第74話 かすり傷
「なぁ、熊八。本当にジュード一人だけで行かせても良かったのか? いくら自信があるとはいえ相手は海賊だぞ。どんな手を使ってくるかわかったもんじゃないし、数だって俺たちの倍以上はいたんだ……」
今しがた俺たちの乗る船から一人で敵船に乗り込んでいったジュードは暗雲と豪雨のせいで霞の向こうに消え、姿が見えなくなってしまった。
後から聞こえてきたのは野太い男の怒号と破壊音のみで盛大に暴れまわっていることだけは分かるが、その全容を把握することはできそうにない。
俺の問いに思案している熊八は険しい表情をしながらも答えてくれる。
「……仕方ねぇさ。俺はビアンカの身を守る約束があるし、ビアンカに何かあれば俺たちは鋼鯨の追跡が出来なくなる。かと言って奴らを放置するわけにもいかねぇ。ジュードは口では好戦的な物言いをしてたが、奴なりに自分の役割を果たそうとしてんのさ。それに、あいつは任せろと言ったんだ。同じ冒険者なら仲間の言った言葉を信じるんだ」
「……ああ、そうだな」
熊八は俺のことを気遣ってか、俺に対する指示は何も言わなかった。
今、この船で自由に動けるのは俺くらいのものだ。
熊八はビアンカの護衛を、ベンジャミンは船の護衛、漁夫は嵐で転覆しないよう操舵、ジュードの取り巻きは欠けた漁夫の手伝いを。
けれど魔力もろくに扱えない俺なんかが敵船に乗り込みでもしたら、あっという間に敵に掴まって殺されるか、捕虜となり無茶な交換条件を突き付けられ余計に状況は悪化することだろう。
それが目に見えているからこそ熊八は何も言ってこないのだ。
しかし、その優しさが俺の心を抉る。
頭では理解できていても心の底では到底、納得できそうになく沸騰するかのような怒りが沸いてくる。
クソッ、なんて俺は無力なんだ……。
皆、自分にできることを精一杯やっている。それこそ命を投げ出す覚悟で。それなのに俺は安全な場所でただ突っ立っているだけで何の役にも立ちやしない。
これほどまで自分の非力さを痛感したことは初めての経験だった。
そのあまりの悔しさにギュッと拳を握りしめ爪が肉に食い込み、唇を噛んだ口から血が滲む。
そんな時、俺の心情を察してか隣にいた熊八が俺の頭に手を乗せガシガシと雑に撫でてきた。
「強くなることを焦るな。そして、忘れるな。この経験がお前をデカくする」
「………」
行き場のない怒りが間違った方向に進まないよう、俺を御してくれる。どうやら全てを見透かされているようであった。
俺は今日という日を忘れない。
そして、いつの日か俺を弟子にしてよかったと思ってもらえるよう必ず役に立ってみせる。
これまで鋼鯨の動向に意識を集中させていたビアンカが突然カッと目を開けたと思ったら大声をあげた。
「来るわよ! その数、10……、11……、12。全部で12体!! 全方向からよっ!」
ビアンカの警告はすぐに目の前に形となって表れた。
嵐によって大きく上下に揺れる船体の周りから荒波をもろともせずに船に向かって泳いでくるもの達。それは、昨夜の夜襲を仕掛けてきた際に乗り込んできたサハギンと同種の群れだった。
サハギンは海面をジャンプすると一斉に船の縁に乗り込みその手には各々、刀や槍など武器を携え睨みつけてくる。
「熊八さん! お願い!」
ソナーに集中するビアンカは戦闘態勢には移らずに意識を海中へと向けているままだ。前もって言っていたとおり戦闘には参加することができない様子である。
「おう、任せろ。お前さんには指一本触れさせねぇ」
そう言って黄金色の魔力を纏っている熊八は両手の鋭く太い爪をサハギンに向け構える。
これまでの戦闘を見てきて分かったことだが、熊八は戦いになるとそれまでの温厚な顔つきを一変させ野生を感じさせる獰猛な獣の表情を覗かせる。まるで別人にでもなったかのように威嚇する顔は一睨みされればすくみ上ってしまうほどに。
「私もお手伝い致します」
船内から出てきてそう告げたのは執事のベンジャミン。
すでに白い手袋を嵌めているその手には細いワイヤーのような糸がぐるぐると巻かれており、準備は整っているようであった。
熊八とベンジャミンが協力すれば乗り込んできたサハギンなど取るに足らない脅威。まず、間違いなく迎え撃つことができるだろう。
「こいつら昨日の……。サハギンがいるってことはあの女もいるかもしれないな」
「ああ、気を付けろ。奴は暗殺を生業として生きている影の住人だ。混乱に乗じていつ現れるか分からねぇから警戒しとけ。アラタ、お前はビアンカを守るんだ。俺は、ちと暴れる」
熊八の指示を受け止め近くにあった鉄製の銛を拾い即席の武器とする。いくら俺がひ弱だと言っても、素手より武装したほうがいくらかマシだ。
乗り込んできたサハギン達が一斉に襲い掛かってきたのを合図に戦闘の火蓋は切って落とされた。現状、戦うことが出来る主要戦力は熊八とベンジャミン。そしてビアンカの護衛を務める俺だ。
ビアンカは船の中央で能力を使うことに集中しているので戦力には数えることができないが、俺にだって近づいてくる敵を牽制し時間を稼ぐことくらいは出来る。
「いくぜぇぇぇ!!」
「対象を粛清致します」
動き足した二人は圧倒的な力の差を見せつけ、事も無げに次々とサハギンの群れを打ちのめしていった。
