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【幕間】黄昏時に君はなく


 仮に、目の前で女の子が泣いているとしよう。


 涙は流していない。泣き声も上げていない。

 けれど、心が泣いている女の子がいるとしよう。


 あなたなら、どうする?


 見て見ぬふりをするのだろうか。

 そっと抱きしめてあげるだろうか。

 あるいは、ただ黙って事情を聞いてあげるのか。

 それとも、一緒に泣いてあげるか。


 どれを選んだとしても、間違いではないだろう。

 それはあなたにとっての正解だ。


 だから、わたしもわたしの正解を選ぼう。


***


 どうやら私は変人らしいのです。


 らしい、というのは、私に変人としての自覚がないからです。


 周囲は私を変わっていると評します。


 確かに私自身、周りの人と食い違っている感覚はあります。


 けれど、どこがどう変わっているのか、はっきりしません。


 それがわからないから、周囲に合わせることもできません。


 途方に暮れてしまいます。


 おかげで小学校の六年間は誰とも親しくなれませんでした。


 勉学だけは優秀だったので、私立の中学校に進学しましたが、そこでも結局なじめずにいます。


 とはいえ、それはさほど辛くもありません。


 変人である私にとって、こうなることは必然だったのですから。


 ただひとつ、辛いことがあるとするなら、学校までの物理的な距離です。


 電車で何時間もかかるところにあるのです。


 だから放課後、寄り道せずに帰宅しても、家の最寄り駅である上野駅に着く頃には、すっかり夕方になっています。


 日が長い夏でも、空が橙色なのですから、冬であれば真っ暗になっていることでしょう。


 こんな生活を、あと三年近くも続けなければいけないかと思うと憂鬱です。


「はぁ……こんなことなら公立に行っておけばよかった」


 何回目になるかわからない愚痴をこぼしながら、駅を出ます。


 歩道橋を渡って、しばらく路地を進めば、私の家です。


 私には寄り道するような場所もないので、いつもまっすぐに帰っています。


 だから今日も迷わず歩道橋の階段を上りました。


 帰宅するスーツの大人たちと一緒に歩いていきます。


 そこで、ふと、私の視界にあるものが写りこみました。


 自然と足が止まります。


 その直後、私の後ろを歩いていた大人の方が、舌打ちをしながら私を追い越していきました。


 ご迷惑をかけてしまったようです。申し訳ないことをしました。


 けれども、どうでしょう?


