【幕間】沖の声
海から声が聞こえることがある。
こちらを呼ぶ声が。
その声に返事をしてはいけない。
振り返ってもいけない。
連れていかれてしまうから。
そして、二度と帰ってくることができなくなるから。
***
大学が休みに入って、俺は地元に帰ってきていた。
「やっぱり、こっちはいいな」
特に何がいいということはないけれど、やはり地元のほうが落ち着く。
東京に憧れて、東京の大学に進学したというのに、こんな気持ちになっているのだから不思議だ。
あっちと違って、店は少ない。娯楽もない。人もいない。
唯一自慢があるとすれば、綺麗な砂浜があることくらいか。
もう少しすれば、この辺りも海水浴客で賑わうだろう。
しかしまだ七月の半ば。海に入るには、すこしだけ早い。
この時期ならば、美しい砂浜を独り占めすることだってできる。
地元民ならではの特権だ。
誰もいない砂浜を、ひとり歩く。
それはとても気分がいい。
だから俺は、こっちに帰ってくると夜な夜な散歩するようになっていた。
今日も夕飯を済ますと、浜辺へ繰り出していた。
一歩一歩、砂を踏みしめて、その感触を楽しむ。
風と波の音だけが聞こえる。
とても心地いい時間だった。
「――」
深く息を吸う。
東京とこちらでは、だいぶ空気が違う。
俺はこっちのほうが好きだ。
こんな自分にも、地元愛があるだなんて、東京に出るまで知らなかった。
「……いや」
単に東京での生活が上手くいっていないせいかもしれない。
元々俺は社交的な人間ではない。
憧れの東京に出れたものの、特別親しい人はできなかった。
友人と呼べる人は、地元にしかいない。
誰にも悩みを相談できないし、相談されることもない。
それはなんというか、すこしだけ寂しい。
しかし、地元なら頼る相手も、頼ってくれる相手もいる。
あっちは息苦しくて、こっちは温かい。
東京に出て、上手くやる人もいるだろう。
でも、俺はそうではなかった、ということだ。
ここから完全に離れることはできないのだろう。
「って、なんだか考えが暗くなってるな」
ひとりでいるせいだろうか?
浜辺の散歩は心地いいが、余計なことまで考えてしまうのはよくない。
せっかく帰ってきたのだ。久々に友人たちと飲み明かそう。
そう決めて、来た道を戻ろうとした時だった。
――おーい
呼び声がした。
「なに?」
答え、振り返る。
そこで、おかしいと気づいた。
俺が振り返った方向にあるのは、海だった。
真っ暗な水が、波を立てている。
声はそっちから聞こえた。
しかし、そんなことはありえない。
船は見当たらない。
こんな時間に、海で泳いでいる奇特な人間などいないと思うが……?
「聞き間違いか?」
きっと、そうだ。
そうなのだと、納得したかった。
けれど、俺は見てしまった。
――おーい。
遠くの海に、女性が立っていた。
海の中にいるのではない。
波で揺れる水の上に、立っている。
ボートに乗っているようでもない。
俺に手を振る彼女は、まるで浮遊するように海の上に立っていた。
そんな奇妙な光景を見て、けれども俺はまったく違うことを考えていた。
「――あぁ、美しい」
彼女は、とても美しかった。
艶やかな黒髪は、水に入ってしまいそうなほど長く、風になびいている。
肌は真珠のように白く、深い青色のワンピースを着ていた。
距離があるから、顔ははっきりと見えないが、その立ち姿からは気品が漂っていた。
俺が生きてきた時間は決して長くはないが、これまで見てきたどの女性よりも美しい。
これほどの美人には、これから先もお目にかかれないだろう。
そう確信できるほど素晴らしい女性だった。
「もっと近くで――」
そして、できるだけ長く見つめていたい。
一歩だけ、歩み寄る。
すると、彼女は煙のように消えてしまった。
「……?」
はっとして、意識が鮮明になった。
歩きながら、夢でも見ていたような感覚で……。
「なんだったんだ?」
見間違い? 幻覚? それとも本当に眠っていたのか?
