辺境都市ポトロック 出会い
西暦二千百四十二年。アングロ・アメリカ大陸の西端に位置するセント・アンドレア断層がふたつに裂け、地底から円錐状の突起物が現れた。それは瞬く間に海抜二千メートルの独立峰に姿を変えると、火口のように窪んだ山頂の底から、おびただしい数の未知の生物が姿を現した。
アントローチと命名されたその生物は、複数の隊列を編成して、砂漠と乾燥地帯が広がるアングロ・アメリカ大陸への侵攻を開始した。その攻勢は凄まじく、大陸内に点在する辺境都市は次から次へと廃墟と化した。
アントローチによる侵攻が始まってから一年が経過した。
・・・・・・・・・・・・
アントローチ侵攻部隊による突然の襲撃が始まったのは、太陽が西の地平線の下に沈み、昼間に摂氏五十度を超えた気温がようやく下がり始めた午後七時過ぎだった。
サトム・アンタ・スバルは、襲撃警報のサイレンがけたたましく鳴り響くと同時に安宿のベッドから飛び起きると、枕元に置いてあった小さなリュックサックを掴んで部屋から走り出た。
ポトロックの街から五百キロメートル離れた隣の辺境都市ケルベンに向かう長距離バスは、日中の強烈な日差しと殺人的な高温を避けて、午後九時に出発する。夕食を軽く腹に入れてからバスターミナルに向かおうとサトムが考えていた矢先の襲撃だった。アントローチの襲撃となれば、長距離バスの運行など、もはや望めない。
砂岩のブロックが敷き詰められた目抜き通りは、手荷物を抱えて逃げ惑う人々で溢れかえっていた。男たちの怒号と女たちの悲鳴と子供の泣き声が、バタバタという慌ただしい無数の足音に混じり、一帯は耳を聾するほどの喧騒に包まれている。
「南へ進め、ポトマルコ大聖堂に逃げ込むんだ! 急げ!」
十名ほどの警察治安隊の隊員が、狂ったように両手を振りながら、群衆を誘導している。警察治安隊の隊員が手にしているのは、三十年前に終結した第四次世界大戦で使用された自動小銃で、銃身には錆が浮き、銃把や銃床部分のゴムは劣化してボロボロになっている。まともに銃弾を発射できるのか疑わしい代物だが、それでもないよりはましだ。
サトムは人々の流れからひとり離れると、細い路地をポトマルコ大聖堂とは反対の方角に向かって走った。サトムが手にしているのは、年代物というより骨董品といったほうがしっくりとくる拳銃で、四十五口径のコルトガバメント。但し、マガジンの中の銃弾は四発しかない。しかも、四十五口径の銃弾ではアントローチの鉄板のような外骨格を貫くことはできないから、持っているのは気休めのようなものだ。
サトムが向かっているのは、旧アメリカ合衆国の公共施設だった歴史博物館で、閉鎖されてから十年以上経過している。警察治安隊員が手にしている自動小銃も、もとはと言えばこの歴史博物館に保管されていたものだ。
歴史博物館は旧アメリカ合衆国の博物館だけあって、地上三階・地下二階の建物は堅牢な鉄筋コンクリート造で、更に、収蔵品を保管する巨大な金庫室も備え付けられている。ポトロックの街でアントローチの攻撃に耐えられる建物は、ここしかないとサトムは考えたのだ。
歴史博物館とその前庭を取り囲むように設けられているブロック塀は、長年の放置により無残にも所々、いや、至る所が崩れていて、塀の用をなしていない。
サトムは崩れたブロック塀を乗り越えると、その昔は青々とした芝生が植えられていたであろう前庭・・・いまはカラカラに乾いてカチカチに固まった赤土の広場を抜けて、博物館の脇にある従業員用出入口のドアを開けた。このドアは、昨晩、サトムが歴史博物館に忍び込んで、ある任務のために必要な収蔵物を持ち出した際に、開錠したままにしてあったものだ。
建物の中に入ったサトムは、リュックサックから懐中電灯を取り出すと、はかない明かりを頼りに、狭い廊下を進んだ。アントローチの攻撃が収まるまで、地下一階の収蔵品保管用金庫室に身を潜めるつもりだ。与えられた任務を完遂するまで、死ぬわけにはいかないのだ。
十人乗りの小型囚人護送車が、ポトロックの街でアントローチの攻撃に遭遇したのは不運だった。本来ならケルベンに向かって旧国道を真っ直ぐ進む予定だったはずが、エンジントラブルのためにやむを得ず迂回してポトロックに入り、攻撃に遭遇したのだ。
囚人護送車は、人で溢れかえった目抜き通りとマルコ通りを避けて、街を北に抜ける脇道を走っていた。
「ロメル、次の交差点を右だ」
「了解。何とかアントローチのやつらに見つからずに、逃げきれそうだな」
運転手のロメルがハンドルを右に切りながら呟いた途端、その声が聞こえたかのように、囚人護送車の目の前に一体のアントローチが姿を現した。