 おそらく私より一回り以上も年上の男性が、私のような小娘にためらいもなく舌打ちをするというのもどうかと思いました。


 とはいえ、今はその方の倫理観……いえ、価値観でしょうか? ともかくその方の考え方について論じるつもりはありません。


 それよりも、目についたモノです。



 セミがいました。


 私の足元に、あおむけに倒れたセミが。



 そろそろ夏も終盤を迎えようとしています。


 セミの死骸くらい、いくらでも目にすることでしょう。


 それでも、どうしてでしょう。


 そのセミの死骸が、どうしようもなく気になったのです。


 だから私は、そのセミを拾い上げました。


 両手で、そっと。なるべく優しく。


 そうして私は、再び歩き出します。


 歩道橋を渡り切って、階段を下りると、街路樹が植えられている場所に駆け寄りました。


 そして地面の上に、セミの亡骸を置きます。


 布団をかけるように周囲の土をかけて、小さな山を作りました。


 おまけとばかりに、しゃがんだまま両手を合わせて拝みます。


 何に拝んでいるのかわかりませんが、なんとなくそうするべきだと思ったので。


「……よし」


 一通り満足していると、



「君は優しいね」


 後ろから声をかけられました。



 立ち上がりながら振り返ると、そこには女の子がいました。私と同じ年くらいの女の子が。


 身長が私より高いですし、大人びた顔立ちなので、年上かもしれません。


 腰まである長髪は手入れが行き届いていて、とても美しいです。


 これだけ外見を気にかけられる方となると、なんだか余計に年上に見えてきます。


 私は朝の寝ぐせチェックくらいしかしませんから。


 けれども、彼女の着ている服は新緑色のワンピースで、そこだけは少しだけ子どもっぽいように思えました。


 夏らしい装いで私は好きですし、親しみすら覚えますが。


「…………」


 しかし、私は不快でした。


 憤っていると言っても過言ではありません。


 私は彼女に対して、イラだっています。


 だから、その気持ちを隠さずに言葉にしていました。


「別に優しくなんてありません」


 彼女は私のことを、優しいと評しました。


 けれども、私は誰にも優しさを行使していません。


 優しいことをしていないのに優しいと言われるのは、何も悪いことをしていないのに「お前が悪い」と言われるくらい腹が立ちます。


「亡くなったセミを埋めてあげるのは、優しいことに思えるけど?」


 まだ言いますか。


「私はただ――」


 なんと言葉にしたらいいかわからず、言い淀んでしまいました。


 けれども、このまま優しいなどという汚名をかぶるわけにはいきません。


 無理矢理にでも続けました。


「私はただ、なんとなくかわいそうだと思っただけです」


 そう、あのセミがかわいそうだったのです。


 決して慈悲深い気持ちから、あのような行動に出たわけではありません。


 けれども、彼女のほうもなかなか折れてくれません。


「なんだ、やっぱり優しいじゃないか」


 ほほ笑みながら、そんなことを言うのです。


 ちょっと……いえ、かなりムッとしてしまった私に、彼女はさらに続けます。


「コンクリートの上では、誰の命にもなれないからね。それはかわいそうだし、悲しいことだよ」


「――――」


 すとん、と彼女の言葉が胸に入ってきました。


 そう、そうです。私が言いたかったのは、それなのです。


 歩道橋の上では、微生物のエサになることもできません。


 だから、せめて土のあるところへ――


 表現できなかった私の感情を、目の前の彼女が言葉にしてくれた感覚でした。


 しかし解せません。


「私は優しくした気はありません。それでも優しいのですか?」


「優しくしようと思って優しくしても、それはただの偽善だよ。真の優しさとは言えないね」


 あぁ、とても納得できます。


 意図せず、うんうんとうなずいていました。


 私が誰かの意見に同意するなど、前代未聞です。


 学校の同輩諸君も、尊敬すべき先輩も、敬愛すべき先生方も、さらに言うなら親類であろうとも、彼ら彼女らの言葉にはいつも納得できませんでした。


 相手の言っていることは理解できるのですが、どうしてそのような考え方で生きていられるのか不思議で仕方ありません。


 どうにも肯定できないのです。


 けれども、どうしてでしょう。


 彼女の言葉は、こんなにもすんなり受け入れることができました。


 もしかしたら私と彼女は、考え方が似ているのかもしれません。


 そんなことを思っていると、彼女が笑いかけてきました。


「君とは気が合いそうだね」


 ほとんど同時に、同じことを思ってくれたようです。


 なんと素敵な出会いでしょう。


 嬉しさのあまり、彼女の手に飛びついていました。


 両手で固く握手をして、勢い込みます。


「私もそう思っていました!」


 これほど大きな声を出したのは、いつぶりでしょう。


 珍しく熱くなっていました。


「また会えるかな? 君とは色々と話したい」


「もちろん。今度と言わず、いますぐにでも!」


 意気込む私に、けれど彼女は首を横に振りました。


「残念だけれど、時間になってしまった」


「え?」


 疑問と同時に、驚きました。


 彼女の手を強くにぎっていたはずの両手から、急に手ごたえがなくなったのです。


 よくよく確認してみれば、彼女の体が透けているようにも見えます。


 輪郭がぼやけて、ゆらめき、やがて煙のように消えてしまいました。


 辺りを見回してみますが、彼女の姿はどこにもありません。


 いつの間にか太陽は沈んで、すっかり暗くなっていることがわかっただけでした。


「……夢でも見ていたのでしょうか?」


 いえしかし、さっきまでにぎっていた彼女の手の感覚をはっきりと覚えています。


 おそらく彼女は人ではないナニカだったのでしょう。


 この出来事を、あっさりとそう認識してしまうくらいには私の心は広いのです。


 おそらくこういう所が、私を周囲から変人と言わしめる所以でしょう。


 ともかく、次に彼女と会えるのはいつでしょうか。今から楽しみで仕方ありません。


 けれど人ならざるモノに会うとなると、なかなかの幸運が必要そうです。


 数日か、数年か……かなりの長期戦を覚悟したほうがよいでしょう。




 さて、その次ですが、翌日にあっさりとやってきました。


 いつも通りに学校から帰ってくると、歩道橋の隅にある小さなアーチの下で私を出迎えてくれました。


 しかし前々から気になっていたのですが、この空間はなんのためにあるのでしょう?