いや、確かに彼女はそこにいた。
「――」
その日から、俺は彼女のことしか考えられなくなった。
連日、同じ時間に浜辺へ出向いた。
そして、いつもそこには彼女がいた。海の上から呼びかける、美しい女性が。
けれど近づこうとすると、消えてしまう。
相手が普通の人間でないことは、なんとなくわかっていた。
それでも、会いに行くのを止めることができなかった。
それほどに彼女は美しい。
遠くから眺めているだけでいい。
とにかく、彼女の存在を感じていたかった。
そして、なによりも――
彼女は寂しそうだった。
東京にいる時の、俺のように。
彼女に会いに行くようになって、何日目のことだったか。
近づけば、彼女は消えてしまう。
できるだけ長くその姿を見ていたいから、俺は必死に耐えていた。
けれど、我慢の限界だ。
すこしでいい。ちょっとでいいから、彼女のそばに。
そんな思いで、一歩を踏み出した。
「…………」
彼女は、まだそこにいた。
「消えない……?」
あぁ、今日ならば、彼女のところに行けるかもしれない。
もう一歩踏み出そうと、足を上げる。
「ダメですよ」
後ろから呼び止められた。
「――っ!」
その声で、はっと我に返って足をひっこめる。
波が足を濡らした。
俺は、この中に入ろうとしていたのか?
ふと顔を上げると、海の上の彼女は姿を消していた。
「危ないところでしたね」
後ろから、再び声がした。
振り返ると、学生服を着た青年がいた。
高校の制服だろう。
ということは、俺よりいくつか年下ということか。
「お前は?」
問いに、青年は微笑む。
「専門家、みたいなものです。あれには迂闊に近づかないほうがいいですよ」
知ったふうに語る。
その態度は気に食わなかったが、俺には知りたいことがあった。
知らなければならないことが。
「彼女は何なんだ?」
「――付喪神」
短く返された。
付喪神?
聞いたことがある。百年使われたモノが妖怪になるとか、そんな話だった気がする。
学生服の青年は、静かに暗い水へ視線を送った。
「海はいろんなものを飲み込んでいます。沈んだ船、そこに乗っていた人や貨物。その中には、付喪神だったモノが混じっていることもあります」
彼女は、その海に沈んでしまった付喪神なのだと、青年は告げる。
「付喪神は人のそばにいたがります。大抵のものは、人に使ってもらうことを前提に作られていますから」
あぁ、だから彼女はあんなにも寂しそうだったのか。
「海に沈んで、身動きが取れない。だからそういうモノたちは、しばしば人のほうを呼ぶ」
そして俺が捕まってしまった、と。
「彼女を救う方法はないのか? 海から拾い出せばいいんだろ」
「難しいですね。彼女の足元に、本体があるとは限りません。この広い海から、彼女を見つけ出すのはほとんど不可能でしょうね」
青年は辛そうに言ってから、俺の目を見つめてきた。
とても真剣なまなざしで。
「飲み込まれたくないのなら、ここにはもう来ないほうがいいですよ」
帰れなくなるから、と。
「僕は用事があって、たまたまこちらに来ただけなんです。明日以降は止められませんよ」
忠告しながら、軽く微笑む。
「どうするかは、あなた次第ですけど」
そう言い残して、青年は去っていった。
「……」
事情はわかった。彼女の正体も。
なぜこんなにも、彼女のことが気になってしまうのかも。
俺にはわかる。
息苦しいところにいなければならない苦しさが。
かつて親しい人と、温かいところにいたのなら、なおのこと苦しみは増す。
そのことを俺は嫌というほど知っている。知ってしまっている。
こんな俺だからこそ、彼女は呼びかけたのではないのか。
「――――」
そう、彼女はとても寂しそうな顔をしていた。
***
後日、僕が伝え聞いた話によると――
あの男性は、数日後に行方不明になったそうだ。
「あなたは一緒にいるほうを選んだんですね」
付喪神に関わる者として、僕はその選択を否定しない。
ひとりでいるのは辛いだろう。けれど、ふたりならあるいは――