直立二足歩行をするアントローチの体高は三メートル。逆三角形をした頭部には、左右に大きな複眼があり、額から二本の触角が伸びていて、縦に割れて左右に開く大きな口には無数の鋭い牙がやすりのように生えている。のっぺりとした顔の中央に嗅覚器の役割を果たす三つの穴があいていて、鼻梁はない。胴体は、大きく分厚い胸部、大きく後ろに突き出した腹部、胸部と腹部を繋ぐ比較的細い接合部で構成されている。細くて長い手足には鋭い棘が生えている。両わきの下に申し訳程度に生えているのは退化した第二腕で、この第二腕はほとんど動かすことができない。身体中が硬質の外骨格で覆われていて、黒褐色の体色は陽光を反射すると七色に変化する。
アントローチが単なる地底生物ではないことは、軍隊としての規律を持って、集団的かつ統制的かつ計画的に侵略行為を進めていることで分かる。また、特殊な金属を加工した棍棒や伸縮する槍などの武器を携行していて、更に、胸部と腹部の間の接合部に巻かれた金属のベルトの左右に付いている四角い箱から発射されるこぶし大の火球は、人類にとって未知のエネルギー弾であることから、極めて高度な文明を持っていることが推察される。その獰猛な外形にかかわらず、地底生物というより地底人と呼ぶべき存在なのである。
ロメルがアッと思ったときには、アントローチの接合部に巻かれたベルトの右側の火球発射装置から発射された一発の火球が、囚人護送車の運転席を吹き飛ばしていた。轟音と共に紅蓮の炎を噴き上げた囚人護送車は、衝撃でバランスを崩して横転すると、クルクルと回転してから路上で止まった。
囚人護送車の後部乗員室では、ふたりの護送官と三人の囚人がシェイカーの中の氷のように前後左右に振り回され、折り重なるようにして呻いている。
囚人服を着たゴリラのような黒人の大男が身体を起こすと、目の前に横たわっている若い護送官のベルトからぶら下がっている鍵の束に手を伸ばした。
「おい、動くな。大人しくしていろ」
もうひとりの年配の護送官が、擦り切れたように角の丸まった年代物のS&W三十八口径の銃口を黒人の大男に向けた。
「おいおい、そんなこと言ったって、ここに居ちゃあアントローチに殺されちまうぜ。早く鍵を外してくれよ。まさかお前、自分だけ逃げるつもりじゃないだろうな」
「うるさい、静かにしろ。これからどうするか、いま考えているところだ」
「悠長に考えている場合じゃないんだよ! スミス!」
黒人の大男の声に呼応するように、スミスと呼ばれた白人の男が年配の護送官に背後から襲い掛かった。それと同時に、黒人の大男が年配の護送官の上に圧し掛かる。
パンという銃声が響いて、黒人の大男がズルズルと崩れ落ちた。黒人の大男の腹から血が噴き出している。
「やりやがったな、コノヤロウ」
スミスが年配の護送官の首を締め上げた。年配の護送官が苦し気に両手を振り回す。
パンパンと二回銃声が響いて、後部乗員室の天井と後部ドアに穴が空いた。
それまで後部乗員室の隅で身体を縮めていた囚人服を着た若い女が、猫のようにしなやかに身を翻して若い護送官に近づくと、ベルトの鍵の束を取り上げ、まるで手品のように手錠を外した。そして、スミスと年配の護送官がもみ合っているのを横目に、後部ドアの鍵を開けると、転がるように囚人護送車から飛び出した。
ドオオンという轟音と共に、二発目の火球の直撃を受けた囚人護送車が火柱を上げた。
爆風に半ば吹き飛ばされながら路上を転がった女は、すぐに立ち上がると、アントローチに背中を向けて脱兎のごとく走り出した。
逃げた女に気付いたアントローチが、肩から下げている短槍に手を伸ばした。肩から下げていたときは八十センチメートルに縮められていた短槍が、一瞬で二・五メートルに伸びて長槍に変化した。
アントローチは長槍を振り上げて女の後を追った。
交差点に走り込んだ女の目の前で、左手から走ってきた大型トレーラーが砂塵を巻き上げながら急停車した。アングロ・アメリカ大陸では珍しい右ハンドルだ。ディーゼルターボエンジンのガラガラというアイドリング音が周囲に響く。
トレーラーヘッドの運転席のドアが開いた。五十代半ばの胡麻塩頭の男が、顔を突き出して怒鳴った。
「お嬢ちゃん、乗りな!」
胡麻塩頭は女の囚人服の襟首を掴むと、有無を言わさず運転席に引っ張り上げた。ドアを閉める間もなく、男がアクセルを踏み込むと、大型トレーラーは真っ黒い排煙を吐き出しながら走り出した。
「怪我はないかね」
胡麻塩頭がチラリと横目で女を見た。埃だらけの女が大丈夫だと頷く。胡麻塩頭がバックミラーに目をやって、顔色を変えた。
「こりゃいかん、お嬢ちゃん、シートベルトだ」
胡麻塩頭はそう言うなり、ハンドルを右に大きく切った。トレーラーヘッドが機敏に方向を変え、それに牽引されるトレーラーが連結部で折れ曲がり、『くの字』を描きながら方向を変える。
