氷結連理の夢一時
ニカの父、タレスのお話。
気づいた時にはもう手遅れで。
きっかけはとても単純だった。
彼女をよく知る彼が気づくまで時間がかかったのだから、彼以外の誰がいったい気づいたと言うのだろう。
───いいや、全く誰も知らなかった訳じゃない。。
彼女と契約する精霊達がいた。彼らは自身の契約者の事なのだから、きっと知っていたに違いなかった。
彼女と契約している精霊は全員で四体。
だから彼は、彼らを問い詰めた。
水と風の双子の精霊は、泣きそうな顔になってごめんなさいと、マスターから絶対に言わないでと口止めされていたのだと謝った。
でも、いつからか、どうしてなのか、そこまでは口を割らなかった。
炎と狂熱の精霊は、自分から言うことなど何もないと言いながらも、その瞳は申し訳なさを伝えていた。
風を纏い水辺に遊ぶ精霊は、淡々と彼に話した。
「あれは、お前が愛しいからと、長く長く、この幸福な夢を見ていたいと、そう私たちに望んだのです」
◇◇◇
最初の変化は、彼女はあれだけ嫌いだと言っていた魔法使いのローブを纏い始めたことから。
彼女は笑って、「私も有名になったから、ちゃんとしなくちゃでしょ?」と言っていたから気にしなかった。
今思えばその頃からだった。彼女が彼に触れなくなったのは。
あれだけ彼の体温を奪うように、温めてとよく冷たい手で握りに来ていた彼女が、彼に触れなくなった。
その変化を彼が鈍くて見落としていたから、とうとう手遅れになるまで、彼は気づかなかったのかもしれない。
彼が気づいたのは、彼女がそのローブの下にコートを着ていたことを知ったからだった。
彼女は夏にも関わらず、コートを着ていた。真夏の炎天下の中でも、汗ひとつ流さないで、コートを着ていた。
変だなと思った。でも何故か分からなかった。
「日焼け対策でもしてるのか?」
「違うわよ」
「暑くはないのか?」
「暑くないから着ているのよ」
彼女は涼しげな顔で言ってみせた。
でも彼はそんな彼女が、今にも真夏の氷のように溶けて、天へと帰ってしまうように見えた。
だから、その手を取って自分の元に留めようと。溶けるのならば、せめて己の腕のなかで、自分の狂おしい程の情熱でと。
そう思って彼女の手を取った。
───冷たい。
仕事で、真冬の湖に行ったことがある。あそこで彼はうっかりと湖の氷を割ってしまって湖に落ちてしまった。あの時の冷たい湖に浮かぶ氷の欠片のような冷たさ。
彼は目を見開いた。
彼女は手を離した。
真実を知ってしまった彼と、真実を知られてしまった彼女。
彼女が悲しげに目を伏せる。
遠のいていく彼女。
彼は必死に手を伸ばす。
走って。走って。走って。
暗い視界の中、追いかけた先には、山道の先にある屋敷の一室。
見慣れた寝台に横たわる彼女がいた。
ああ、間に合った。
そう思って、彼女の傍らに歩み寄る。
やっと追いついた彼女は事切れた人形のよう。
その顔に触れようとして、己の手の中にあったものを初めて認識する。
それは短剣。
彼が、与えられた答えの形。
そうして彼は絶望した。
───あぁ、違う。
───これは夢だ。
───自分は間に合ってなどいなかった。
夢でさえ助けることは叶わなかった。
彼はその場に膝をつく。
溢れる涙は地へ落ちる。
この手の中にある短剣が鈍く輝く。
それは彼女の命の輝きだと、記憶の中にある誰かが彼にそう告げた。
◇◇◇
過去の光景から目が覚めたタレスは、真夜中だというのにベッドから身体を起こす。
子供が生まれてから見なくなった夢。
彼の、悪夢と後悔と愛惜の始まり。
もう見なくなったと思ったのにどうして。
膝を立て、そこに額を押し付けるようにして声を圧し殺す。この夢は、嫌だ。自分を責めると同時に、否が応でも彼女の愛を思い出してしまう。
長いようで、短い時間だったのかもしれない。
隣で眠っていたはずのライアが寝返りを打った気配がした。外はまだ暗い。朝までは目が冴えてしまっても、眠る努力はしようと横になろうとした。
すると、隣でライアが、こちらを見ていることに気づいた。起こしてしまったか。
「悪い。起こしたか?」
「気にしないで。貴方、うなされていたもの」
どうやら彼女は自分が起きる前から起きていたらしい。横になっていた彼女も身体を起こす。
「悪い夢でも見たんでしょ?」
「……ああ」
「彼女の夢?」
「……ああ」
ライアはそっか、と言って口を閉じる。差し込む月光が、彼女の顔を照らしていた。
「……罵らないのか? 未だに引き摺っている俺を」
タレスは沈黙に耐えかねて、そう口にした。ライアはじっととタレスに見つめる。
「どうして私が罵るのよ。貴方が一生消えることのない想いを持っているのを知って、私はそれを引っくるめて受け入れると言ったの。今さらだわ」
そう言いきったライアに、タレスは目をそらす。
たまに思う。
ライアと『彼女』はよく似ていると。
自分は二度と見えることはない『彼女』をライアに見ているのかもしれないとすら思う。だからこそ、彼女と結婚したのではないのかと。
浅ましくも、考えてしまう。
こんなことを考えてしまう自分に深く息をつく。
駄目だ、いつまで経っても慣れない。
