Scene 32 大嵐
「夏希!」
必死で夏希の名を呼んだ。壁に突き立てられた腕の下を抜けて走り寄れば、にやにやと笑って近づいてくる夏希に抱きとめられた。
「いつも冷静で優等生な紘らしくねーな。怖かっただろ、奈緒」
頭をなでられて、後頭部を抱きかかられるかのように肩口に押し付けられた。くすぐったかったけれど、それよりも気が抜けて目の前がじわっとぼやける。
夏希はあたたかくて、張りつめていた糸をなだめてくれる。水でいっぱいになってしまっていた内側にやさしい風を送りこんでくれる。
凪いでいく水辺。映るのは、彼の表情。わかったのはただひとつ。あのひとは、あたしのことを何とも思っていない。平然と何事もなかったかのように接してきて、謝るそぶりもなかった。
あたしは彼にとって利用できる人間だった。未羽にとって価値がある、ただそれだけの人間だった。そんな結果が苦しくて、こらえていたものがぼろぼろとあふれだす。
「あーあ、泣かない泣かない。っとに奈緒は泣き虫だな。よしよし」
「何で、おまえがここにいるんだ」
「俺が待たせてたのに、まさかお持ち帰りされると思わなかったよ」
からかうような声に体を預けて、彼を見ないようにした。漏れてしまいそうな嗚咽を抱きとめてくれた胸に押しつけてこらえた。
作戦通りのセリフを吐く夏希。もう、そんなことをいっても無駄なのに。あのひとはあたしのことなんて、どうでもいいと思っているのだから。
「どういうことだ」
「おまえさ、未羽のために無関係な女泣かせんなよ」
「答えになってない。また女遊びでもはじめたのか?」
「おーこわ。いやに攻撃的だな。俺は昨日の夜、ひとりで泣いている奈緒に偶然会ったんだよ。おまえに傷つけられた可愛そうなこいつに」
腕が腰に回って体を寄せられて、甘やかすように夏希はあたしの髪をなでる。おさまらないひきつけを飲み込んで、夏希の背中に腕を回した。
立っているのもやっとだった。あふれでた水はあたしを引きずりこんでしまおうとする。もういやだった。見えない何かに足を取られるのは。
いま、あたしをすくいあげてくれる腕はここにしかなかった。
「ずいぶんとまあ、いじめてくれたみたいだな。でも結果的に俺は奈緒に惹かれてるよ。おまえが言ってた計画どおりじゃねえか」
あたしの髪をひと筋つまんで、夏希は笑いながらくちづけた。
髪に、肩にと落とされていく熱。
そんな当てつけみたいなことをしても、何の効果もない。だって、あのひとはあたしのことなんて何とも思っていない。
猫を呼ぶように甘ったるい声であたしをなぐさめる夏希から、小さな笑いがもれる。その表情は見えなかったけれど、実に愉しそうだった。
「――奈緒」
背中から、空気をふるわせて、あのひとが名前を呼んだ。耳に入ってきたそれは水辺に大きく波紋を描いて、体の内側からあたしを揺らす。
呼ばないで。
また、勘違いしてしまいそうになるから。
絶望がこの胸に影を落としても、まだ花は咲いている。
摘みとるための用意だけが、まだできていない。
「夏希は信用しないほうがいい。子どもの頃から未羽だけを見ている男だから」
それは、自分のことでしょう。
すべては未羽のために。
そのためにあたしを、夏希をこんなにも追いつめているんでしょう。
「ふたりだけで話がしたい。明日の放課後、いつもの場所で待っているから」
「行かせねえよ。これ以上奈緒が泣くのは見たくないしな」
「奈緒」
夏希の言葉をさえぎって、彼はあたしの名前を呼ぶ。勝手に反応する体を押さえこむには、もう目の前のシャツにすがる以外、方法がなかった。
彼の声が聞こえるたび、この胸で咲き誇る花が空を目指して伸びていく。その音に呼応して、色をにじませて、あまいにおいをはなって。
いやでも思い知らされる。
まだこんなにも、彼がすきなのだと。
「待ってるよ。いつまでも」
どうして、そんなことばかりいうのだろう。
あたしにこれ以上どうしろというの。
首を振ることも、返事をすることもできなかった。子どものように夏希にしがみついて、彼の立ち去る足音に耳をすませていた。