背後から飛来した火球が、ビリリという空気を切り裂く音を伴って、トレーラーの車体を掠めて前方に飛び去った。
「次がくるぞ! 何かに掴まれ!」
胡麻塩頭はバックミラーに目をやって、ハンドルを切る間合いを図っている。
・・・どうやら、あの火球は連射できないようだな。エネルギーを充填する必要があるのかもしれんな・・・
そう思った途端、次の火球が発射された。咄嗟にハンドルを左に切ったが、ひと呼吸遅れた。かわし切れなかったトレーラーの後方に火球が直撃し、トレーラーの後ろ半分が吹き飛んだ。爆発の衝撃でトレーラーヘッドの右側の全てのタイヤが宙に浮き、車体が大きく左に傾いた。制御を失った大型トレーラーは左に大きく曲がりながら、目の前のブロック塀をなぎ倒し、歴史博物館の正面玄関に頭から突っ込んだ。
一階と二階が吹き抜けになっている歴史博物館のエントランスホールに、トレーラーヘッドをめり込ませるようにして大型トレーラーは止まった。トレーラーヘッドのフロントガラスは粉々に砕けて、トレーラーヘッドの前面や天井部分は無残に潰れている。正面玄関の外に突き出ている後方のトレーラー部分は激しく炎と黒煙を上げている。積荷の古着類や日用雑貨や食料品が燃えているのだ。
激しい炎と黒煙を見て、大型トレーラーが大破したと判断したのだろう、追撃していたアントローチは興味を失ったように離れていった。あるいは、群衆が逃げ込んだポトマルコ大聖堂を攻撃するための集合命令が出たのかも知れない。
トレーラーヘッドの運転席でハンドルに突っ伏していた胡麻塩頭が、ゆっくりと顔を上げた。正面玄関に突っ込んだ際の衝撃で、ハンドルにぶつけたのだろう、狭い額に血が滲んでいる。横を見ると、助手席で女が頭を抱えているが、見る限り怪我はなさそうだ。ピクリとも動かないところを見ると、意識を失っているのだろう。
「ふう、危ないところだった。どうやら助かったみたいだ・・・」
ヤレヤレと首を振ったところで、運転席のドアが開いた。乗降用のステップに乗って顔を覗かせたのはサトムだ。
「大丈夫ですか? 怪我は?・・・ない、よかった。動けますか? とにかく安全な場所に避難しましょう」
「儂は大丈夫だが、このお嬢ちゃんが気を失っているんだよ。手を貸してくれ」
サトムと胡麻塩頭は、助手席から女を抱え上げると、地下一階の収蔵品保管用金庫室に運び込んだ。
二十世紀初頭に流行したアールヌーボー調の見事な曲線を備えた豪華なソファーの上に女は寝かされていた。まだ意識は戻らないのか目を瞑ったままだ。その横で胡麻塩頭は西部開拓時代を彷彿とさせるロッキングチェアに身を沈め、サトムはどこに腰掛けるのかも分からない奇怪なオブジェのような椅子に尻を置いている。サトムと胡麻塩頭の間には、巨大な大理石の一枚岩で造られた重厚なテーブルが置かれている。古代ローマの遺跡から発掘されたものかも知れない。いずれも博物館の収蔵品だ。
サトムが「さて」と話を切り出した。
「先ずは自己紹介をしましょう。私はサトム・アンタ・スバル。歳は三十五歳、独身です。元は統一国家の軍事部参謀室に勤務していた軍人なのですが、ご承知のとおり、軍備放棄・軍事部解体運動の際に首を切られましてね。南極大陸で食い詰めた挙句、一旗揚げようとアングロ・アメリカ大陸に渡ってきたのです。いまのところは・・・金で働く何でも屋といったところでしょうか、ハハハ・・・」
サトムの笑い声がむなしく響いた。ミドルネームの『アンタ』とは、アンタークティカ、すなわち南極大陸生まれの意味である。サトムは元軍人らしからぬほっそりとした体形で、細面の顔に特徴的な高い鼻梁と尖った顎。こけた頬が肺病病みのような印象を与える。
「儂の名はシゲ・ユーラ・フジヤマ。歳は五十五、いや、五十六になったか。ユーラっちゅうからユーラシア大陸生まれと思うかもしれんが、なに、ユーラシア大陸の東のはずれもはずれ、いまはほとんど海中に没して見る影もない島国日本の生まれだ。第四次世界大戦でかみさんと息子を失くして、自暴自棄とでも言うんかなぁ・・・気がついたらアングロ・アメリカ大陸に流れついとった。仕事は、見てのとおりの運転手だよ。この上でへたばっているのが相棒のジロー。もう十年も一緒に働いているトレーラーヘッドの名前だ。儂の息子がタローだったから、あいつは弟のジロー、何の捻りもない名前だろ。まあ、ひとつよろしく」
シゲは自己紹介を終えると、胡麻塩頭をぺこりと下げた。シゲは寸詰まりのガッチリとした体形で、弁当箱のような四角い顔に金壺眼と団子鼻と大きな口。その下にトラックのバンパーのように頑丈そうな顎が付いている。
サトムは、シゲの隣のソファーで横になっている女にチラリと目をやった。女が着ている上下つなぎの服は、どう見ても囚人服だ。運転手と囚人という不思議な組合せの意味がよく分からない。
