乗った。




 電車に揺られること小一時間。


 自宅のある上野に到着した。


 上野駅は乗り入れ線が多いから、とても人が多い。


「――」


 この人込みも嫌。


 まったく道を譲る気配のない人、手元のスマホだけを見て歩く人、迷っているのかふらふらと動き回っている人。


 私はただ歩いているだけなのに、邪魔が多すぎる。


 その状況が、またイライラする。


 人が多いだけでも息が詰まるのに。



 なんとか駅から出たけれど、外は外で人が多い。


 まっすぐ歩けない。


 何度も道を譲る羽目になる。


 あぁ、本当に嫌だ。


 早く家に帰りたい。



 家に帰ったところで、なにも楽しいことなんてないけれど。


 むしろ一人で家にいると、余計に考えが暗くなる。



 外にいても家にいても楽しくない。


 何をしていても楽しくない。


 そんなことを考えながら、ただ歩く。


 上野公園の中を進んでいく。それが家への近道だった。


 公園へ入る坂道を上っていく。


 上野公園は上野台という台地だから、段差が激しい。


 長い坂道を上ると、かなりの高さまで来てしまう。


 落下防止の柵をつかんで、下をのぞき込む。


「……」


 本当に高い。


 ここから落ちたら、無事では済まないだろう。


 だから、こんなのぞき込むような危険なことはするべきではない。


 わかっている。


 わかっているけれど。


「――」


 息ができない。


 息苦しい。


 そして、眼下の光景に引きずり込まれるような感覚がした。


 身をゆだねれば、きっとこの息苦しさから解放される。だから、


「……うん」


 柵の向こうに身を乗り出す。



 ――しゃん


 小さな鈴の音。



「――っ」


 はっと息を吸い込んで、正気に戻される。


 足元を見れば、赤い小さなお守りが落ちていた。


 まただ。


 ちゃんとカバンに結び付けたのに……。


 そっと拾い上げたお守りに、恐怖を抱く。


 なぜこうもタイミングよくカバンから落ちるのか?


「……ううん」


 タイミング悪く、かもしれない。


 とにかく、偶然とは思えない。


 おばあちゃんからもらった大事なお守りだけれど、得体のしれないものに見えてきた。


「……」


 不気味で、怖くて、気持ち悪くて。


 だから私は、ある決心をした。


 お守りを手にしたまま、そっと歩みを進める。


 近くにあったゴミ箱の前で足を止める。


 その上に手を持っていった。お守りを持ったほうの手を。


 この手を開けば、お守りはゴミ箱に吸い込まれる。


「――」


 わずかに躊躇う。


 これまで大事にしてきたのに、こんな簡単に捨てていいのだろうか?


 けれど、不気味なそれを持ち続けるのも嫌だった。


 嫌なモノは捨ててしまったほうがいい。


 だから、指の力を抜く。手を開こうとして。


 その時だった。


 後ろから声をかけられたのは。


「良くないですよ」


「――っ」


 はっとして、後ろを振り返る。


 そこには男の人が立っていた。


 黒い学生服で、私と同年代に見える。おそらく高校生だろう。


 その男子が私の手元を見て、悲しそうな表情になる。


「捨ててしまうんですか?」


「……それが、なにか?」


 なんとか声を絞り出して、言葉を重ねる。


「私のものをどうするかなんて、私の勝手でしょ」


 そう、私のことは私が決める。


 けれども、その男子は引かなかった。


「でも、もったいないですよ。見たところ、手作りのようですし」


「……」


 確かに、これはおばあちゃんの手作りだ。


 だからこそ、捨てることは躊躇われる。けれど、


「ちょっと、気持ち悪いことが続いて……」


 あまり持っていたくはない。


 気持ち悪いし、嫌だ。


 だから捨てる。


 なにも間違っていない。


 そう思っていたのに。


「では、こういうのはどうですか?」


 その男子は、何か思いついたように手を打った。


「僕が預かりますよ」


「……意味がわからないけど?」


「いったん距離を置くんです。そうするだけで解決することもありますよ」


 訳がわからない。


「捨てるのと変わらないじゃないですか」


「いいえ、預かるだけです。だから取り戻すことができる」


 捨てるのとは大違いですよ、とその人は続けた。


 まぁ、わからなくはない。


 でも、納得はできない。


 そんな私の考えを察してか、その男子が言葉を続けた。


「投げ捨てるのは簡単ですが、待ったほうがいいですよ。その前にいったん距離を置きましょう。それだけで以外となんとかなるものですよ」


「そんなものですか?」


「えぇ、僕が保証します」


「…………」


 意外と、その言葉は嫌じゃなかった。


「わかりました。なら、これはあなたに預けます」


 手を差し出す。


 私の手の下に、男子高校生の手が差し出される。


 指の力を抜いて手を開いた。


 赤い小さな布袋は私の手を離れて、相手の手に落ちる。


「えぇ、確かに預かりました」


 お守りを受け取ると、その青年はすぐに去っていく。


「投げ出す前に、問題を先送りすることをおすすめしますよ」


 よくわからない言葉を残して。


 彼の背中が遠ざかり、人込みにまぎれて見えなくなるまで私はその場に立ち尽くしていた。


「……投げ出す前に」


 その言葉は、なんとなく胸の中にすーっと入ってきた。


 周囲を見回す。


 たくさんの人が歩いている。


 その光景はやっぱりイライラする。


 けれど……。


「――はぁ」


 呼吸ができた。


 すこしだけ、息苦しさが減った気がする。


 今でもすべてが嫌なことは変わらない。


 でも、向き合い方は変えられるような気がした。


***


 さきほどまでの様子が嘘のように、彼女は元気な足取りで歩みを進める。


 その様子を遠くから眺めて、ほっと息をつく。


 それから、僕の手に乗った赤い小さな布袋に目を落とした。


「これでいいですか?」


 ――しゃん


 頷くように、お守りが小さく震えた。


 まったく、主人想いのいい付喪神だ。


 この子もしばらくは、うちで預かることになるだろう。


「――」


 でも、彼女が迎えにくる日も、そう遠くない。


 なんとなく、そう確信できた。


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