月がきれいな夜に
――月が綺麗ですね。
この言葉に、思いもしないような別の意味が付随する。
だから人間は面白い。
予想外の発想をする。
加えて、我のことを特別視する。
強い想いを、常に感じている。
それはとても気分がいい。心地いい。
我は人間にとって、特別なのだろう。
だが、それはこちらも同じだ。
我にとっても、人間は特別。
こんなにも面白い生き物は、他にいない。
彼らの営みを眺めることだけが、我の娯楽なのだから。
***
日がとっくに暮れてから、洗濯物を取り込んでいないことに気づいた。
庭に出て、急いで取り込んでいく。
すべてをかごに入れて、とりあえず縁側に運んだ。
「――」
ひと息入れたところで、ふと夜にしては明るいことが不思議に思われた。
空を見上げてみる。
「あぁ、これはなかなか……」
見事なまでの満月だった。
普段より、一回りも二回りも大きく感じる。
それくらい強い光で照らしている。
「そういえば、中秋の名月か」
月見の季節だ。
これから月見団子を用意するのも、いいかもしれない。
そんなことを考えていると、
「……ん?」
月に違和感を覚えた。
黒い点のようなものが見える。
その点は、徐々に大きくなっていた。
そして、それが人の形をしていると気づくのに、時間はかからなかった。
「――?」
月から人が降ってくる。
狙いすましたように、こちらに向かって。
そして、庭の中央に落ちてきた。
はるか上空から落ちてきたソレだが、大参事とはならない。
地面に落下する直前、
ふわり、と一瞬だけ体が浮かぶ。
それから地面に投げ出された。
「ぐえっ!」
奇妙な声をもらしたのは、女性だった。
年のころは、僕よりいくつか年上といったところか。
金色の光り輝く着物をきた、肌の白い女性。
透き通るような白い髪はとても長く、歩けば引きずってしまいそうなほどだ。
その女性が、苦しそうに上体を起こす。
「イタタタ……我としたことが、足を滑らせるとは」
失敗失敗、と照れたように頭をかく女性と、ふと目が合う。
途端、女性の表情が一気に明るくなった。
「おぉ、お主のことは知っておるぞ! たまに上から見ておったからな。付喪神の相談を受けておるのだろう? なかなかいい所に落ちてきたではないか。うむうむ、我の運も尽きたわけではないようだ」
一人で勝手に納得されても困る。
「えっと……あなたは?」
とりあえず人間でないことはわかる。
けれども、その正体まではつかめず、問いかけた。
「我か? よくぞ聞いてくれた!」
女性はにんまりと笑うと、ふわりと浮かび上がった。
僕の目線より少しだけ高い位置に浮遊すると、空を指さす。
光り輝く満月を。
「我は月じゃ!」
なるほど、月の付喪神らしい。
まったく理解できない。
意図せず、頭を抱えてしまう。
「なんで、月の付喪神がこんなところにいるんですか?」
「うむ、それだ! 日本では、今まさに月見の季節であろう? それはすなわち、こちらからも地球が見やすいということ!」
まぁ、それはそうだろう。
こちらから見えれば、あちらからも見えている。
あたり前のことだ。
「我の趣味は人間を眺めることでな。今夜も、この辺りを眺めていたのだが……身を乗り出しすぎたようだ。うっかりと落ちてしまった」
「…………」
どこからツッコめばいいのか、わからない。
まず月から地球を見る時に、身を乗り出すものなのか?
それに、月から落ちるということも、物理法則を無視しているような気がする。
とはいえ、相手は付喪神だ。人間の常識が通用するとは思えない。
困惑する僕のことなど気にする様子もなく、女性は月をさしていた指を僕に向ける。
「お主、付喪神からの相談を受けておるのだろう? ならば我からの相談だ。月へ帰るのを手伝え」
また無茶なことを……。
「あなたは月の付喪神でしょう? 戻ろうと思えば、いつでも本体の所へ帰れるのでは?」
「うむ、そのはずなのだが……ここでは、ちと距離がありすぎる。無理に戻ろうとすれば、たどり着く前に我の意識がかき消えることになろう」
「そんなことがわかるんですか?」
ずいぶん器用な付喪神だ。
素直に感心していると、女性は誇らしそうに胸を張った。
「これでも星のひとつ。それなりに万能だ。大抵のことは感覚でわかるとも」
「万能なら、その力で戻ったらいいのでは?」
「うむ……本体である月に触れられたならば、十全に力を振るえる。そうなれば、月に戻ることも容易なのだが……」
月に戻るためには、月に触れる必要がある、と?
「まるでトンチですね」
「ほう、知恵比べか? 興味があるな」
「いえ、そういうつもりで言ったわけでは……」
とはいえ、トンチか。
なら、手がないでもなかった。
「わかりました。あなたの相談をお受けしましょう」
「おぉ、そうか! では任せたぞ!」
満足そうにうなずいた女性を残して、僕は物置となっている蔵へ向かった。
中に収められているモノは多くとも、小さな蔵だ。目的のものは、すぐに見つかった。
朱塗りの大きな盃と、日本酒を持って庭に戻る。
「む? 酒宴でも始めるのか?」
「僕はまだ飲めませんよ」
適当な台を持ってきて、その上に盃を置く。そして、なみなみと酒を注いでいった。
盃を満たした酒が、ゆらゆらと揺れる。
しかしそれも数秒で、しんと静まった。
「さぁ、月を用意しましたよ」
「は? 何を言うておる?」
いぶかしむ女性に、僕は微笑みを返した。
「ほら、見てください」
盃を指し示す。
厳密には、酒の表面を。
そこに、光り輝く円形が写っていた。
「月に触れれば、月に帰れるんですよね?」
僕の言葉に意外そうにしていた女性は、しかしすぐに笑みを浮かべた。月のように美しい笑みを。
「ふむ、お見事」
彼女は満足そうに手を伸ばす。
酒に反射した月に、指先が触れる。
ふわり、と女性の着物がはためいた。まるで、活力を取り戻したように。
「気が向いたら、また来よう。その時までに宴の用意をしておけ」
一方的に告げると、女性の姿はかき消えてしまった。
最初から何もなかったかのように。
まったく、人騒がせなお月さまだ……。
ついさっきまで月見でもしようかと考えていたが、そんな気も失せてしまった。
どうしたものかと空を見上げる。
満月は変わらず、光り輝いていた。
迷惑はかけられたものの、それでもやはり月はきれいだ。