サトムの視線に気付いたシゲが、慌てて手を横に振った。
「このお嬢ちゃんのことは、儂は何も知らんのよ。ついさっき、アントローチに追われているところを助けて、トレーラーに乗せただけなんだ。そういやあ、囚人服を着ているなぁ・・・まだ若いのに、どうしたんかな。ああ、囚人服の胸に名前の縫い取りがある。名前は・・・ユーリ・アーク・キリル。見たところ歳は二十代半ばといったところか。アークっちゅうことは、北極圏地方生まれか。なるほど透き通るような白い肌をしとる。こりゃ、べっぴんさんだ」
ユーリはほっそりとした体形だが、囚人服の下には鞭のようにしなやかな筋肉が隠されている。肩まである見事な銀髪、うりざね顔に驚くほど大きな目、すっきりとした鼻筋と花びらのような唇は少女のようだ。
目を覚ます気配のないユーリをそのままにして、サトムとシゲは再び向き合った。
「これから、どうしたもんかいなぁ・・・。しばらくはここに隠れていた方がいいんだろうが、いつまでもというわけにもいかんだろうし。この街から逃げる方法を考えなきゃいかんな」
シゲは腕を組むと、バンパーのような顎を指で擦った。無精ひげがゾリゾリと音を立てる。
「トレーラー・・・ジローは動かないのですか」
シゲは金壺眼を上げてサトムを見ると、顔を曇らせた。
「ジローが牽引しているトレーラー部分は完全にオシャカだな。まずは、ジローとトレーラー部分を切り放さなきゃいかん。これは、トレーラー部分の火が消えれば何とかなるだろう。問題はジローだが・・・前輪二本、後輪三本がパンクしとる。エンジンは動きそうだが、衝突の衝撃で前輪を支えるナックルアームかステアリングナックルが曲がっとる可能性がある。そうなると方向転換ができんから、動かすことができん。そこは確認しなければ分からんがね」
サトムはムウウと唸った。
「隣の辺境都市ケルベンまでは北に五百キロ、途中は灼熱の乾燥地帯だ。とてもじゃないが歩きではたどり着けない。何とかして乗り物を調達したいが・・・」
「何だ、サトムはケルベンに向かっているのか。仕事かい? ケルベンの街がアントローチ侵攻部隊に襲われてなきゃいいがな。連中は辺境都市を手当たり次第に襲撃しているから、いってみたら廃墟だったなんてこともあり得るぞ。何しろ、電磁波制限のせいで都市間の無線通信が途絶しとるから、他の都市の状況はさっぱり分からんからな。ポトロックから逃げるなら、ここから東に三百五十キロのサラメストはどうだい。儂はそこからきたが、まだアントローチ侵攻部隊の姿はなかったぞ」
アントローチ侵攻部隊が襲撃する都市を見つける方法のひとつとして、都市の発する電磁波を感知していることが判明した。このため、アントローチの侵攻以後は、各都市とも通信機器による電磁波の発信を停止した。この結果、各都市間の情報交換は途絶し、他の都市の状況がリアルタイムに分からなくなったのである。
灼熱の乾燥地帯をはるばると越えて、やっとのことで到着した辺境都市が廃墟と化していれば、もはやそこで野垂れ死にするしかない。
「私の最終目的地はもっと西なのですが、とにかくここから先、西に進むには、まずケルベンに向かうしかないでしょう。それに、ケルベンはここより五百キロも内陸だ。乾燥も酷いし気温も高いから、アントローチ侵攻部隊の襲撃を免れている可能性が高いはずだ。逆に、サラメストはここを襲ったアントローチ侵攻部隊が、次に襲う可能性が高い」
サトムの説明を聞いて、シゲは腕を組んだまま天井を仰いだ。
「うーん、やつらは乾燥と高温に弱いらしいからなあ・・・とにかく、逃げるならケルベンってことか。なるほどね・・・。それにしても、ケルベンよりも更に西に向かうとは、正気の沙汰じゃない。どんな仕事か知らんが、命は金に換えられんぞ」
シゲが金壺眼でギロリとサトムを睨んだ。
「分かっていますが、仕方がないのです。引き受けてしまったのですから」
サトムの口調はあっけらかんとしている。命の危険は承知の上なのだ。
サトムの腹の括りようを見て、シゲはホウと感心した。見かけによらず胆は太いようだ。
サトムは話を切り上げるように言った。
「とにかく、ここに座っていても仕方がない。アントローチ侵攻部隊が街のインフラ施設を破壊して、電力と水の供給がストップすれば、この気温だと、冷房がなければ三日も経たずに干上がってしまう。そうなる前にポトロックから脱出しなければならない。シゲさんはジローのエンジンの状況を確認してください。私は、何か使えるものがないか、建物の中を調べてみますよ」
サトムとシゲが姿を消すと、ソファーの上に横になっていたユーリが、ムクリと上体を起こした。しばらく前から意識を取り戻していたユーリは、周りの状況をそれとなく観察しながら、サトムとシゲの話に耳を傾けていた。