 いえ、そんな疑問は些末なことですね。


 話したいことが色々とあるのです。


 私にとっては、人生で初めて会話が通じる相手に出会ったようなものなのですから。


 いえ、大げさに聞こえるかもしれませんが、真実なのです。


 私と他の人は、みんな同じ日本語を話しているように聞こえるかもしれませんが、まったく違う日本語なのです。


 ひとつひとつの意味が違いすぎて、まったく違う国の言葉になっています。


 だから、私はやっとまともに会話ができる人を見つけた気分でした。


 だというのに、彼女との会話は長く続きません。


「君と話せるのは、夕暮れ時だけのようだね」


 そんなことを言いながら、彼女は消えてしまいました。


 ちょうど太陽が完全に地平線に隠れてしまったところです。


 どうやら彼女と会えるのは、太陽が沈み始めてから、完全に沈み切るまでの数分間だけのようです。


 どうしてなのかは、わかりません。人ならざるモノが相手ですから、そういうものだと納得するしかないでしょう。


 それは短い時間ではありますが、私にとっては充実した時間です。


 だから私は、連日その短い逢瀬を楽しみました。


 彼女との会話が五回目を迎えた日のことです。


「私はあなたのことを親友のように感じています」


 思い切って、自分の気持ちを伝えてみました。


 すると、彼女も笑顔でうなずいてくれました。


「うん、わたしもそう思っている」


 なんと、両想いです。


 もろ手を挙げて喜びそうになりました。


 親友というのは長い年月をかけて作るものだと思っていました。


 それこそ、五年や十年もの歳月がかかるものかと。


 それがどうでしょう。たったの五日で親友ができてしまいました。


 私の人生で、このような出来事が起こるなんて、まさに奇跡でしょう。


「明日も会えますか?」


 言って、今日が金曜であることを思い出しました。


 明日は学校が休みです。つまり、ここを通らないのです。


 けれど、彼女は笑いかけてくれます。


「もちろん。いつでもおいでよ」


 たまらなく嬉しくなりました。


 そうです。授業がないからといって、ここに来ない理由にはなりません。


 夕方になったら、ここに来ましょう。


 そして彼女と数分間の語らいをするのです。


 そう決意したところで、本日はお別れでした。


 でも寂しくはありません。明日また会えるのですから。


 まだ話し足りない気持ちもありましたが、それは次の機会に。




「…………」


 けれど、その次はやってきませんでした。


 翌日、いつもの歩道橋に行っても、彼女はなかなか現れません。


 そうして待っている間に、太陽は沈んでしまいました。


 どうしたのでしょう?


「今日は気が乗らなったのでしょうか?」


 えぇ、そういう日もあります。


 語らうのは明日にしましょう。


「――」


 けれども、その明日も、彼女は来てくれませんでした。


「体調を崩したのでしょうか?」


 人ならざるモノが病気になるのか知りませんが……心配です。


 彼女の安否が気になったので、それからも私は毎日、太陽が沈むまでそこで待ち続けました。


 そうして一週間が過ぎました。


 彼女は一度も来てくれません。


「私のことが嫌いになったのでしょうか」


 最後に会った時、そんな印象はありませんでしたし、彼女の気分を害することをした記憶もありません。


 けれど、現に彼女は現れてくれません。


 すこし悲しくなりました。


 それ以上に、ムッとしました。


「いつでも来ていいと言っておいて、この仕打ち……明確な裏切りです」


 いきなり会いに来なくなるなんて、失礼にもほどがあります。


 せめて一言くらいあってもいいはずでしょう。


 こうなってくると、逆に一言文句を言いたくなってきます。


 なんとしても、彼女にもう一度会わねばなりません。


 とはいえ、手立てがありません。


 どうしたものでしょう……?