自分が愛した『彼女』がこの世を去るあの瞬間を繰り返し夢に見た。
自分が愛した『彼女』の小さな変化を見逃してきた時間を繰り返し夢に見た。
その度に過去に苛まれる。
忘れた頃に。戒めのように。
───『自分が犯した罪』の忘却を許さないかのように。
誰も知らない、自分の奥底に燻る浅ましい願望。
それは今でも自分の中に刻まれている。
「ライア」
「なに?」
「俺はあの時、あいつと一緒に死ぬべきだったのかもしれない」
ライアは口を開かない。じっと、タレスを見つめるだけ。
「あいつは、俺に生きてくれと願った。俺は、苦しんでいるあいつを見ていられなくて……」
「……終わったことよ」
言葉と共に顔を覆ったタレスに、ライアは静かに、淡々と言い放つ。
月光に照らされた彼女の表情を、タレスは見ない。覆ってしまった視界は深い闇の色、月光は届かない。
「終わったことなの」
ライアは身体をタレスの方へと向けた。
顔を覆うタレスを、ライアは正面から抱き締める。
もうすぐ大人になる娘とまだ幼い息子にそうしてきたように、優しく抱き締める。
「この手で……俺は、あいつを」
独白するタレスの気がすむまで、ライアはそうやって抱き締め続ける。
子供たちが生まれる前はこんなことがよくあった。タレスが真夜中にうなされて、飛び起きて。
ライアは彼が落ち着くまで、ずっとこうしていた。
子供が生まれてから、タレスは夢にうなされることもなくなったのに。
「ライア」
「なぁに?」
「お前はあいつに似ているよ」
「そうかしら」
「ああ。だから俺は、」
その続きは駄目。
ライアは言葉の代わりに抱き締める腕に力をこめる。
どんなに彼が彼の人を想ったって。
どんなに彼が彼の人を望んだって。
ライアは、その代わりには慣れない。
「私は私。貴方の想い人に恨み言を言われたって、貴方が私に彼の人の代わりを望んだって、今の貴方の隣にいるのはライア・フラメル。タレス、貴方のために全てを捨てた女よ」
タレスはライアの言葉に、強く、強く目蓋を閉じる。これが現実。彼女は自分のために全てを捨ててくれた女性。こんな自分に寄り添ってくれたのは、彼女だ。
───もういない、想い人ではない。
タレスは深く深く息をつくと、もう大丈夫だと言うように顔に当てていた手を離した。ライアの細い腰にそっと腕を回す。
顔を上げて、彼女の肩へともたれ掛かる。
「すまん」
「出会ったときから何も変わらないわ。それに謝られるよりは……」
「感謝の気持ちを、だろう?」
「分かってるじゃない」
タレスは彼女の顔が見えないけれど、今、彼女はきっと微笑んでいるだろうと思った。
だから、そんな彼女の顔が見たいと思って、身体を少し話す。
ライアは微笑んでいた。
月明かりに照らされた彼女は、いつもの強気な目尻を少しだけ下げて、微笑んでいた。
「……訂正だ、ライア」
「何を?」
「俺はあいつがいなくなったからじゃない。お前だから、結婚したんだ。きっと」
そう言ったら、ライアは一瞬驚いたような顔になった。でもすぐにもとの表情に戻る。
「そうだったらどんなに良かったことか」
「信じていないな?」
「当たり前でしょ。貴方の口からそんな言葉、初めて聞くもの」
そう言われて、ばつが悪くなる。
十五年以上、一緒に過ごしてきて、甘い言葉一つ囁かずにここまで来たのを、今更ながら反省する。
彼女が、よくこんな自分に愛想をつかさないで支えてくれたことに、多大なる感謝を。
───女は強いな。
彼女たちは、想い人のためならば何の躊躇いもなく、言葉を、想いを、自分の身すら惜しまずに差し出してくれる。
それに対して自分は。
かつての恋人にすら返せなかった大切なものを、生涯の伴侶にすら返せないまま、終わってしまうかも知れなかったことを今更ながらに痛感した。
同じ轍を二度踏むな。
幼馴染がよく言っていた言葉を思い出す。
繰り返すな、学習しろ。
『彼女』には返せなかったけれど、ライアにはまだ、返すことができる。
「ライア、ありがとう」
「また急ね」
「今更だというのは、俺がよく知っている」
それでも言わずにはいられなかった。
今宵見た夢にはきっと意味がある。そう思うからこそ、今ここで言葉にしないでおくのは愚者のやること。
見た夢の意味は分からない。同じものを繰り返し見ることには何か意味があるということをしっているだけで、夢説き師ではない自分にはその意味を理解することは叶わない。
月明かりの中、抱き締め返すぬくもりが今を作る彼の一部であり、未来にも寄り添ってくれる存在。
それに加え、可愛い娘と息子にも恵まれた。これ以上何を望むものがあろうか。
さぁ、過去に訣別を。
夢は夢。
ただ一時の幻に過ぎないのだから。
◇◇◇
彼が囚われた過去の因果は今なお繋がっている。
それはどこに。
──それはすぐそこに。
彼が知らぬ間に産み出した因果は、彼の愛した存在を今なお苦しめている。
──彼が間違えたわけではない。
──彼よりもずっと前に、間違えた者がいたために引き起こされた悲劇。
その終止符は未だ打たれず。
物語の結末はいつ訪れるのか。
命という夢に囚われた彼女を救うのはいったい──…………