北極圏地方生まれのユーリは、物心ついたころから父親のウラルに連れられて、北極海周辺の港町を転々として暮らした。今年で二十四歳になる。母親の顔は知らない。ウラルの仕事は盗賊で、ユーリはウラルの仕事を手伝っているうちに腕を上げ、いつしか盗賊たちの間で名の知られた存在になった。一年前に、統一国家の北極圏地方開発公社の金庫を狙って失敗した。ウラルは射殺され、ユーリは指名手配された。ユーリはアングロ・アメリカ大陸まで逃げたが、結局逮捕されて、重労働五年の刑という判決を受けた。幸か不幸か、コバルニウム採掘鉱山へ護送される途中で、囚人護送車がアントローチに襲われたのだ。
ユーリは、いまのうちにここから逃げようと思っていた。話を聞いた限りでは、サトムとシゲは警察治安部隊とは関係がなさそうだが、一緒に行動していては警察治安部隊に捕まる恐れがある。アントローチに殺されるはごめんだが、地獄のようなコバルニウム採掘鉱山で五年間も重労働に就くのもまっぴらだ。
・・・とにかく、着替えなきゃ。囚人服でウロウロすれば捕まえてくれと言っているようなもんだわ・・・
ユーリは周囲を見回した。博物館の収蔵品の中に、女性の洋服を着たマネキン人形が何体か立っている。クレオパトラ・・・却下。ミロのビーナス・・・上半身裸じゃねぇ。モナリザ・・・地味だわ。マリーアントワネット・・・あんな派手なドレスじゃ目立ちすぎる。旧アメリカ先住民ナヴァピホ族のシャーマン・・・何だか不気味ね。日本の芸者ガール・・・とても無理。うん? あれは・・・マリア・エアハート、女性初の太平洋横断を成し遂げた伝説の女性飛行士・・・カッコいいじゃない。
ユーリは囚人服を脱ぐと、マネキンに着せられている飛行服と飛行ズボンを身に着け、編上げブーツを履くと、飛行帽を被ってゴーグルを首に掛けた。チラリと姿見に目をやる。
・・・うん、きまってる・・・
ユーリは満足そうに頷くと、足早に収蔵品保管用金庫室を後にした。
サトムは地下二階にある、『整備工区』と書かれたプレートが貼り付けてある金属製の重たいドアを開けた。ドアの重さに比例するように、サトムの気持ちも落ち込んでいる。
博物館の三階から地下一階まで、脱出の役に立ちそうなものを物色してきたが、めぼしいものは何もなかった。銃火器類は既に警察治安隊が全て持ち出していて、武器になりそうなものといえば、ネアンデルタール人の洞窟で発見された石斧か西部開拓史コーナーにあったナヴァピホ族の大酋長ヤヌエリトの槍と弓矢ぐらいしか残っていない。とてもアントローチに対抗できるとは思えない。
電源スイッチを入れると、床も壁も天井もコンクリートが打ちっぱなしの、地下駐車場のような整備工区が浮かび上がった。ポトロックの街はずれにある太陽光発電施設はまだ破壊されていないらしい。灯りが点くと同時に、ブウウンという換気装置が作動する音と、カタカタという空調設備の音が響いた。埃とカビと油の臭いの混じった空気がゆっくりとかき回されている。
五百平方メートルほどの整備工区には、自動車整備工場のように様々な機械が足の踏み場もないほど並び、油圧ジャッキやクレーンなどの大型設備も備わっていた。その先の保管場には、整備中に放棄されたクラッシックカーのほか、第二次・第三次世界大戦で活躍した装甲車や戦車などの戦闘車両も並んでいた。しかし、いずれも車輪がなかったり、エンジンルームが空だったり、キャタピラーが外れていたりと、とても動かすことができそうにない代物ばかりだった。歴史博物館とは名ばかりで、体の好いスックラップ置き場のようだ。
「こりゃだめだ」
溜息を吐いたサトムの目が、整備工区の一番奥に置かれている、防水シートに覆われた小山のような物体に吸い寄せられた。近づいてみると、防水シートには何かの注意書きを貼り付けてあったであろう跡がデカデカと残っているが、肝心の注意書きはどこにも見当たらない。長年放置されていたのは明らかで、防水シートの上には薄っすらと、いや、万年雪のように砂埃が降り積もっている。
防水シートをめくる気も失せたサトムが背中を向けようとしたとき、防水シートの縁に印刷された掠れた文字が目に留まった。
『アメリカ合衆国 特殊先端技術研究所 ロボット工学室』
・・・ロボット工学? 何だろう・・・
サトムの好奇心がムクリと頭をもたげた。サトムが統一国家の軍事部参謀室に勤務していたとき、サトムは第四次世界大戦で使用された搭乗式人型ロボット兵器RRB‐Tシリーズ(製造年によって、08、09、10のバージョンがある)の運用戦術の検討評価を担当していた。当然に、RRB‐Tの基本構造もスペックも熟知している。