 何か方法はないか考えて、私が持っているすべての知識を総動員するつもりで思考していきます。


 それでも、私は考えの浅い小娘でしかありません。妙案など浮かぶはずもなく――


「そういえば……近所に不思議なお店がありましたね」


 ふと、思い出しました。


 不思議なお店と言いましたが、一見する限りでは普通の骨董店にしか見えません。


 けれど噂話を耳にしたことがあります。


 なんでも、不思議な現象について相談を受け付けているとか。


 試しに相談してみるのもいいかもしれません。



 思い立ったが吉日と言います。


 私は、そのまま噂の骨董店に向かいました。



 しかし驚きました。お店にいたのは、高校生くらいの男性だったのです。


 いえ、近所の高校の制服を着ていますから、確実に高校生でしょう。


 制服を着るのが趣味という変わった方でなければの話ですが。


 私から話を聞いた高校生店主は、一緒に歩道橋まで出向いてくれました。


「ここで、いつも話していたんですね?」


 問われて、すぐに肯定を返します。


「はい、夕暮れ時だけですが」


「なるほど……」


 店主の方は、うんうんうなずいて、なにやら考え込んでいます。


「彼女は私のことが嫌いになってしまったのでしょうか?」


 すこしだけ不安になって尋ねると、


「それは……」


 彼はふと、視線をそらしました。いつも彼女が立っている方向に。


 それから私に視線を戻して、続けます。


「嫌いになったということはありえないと思いますよ」


 本当にそうでしょうか。


 何を根拠に言っているのかわかりません。


「では、なぜ来てくれなくなったのですか?」


 嫌いになった以外に、理由が思い当たりません。


 けれど、彼はまったく予想外のことを口にしました。


「来ていますよ。今日もそこに」


 いつも彼女がいる場所を手で示して。


「……?」


 うながされて目をむけますが、そこには何もありません。誰もいません。


「私をからかっているのですか?」


 いいえ、と首を左右に振ってから、彼は言いました。


「彼女の正体は、付喪神です」


「付喪神……?」


 聞いたことがあります。長年大事に使われた道具が、神様になるとか妖怪になるとか、そういうお話だったと記憶しています。


「ただし、付喪神が見える人は限られています。体質の問題がありますから」


「霊感のようなものでしょうか?」


「えぇ、その理解で間違ってはいませんね」


 なるほど、人ならざるモノですから、そういうこともあるでしょう。


「彼女のことが見えていたということは、私も見える側の人ということですか?」


「それが……そう単純な話ではないみたいですね」


 彼は困ったように息をつきました。


「君は、普通の人よりは見える側の人間だったみたいですね。しかし、普段は見えない側の人間です」


 よくわかりませんでした。


 私には付喪神の彼女が見えました。


 なのに、見えない側とはどういうことでしょう?


「太陽が沈み始めてから、沈み切るまで」


「……!」


 覚えのあるフレーズでした。


「夕暮れ時、黄昏、逢魔が時――呼び名は色々とありますが、その数分間は此岸と彼岸の境界があいまいになる時間なんです。普段はあちら側が見えない人でも、その時間だけは影響を受けることがありえます」