ビアンカを守れと言われていたがこの様子では出番はなさそうだ。
と、その時。
船上を駆け回る熊八とベンジャミンの動きが同時に止まる。
いまだに刃を向けてくるサハギンは殲滅していないが二人の視線はジュードが乗り込んでいった海賊船へと向けられていた。
「……ジュード?」
怪訝な表情を浮かべた熊八はジュードの身に起こった異変を肌で感じとったのか、意識を海賊船へと向けている。
そして、それは能力を使っているビアンカには手に取るように把握できていた。
「あの馬鹿……。熊八さん!」
「分かってる。あの女、ジュードを狙いやがった」
俺には二人が何を言っているのか理解できなかったが、気が付くといつの間にか海賊船から男たちの怒号も衝撃音も聞こえなくなっていた。
姿は見えずともビアンカの様子からジュードの身に何かが起きていたことは明白だった。
「熊八様、ここは私にお任せ下さい」
サハギンの首に括りつけたワイヤーによって体を浮くように吊り上げ、もがき苦しんでいる様を全く気にする素振りを見せないベンジャミンは一礼する。
「ブラガ様の船に無断で乗り込んだ魚共は私が処理致します。熊八様はジュード様の安否が御心配では?」
ささやかに笑うベンジャミンが腕を一振りすると、ワイヤーがキュッと音を立てて締まりジタバタともがいていたサハギンの動きが止まる。だらんとぶら下がった体は右に左に揺れ、力なく垂れさがった両手が揺れていた。
「すまねぇ、行ってくる。アラタ、ここは頼んだぞ」
俺が黙って頷くとバチッと音をたてて熊八は瞬時に消えてしまった。任せられた以上、何人たりともビアンカに危害は加えさせない。
まだ多少、数が残っているサハギンを相手に俺が足止めしベンジャミンが仕留める。俺の役目は相手を打ち倒すことではなく、ビアンカを守ることだけを考えていればいいので負担は少なかった。
♢ ♢ ♢
「……カハッ!!」
突如、背後から首を切られ大量の血が溢れ出している。
すぐさま傷口を抑え止血を試みるが、傷口の大きさと雨に濡れた手ではあまり意味を成していないのか、止めどなく溢れ出る血液の流出により足に力が入らなくる。
そのままうつ伏せに倒れ込み目線だけ移すと、そこには真っ黒な服を着た細身の女が小刀片手に立っていた。
(こいつ……、昨日の……! 全く気配に気付けなかった……)
呼吸をするたびにヒューヒューと空気の抜ける弱弱しい音が鳴り、次第に目が虚ろになっていく。その視界で捉えたのは息の根を止めようと振り上げた小刀の反射だった。なんとか回避しようにも体に力が入らない。まさに絶体絶命だった。
「さ、せ、る、かぁぁぁぁぁぁ!!!」
しかし、大声をあげながら現れた毛むくじゃらの獣人に窮地を救われる。
熊八は力を込めた右手の鋭利な爪を黒衣の女に向け振りぬいたが、瞬時に反応した女の小刀に阻まれ右腕に軽傷を負わせる程度で終わってしまう。
二人の間に割って入った熊八は倒れているジュードに声を掛けた。
「大丈夫か? 待ってろ、すぐに医者に診せてやる。それまでくたばるんじゃねぇぞ」
抱きかかえられるように体を持ち上げられ自分たちの船に引き返そうと踵を返す。薄れゆく意識の中、ふと思ったのは何故、黒衣の女が追い打ちをかけてこないのかだった。
だが、それもすぐに分かった。
黒衣の女は両手を甲板に着きながら内股でへたり込んでおり、痙攣でもしているのかビクビクと小刻みに体を揺らし立ち上がりたくても立てないようであった。
それはまるで産まれたばかりの小鹿のようであり足に力が入っていない。
しかし、その視線だけは殺意に満ち溢れているのが分かるが意識に体がついてきておらず、追い打ちをかけてくることは無かった。
「ああ、あれか? しばらく動けないようにしといた」
思考を読み取ったかのように熊八が教えてくれるが、あの一瞬で何をしたのかまではジュードには分からなかった。
再度、バチッと音を立てるとジュードを抱えたままの熊八は何の障害もなく船に帰ってきた。
♢ ♢ ♢
「早かったな熊八! って、どうしたんだよジュード!? 血だらけじゃないか!!」
すぐに戻ってきた熊八の腕には血で染まったジュードが真っ青な顔をして抱きかかえられ今にも死にそうな顔をしていた。説明する時間が惜しいと省略し、船内に連れていくとゆっくりと寝かせる。
心配するジュードの取り巻きと慌てて処置を施し始める船医。
「あとは医者に任せよう。ジュード、死ぬんじゃねぇぞ」
熊八の言葉を聞いていたのか、目の下に痣のような黒いクマを作りながら笑う。それがジュードなりの返事なのだろう。
しかし、驚きの声をあげたのは医者のほうだった。
「これは、一体どういうことだ!? 出血が止まり傷口が塞がりかけてる!」
確かに清潔なガーゼで溢れ出た血を拭うと皮膚がくっ付き始めており、縫う必要がないほどに癒着し始めていた。それを見ていた熊八は得心がいったのか、うんうんと頷いている。
「なるほどな。それがお前さんの能力だったんだな。ああ、だからあの時も……」
心なしか先ほどよりも顔色の良くなっているジュードは驚くことに声を発するまでに回復していた。
「……ぞう゛だ。……だがら゛、だい゛じょぶ。……あ゛り゛がどう゛」
ガラガラの声でほとんど何を言っているか分からなかったが、何とか聞き取れた言葉は命を繋ぎ止めたことを証明していた。