アメリカ合衆国特殊先端技術研究所といえば、いまから五十年以上前の西暦二千九十年代に、搭乗式人型ロボットの先駆的開発を手掛けていた組織だ。そこで開発された搭乗式人型ロボットの軍事転用版がRRB‐Tシリーズに繋がっている。
サトムはズボンのポケットから小さな飛び出しナイフを取り出すと、防水シートを縛っているロープを切り、防水シートをまくり上げた。
・・・戦車か? いや、砲身がない。装甲車だろうか・・・いや、まさかこれは・・・
戦車のような車体にキャタピラー。車体の上部に砲台も砲身もなく、代わりにロボットの上半身が腹部を下にして折り畳まれたような形状で載っていて、背中に当たる部分には卵をふたつに切り割ったような突起がある。ロボットの頭部は車体の前方に組み込まれるようにして収納されている。長年放置されていたにもかかわらず、濃紺の車体には錆びひとつなく、光を受けた部分が七色に輝いている。特殊な金属で造られているようだ。
サトムは車体を撫でながら、思わず驚きの声を漏らした。
「これは、搭乗式人型ロボット・・・深海資源探査用の搭乗式人型ロボットか。・・・しかも、量産型じゃない、プロトタイプだ・・・刻印がある・・・SRB‐P00(ゼロゼロ)、間違いない」
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西暦二千六十年代から地球温暖化が劇的に進行して、四大大陸の急速な乾燥・砂漠化により耕作地は瞬く間に失われた。それと共に、極地の氷が融けて海水面が上昇し、多くの都市や国家が海中に没した。食料不足と世界恐慌が世界各地での紛争を誘発し、西暦二千九十四年に、世界は食料争奪戦ともいえる第三次世界大戦に突入した。
第三次世界大戦の最中の西暦二千九十六年。ユーラシア大陸の一部地域で発生したネオペストは、瞬く間に世界中に広がりパンデミックを引き起こした。一説では生物兵器が使用されたのではないかと言われているが、真相は闇の中だ。ネオペストは猖獗を極め、たった二年の間に、全世界の人口の四分の三が失われた。ネオペストが終息したとき、世界人口は二十億人にまで減少していた。西暦二千九十八年に第三次世界大戦が終結したのは、人口減少により戦争継続が困難となったことによる、事実上の自然停戦である。
四大大陸は、そのほとんどが砂漠化してしまい、西暦二千百年代に入ると人々は温暖で湿潤な南極大陸(一部は北極圏地方)へと移動を始めた。南極大陸に各国のコロニーが乱立し、領土問題・宗教問題・食料問題が深刻化した結果、西暦二千百十年に第四次世界大戦が勃発した。
二年間続いた第四次世界大戦は西暦二千百十二年に終結し、南極大陸に世界規模の統一国家が成立した。ここに人類史上初めての世界国家が誕生し、国家間・民族間の争いのない世界が実現したが、そのときには世界人口は四千万人にまで減少していた。
南極大陸と北極圏地方に設けられた主要都市及び四大大陸に点在する辺境都市で、何とか安定した生活を送り始めた人類を嘲笑うかのように、西暦二千百四十二年に地底からアントローチが現れ、人類を駆逐すべく侵攻を開始した。
統一国家は、軍備放棄・軍事部解体運動によっていったん解体した軍事部を、アントローチ対策のために急きょ復活させて統一国家軍を創設した。しかし、倉庫に眠っていた旧式の搭乗式型ロボット兵器RRB‐Tや戦車・装甲車などではアントローチの軍勢に太刀打ちすることができず、アングロ・アメリカ大陸に点在している辺境都市の大部分がアントローチによって破壊制圧された。
現在、アントローチの軍勢は最終目的地である南極大陸に侵攻するため、ラテン・アメリカ大陸の南端に向かって主力部隊を集結させ始めていた。
これに対抗するため、統一国家も残された兵力を全てラテン・アメリカ大陸の南端に送り、人類の存亡を懸けた決戦を挑むこととしている。
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サトムとシゲは搭乗式人型ロボットSRB‐P00の背面にある搭乗ハッチから、内部を覗き込んでいた。
身体ひとつ分の狭い搭乗口から、ロボット上半身部分のふたつの座席と、その下の駆動部分にある座席が見えている。座席の周囲にはこまごまとした計器類や操作用装置が並んでいる。
SRB‐P00は深海資源探査用に開発されたもので、地上又は海底をキャタピラーで走行する『走行モード』と、人型ロボット形体で掘削・資源収集・諸作業を行う『汎用モード』に形体変化することができる。サトムとシゲの目の前にあるのは、走行モードのSRB‐P00の姿であり、これが基本形体でもある。
地上走行時の最高速度は時速七十キロ、水中(海底)走行時の最高速度は時速四十キロ。特殊耐圧構造で水深六千メートルの深海でも活動が可能。水中の稼働可能時間は、フルバッテリーで二十時間とされている。