「ということは……」


 その時間だけ彼女が現れてくれるというのは、私の勘違いだったようです。


 私のほうこそ、その時間だけ彼女を見ることができていた、と。


 では、彼女が出てこなくなったのは……。


「君が見えなくなってしまったんでしょうね」


「……どうして?」


「体質ですからね。それは時間や体の成長とともに、すこしずつ変わっていくものです。君は完全に見えない側になってしまったんですよ」


「じゃあ、もう彼女には会えない……?」


 困ってしまいます。


 それはとても悲しい。


 悲しいけれど、それ以上に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。


 彼女が会いに来てくれなくなったと、私は一方的に憤慨していました。


 本当はこちらに問題があったのに。


 彼女は毎日、私のことを出迎えてくれていたことでしょう。


 それを毎日無視していたことになります。



 加えて、


 ――私のことが嫌いになったのでしょうか。


 ――明確な裏切りです。



 ひどい言葉を言ってしまいました。


 その時も、彼女は隣にいてくれたはずなのに。



 彼女は私のことを嫌ってなどいない。


 裏切ってもいなかった。


 なのに私は、なにも知らないで……。


 本当に申し訳ないことをしました。


 私は彼女に謝らなければなりません。


 けれど、謝罪をするなら相手の顔を見て言わなければなりません。


 見えない相手に謝っても、それは自己満足でしかありません。


「一度だけでもかまいません。彼女に会う方法はありませんか?」


 難しい相談だと思いました。


 なのに、店主の彼は気負う様子もなく、いつも彼女が立っている場所を手で示しました。


「毎日、ここに来て話をすればいいんですよ」


「それだけ、ですか……?」


「こちら側に関わっていれば、嫌でも影響を受けます。さきほど話した通り、体質は変わるものですからね。彼女のそばにいれば、そのうち見えるようになりますよ」


 時間はかかるでしょうが、と彼は付け加えました。


「なるほど……ですが、見えなければ会話はできません」


「一方的に話すしかありませんね。しばらくは我慢してください」


 なぜか申し訳なさそうに言ってから、彼はふと思いついたように自分自身を指さしました。


「僕が間に入れば、通訳できますよ?」


「いえ、けっこうです」


 すぐにお断りしました。


「それはなんだかズルいような気がします。私は、自分の力で彼女と会話するべきです」


「良い心がけですね。たしかに、そのほうがいい」


 店主さんも同意してくれました。


 なんだが、むずがゆい感覚です。


 これまで私の意見に同意してくれる方は少なかったので。


 それでも肯定されたのは嬉しくて、その考えを貫くべきだと思えました。


「……」


 ただ、ちょっとだけ気になることもありました。


「すみません。断っておいてなんですが、ひとつだけズルをしてもいいでしょうか?」


「いいんじゃないですか。ひとつくらいなら許されますよ」


 許される……。


 誰に許してもらえるのかわかりませんが、良い表現だと思いました。


「では、ひとつだけ。教えてください、彼女は私のことを怒っていますか?」


 ひどいことを言いました。


 何日も、彼女のことを無視しました。


 文句のひとつやふたつ……みっつ、よっつあってもおかしくありません。


 なのに、


「いえ、怒っていませんよ」


 店主さんは、私から視線を外して……おそらく彼女のことを見つめて、続けます。


「でも、とても悲しそうですね」


「泣いているのですか?」


「それは――」


 答えようとする店主さんを、私は慌てて止めました。


「いえ、ズルはひとつだけという約束でした。泣いているかどうかは、自分で確かめます」


「……たしかに、そのほう良さそうですね」


 店主さんは優しい笑みで言うと、背を向けました。


「では、僕はこれで。またなにか困ったら相談しに来てください」


 去っていく背中に、私はありがとうございましたと声をかけて、深々とお辞儀しました。


 それから、いつも彼女が待ってくれている場所を向いて、再び頭を下げます。


「毎日無視してしまったごめんなさい。ひどいことも言いました。許してくれますか?」


 返事はありません。当然です。


 いきなり見えるようにはならないでしょう。


 あの人も、時間がかかると言っていました。


「返事は、後日聞かせてください」


 また会えるようになったら。


 その時に、改めて謝罪しよう。


「それまで、私は毎日話をしに来ますので」


 おそらく彼女は許してくれるでしょう。


 怒ってはいないという話でしたから。


 それよりも問題なのは、悲しそうにしているということです。


 涙を流しているのかどうかは、わかりません。


 それでも悲しそうにしているのなら、心は泣いているのでしょう。


 ならば、その涙を止めてあげなければいけません。


 親友として私は、彼女が泣き止むまで話しかけ続けましょう。


***


 それから上野の街に、不思議な噂が流れた。


 夕暮れ時に、歩道橋の上で制服姿の女の子が、ひとり言を口にしているらしい。


 とても楽しそうに、嬉しそうに。


 無二の親友に語りかけるように、朗らかな笑みで。


 たまに彼女は、無言でうなずきを返す。


 まるで、誰かの話を真剣に聞くように。


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