地上における動力はディーゼルターボエンジン(直列六気筒・排気量一万二千七百七十七CC・四百五十馬力)で、水中ではバッテリーによるモーター駆動となる。これはディーゼルエンジン駆動による潜水艦と同じ方式である(水上航行はディーゼルエンジン、潜航中はモーター駆動)。
SRB‐P00の搭乗員は三名で、駆動運転士、分析調整士、操作操縦士の役割が割り振られている。駆動運転士は走行モード時の運転とエンジン類の調整、分析調整士はレーダー・ソナー・通信機器などの各種情報計器機器の管理と分析、操作操縦士は汎用モード時のロボット操作を担当する。機長は分析調整士となる。
シゲは腕を組んで頻りに顎を指で擦っている。金壺眼に浮かんでいる色は真剣そのものだ。
「シゲさん。どうです、動かせそうですか」
「操縦は手動トランスミッション(変速機)と旧式のクラッチ方式、方向転換は操縦席の左右のレバーか・・・まあ、何とかなるだろう。なあに、第四次世界大戦のときに、スクラップ同然の旧式戦車の操縦士をしとったんでね、操縦方法はそれと同じだ。それよりも、問題はエンジンと電気系統とバッテリーだな。何しろ五十年近く前のもんじゃろ、オーバーホールして整備をせんと動かんじゃろうな」
サトムはガクリと項垂れた。
「やはり無理ですか・・・」
力のない声を出したサトムを、シゲは金壺眼でギロリと睨んだ。
「何じゃい、気のない声を出して。まだエンジンを見とらんのだぞ。落ち込むのは早いわい。旧式戦車の操縦士のときも、アングロ・アメリカ大陸にきて大型トレーラーの運転手をやっとるときも、エンジンや車両の不具合はほとんど自分で直してきたんじゃ。そうでなきゃ、このご時世の運転手は務まらん。何しろ、修理工場やサービスステーション何ぞ、ほとんどないんじゃからな」
シゲは『どれどれ』と言いながら搭乗口から機内に潜り込むと、駆動運転士席に座った。
「ふむふむ、速度計、タコメーター、油圧計、これは・・・バッテリー残量計か、うん? ああ、操作マニュアルと整備マニュアル、設計図と諸元データ一覧表、こりゃあいいもんがあった」
シゲは数冊の冊子を両手に抱えて、嬉々として外に出てきた。
「よし、それじゃあ儂は、これからエンジンを調べてみる。・・・腹が減ったな、サトムはトレーラーにいって、燃え残りの荷物の中から食料品を探してくれ。缶詰ぐらいは残っとるじゃろう。そうだ、お嬢ちゃん・・・邪魔くさい、お嬢の容体も気になるな、一緒に頼む」
シゲはそう言うなり、設計図と整備マニュアルに目を通し始めた。目が輝いているのは、機械いじりが好きな証拠だ。見直したという顔でシゲを見ていたサトムは、分かったとばかりに片手を上げると、『整備工区』を後にした。
三十分後、大きな紙包みを抱えたサトムが『整備工区』に戻ってきた。紙包みの中には、大人の頭ほどもある保存用の乾燥パンと、表面が焦げて何が入っているのか判別がつかない缶詰が数個、それとボトルに入った飲料水が数本入っていた。紙包みの一番底には、ウイスキーの瓶が忍ばせてある。サトムは小さなテーブルの上に紙包みを置いた。
シゲはSRB‐P00のエンジンルームを開けて、ディーゼルターボエンジンと整備マニュアルを交互に見比べていた。よく見ると、既にいくつかの部品は取り外されていて、シートを敷いた床の上に整然と並べられている。
「シゲさん、戻りました。これ、食料と水。それと、あの女性・・・ユーリでしたっけ、姿を消していました。どうも、逃げたみたいですね。囚人服を着ていたから、ここにいれば捕まるとでも思ったのかも知れないな」
サトムが声を掛けると、シゲはオイルで真っ黒に汚れた両手をぼろ布で拭いながら、テーブルの前に歩いてきた。
「お嬢が逃げたって? 外にはアントローチがウヨウヨおるんじゃ、逃げる所なんぞなかろうに・・・。まあ、いなくなったのなら仕方がない。それよりも、サトム、喜べ、ロボットの方は何とかなりそうだ」
「本当ですか」
サトムの顔がパアッと明るくなった。ここのところ暗い話題ばかりが続いていて、朗報は久しぶりだ。
「ああ、このSRB‐Pプロトタイプのエンジンは、日本製、トヨサン自動車の大型トラック用ディーゼルエンジンが使われとる。おそらくアメリカと日本の共同開発だったんじゃろな。年代と型は違うが、ジローに積んであるディーゼルエンジンと同系列だ。寸法もほぼ同じ。こいつのエンジンを取り外して、ジローのエンジンを置き換えれば動くだろう。蓄電池もジローのバッテリーで何とか代用できそうだ」
「シゲさん、それじゃあ」
シゲは力強く頷いた。
「ザッと見積もって四時間、まあ朝までには何とかなるだろう。サトムも手伝ってくれ。それじゃあ、腹ごしらえをしてからとりかかるとするか」
シゲは保存用の乾燥パンの上に、傍にあった片手ハンマーを振り下ろした。カチカチに乾いた乾燥パンは石のようで、とても素手では割ることができない代物だ。片手ハンマーは『カン』という乾いた音を立てて跳ね返された。これぐらい硬ければ戦車の装甲板にでも使えそうだ。シゲがムウウと唸ると、腹の虫がグウと鳴いた。
歴史博物館から逃げ出したユーリは、乗り捨ててあった自転車でポトロックの街を東西に貫くマルタ通りを東に向かって走っていた。太陽光発電施設はまだ破壊されていないらしく、ポツリポツリと灯る街灯の明かりがマルタ通りを照らしている。自転車の前には買い物かご、後ろには大人が乗れそうなほど大きなリアチャイルドシートが取り付けてあるためスピードが出ない。ペダルを踏むたびにガチャリガチャリと何かが擦れるような音がするのは整備不良だ。飛行服にキリッと身を固めてママチャリを必死で漕ぐ姿を盗賊の知り合いにでも見られたら、ユーリは死にたくなるに違いない。
マルタ通りの東にはバスターミナルがある。バス、自動車、オートバイ、何ならロードバイクでもいい。とにかく、高速で移動できる乗り物がアントローチに破壊されずに残っていることに期待して、ユーリはバスターミナルに向かっていた。
住民の大部分が逃げ込んだポトマルコ大聖堂が集中的に攻撃を受けているからだろう、市街地の南半分は炎と黒煙に包まれていた。アントローチが発射する火球がさく裂する爆発音が、休みなく響いている。ポトマルコ大聖堂における殺戮と破壊が終われば、アントローチの部隊は、残った市民の殺戮と市街地の完全破壊のために、市街地の北半分の地域に侵攻してくるはずだ。それまでに、何とか移動手段を見つけてポトロックの街から脱出しなければならない。
「見えた、バスターミナルだ・・・やばい、待ち伏せだ!」
ユーリの口から思わず声が漏れた。
バスターミナルのロータリーを塞ぐように、一台の長距離バスが横転して炎を上げていた。サトムが乗車する予定だったケルベン行きの長距離バスだ。その先の駐車スペースには原形を留めないほど大破したトラックと小型軍用車両が、肩を寄せるようにして並んでいる。数台のオートバイも踏み潰されたようにひしゃげていて、とても動きそうにない。
ロータリーの中央の緑地帯・・・といっても、緑などどこにも見当たらないが・・・に、現代芸術の奇怪なオブジェのような姿をしたアントローチが立っていた。ユーリのように、街からの脱出手段を求めて現れる人を待ち構えているのだ。
アントローチのふたつの大きな複眼がヌタリと光った。ユーリの姿を認めたのだ。まるで笑ったかのように口が左右に割れて、やすりのような牙がバスの炎の光を受けて赤く光った。アントローチは大きく膝を曲げると、高々と跳躍した。そして、炎を上げる長距離バスを軽々と跳び越えると、ユーリに向かって走り出した。
何かを擦り合わせたようなキリキリという甲高い音がアントローチの口から洩れている。
ユーリはアントローチの姿を認めるや否や、Uターンをして、マルタ通りを西に向かって走り出した。振り向く余裕がない。ユーリの背後から、ドサリドサリと大きな歩幅で跳躍するように走るアントローチの足音が聞こえている。
ユーリは自転車のペダルを必死で踏みながら、アントローチの繰り出す槍あるいは振り下ろす棍棒が風を切る音を聞き逃すまいと耳を澄ませていた。まさか、自転車に対して火球は使うまいとユーリは考えていた。槍か棍棒なら、何とかかわせるかもしれない。
ガチャリガチャリというペダルの擦れる音に混じって、ヒョウと風を切る音が聞こえた。
・・・槍だ!・・・
ユーリは咄嗟にハンドルを右に切った。ユーリの左腕を掠めるようにして、背後から長槍が突き出された。ユーリは間髪を置かずハンドルを左に切る。背後から突き出された長槍は再び空を切った。
・・・あ!・・・
ユーリの身体が宙に浮き、世界が反転した。
大きく右左にハンドルを切った自転車は、バランスを失って縁石に乗り上げ、空中で一回転すると石畳の路面に叩きつけられた。ユーリは猫のような敏捷さで空中に跳び出すと、身体を丸めて受け身を取り、素早く立ち上がると脱兎のごとく走り出した。盗賊稼業で身につけた体術のおかげだ。
ユーリの背後から、ドオッという何かが倒れた音が響いた。
路面に叩きつけられた自転車に足を取られて、アントローチが転倒したのは偶然だった。ユーリはその偶然に助けられた。
ユーリが必死に走るその先には、歴史博物館の三階建ての建物がある。正面玄関に突っ込んだ大型トレーラーの火は消えて、微かに煙がくすぶっている。
立ち上がったアントローチのふたつの複眼が、歴史博物館に逃げ込むユーリの姿を捉えていた。アントローチは歴史博物館に向かってゆっくりと歩きだした。




