■第百二十話 最終話 勇者が魔王を倒したあと、世界で一番平和な会社が残った
記念祭当日の朝、魔王城前の広場では、以前からある小さな相談所が、英雄の銅像より先に人々を迎えていた。
学校からの採用通知と勤務条件を確認して承諾書に署名した俺とゼルガディスも、今では週一回の補助講師だ。
広場を囲む回廊には補償基金の窓口と展示室が並び、城門までも歩いてすぐだ。
戦争で失ったものを話せる場所だ。
俺は入口の椅子を並べる社員を手伝った。
準備中の社員たちは俺を特別扱いせず、当たり前のように椅子を渡してくれた。
それが不思議と嬉しかった。
準備を手伝いながら、俺は一か月前の会議を思い出した。
エリナはその会議で、盛大な祝賀会を開く案を差し戻した。
「利益が出たからといって、過去の被害が消えるわけではありません。式典はお祝いだけにしないでください」
吉岡は式典の進行順序を変更した。
午前中は工場と学校の見学会。
学校では聖剣の公開授業も行う。
昼の記念式典では功労者の表彰と今後の事業方針を発表し、午後には補償基金の活動報告を行う。
最後は従業員と地域住民の交流会で締めくくる。
魔王軍が過去に壊した橋の写真も、現在の修復状況と並べて展示する。
「お祭りなのに暗くならないか?」と俺。
「明るくするために、暗かった場所を隠す必要はありません」とエリナ。
会議で俺は「戦勝記念」という仮称に反対した。
エリナと吉岡が正式な行事名を「暮らしの記念祭」に変更し、案内状も刷り直した。
開場すると、入口で小さな少年が母親の手を引いて立ち止まった。
母親は魔王城を見上げたまま動かない。
「怖い?」と少年。
「昔、ここから兵隊が来たの」
少年はしばらく考え、母親の手を強く握った。
「じゃあ、今日は一緒に見よう。怖かったら帰ろう」
二人はゆっくり門をくぐった。
誰も引き止めず、誰も入場を強制しなかった。
午前中の見学会。
工場の展示では、ガンドルが農機具を誇らしげに動かした。
かつて攻城槌を作っていた炉で鍛えた刃が、畑の土を柔らかく耕す。
「同じ鉄でも、使い道で違うもんだな」と俺。
「鉄は悪くねえ。作る俺たちが、何に使うか決めるんだ」とガンドル。
隣では、ドラゴンのグラディオスが子供を乗せる前に安全帯を二重確認していた。
「昔なら城壁ごと吹き飛ばしてたのに」
「今は保険料が高いからな!」
「理由が現実的すぎる!」
学校の公開授業では、聖剣が専用の台座から子供たちへ問いかけた。
『困っている人がいたら、まず何をしますか?』
「助ける!」と一人が答え、別の子が首を振る。
「先に、どうしてほしいか聞く!」
『そのとおり。
剣を抜く前に、相手の声を聞くのです』
見学に来た大人たちも、思わず顔を見合わせた。
昼、「暮らしの記念祭」の記念式典が始まった。
エリナが壇上に立つ。
「かつてこの会社は、戦争を続けることで利益を得ていました。今は、暮らしを支える仕事で利益を得ています。私たちは過去の責任を忘れず、次の世代が戦争を選ばなくて済む仕組みを守ります」
拍手が広がった。
続いて吉岡が発表した。
「本日の特別表彰は、創業以来初めて、全従業員の有給休暇取得計画を提出した各事業部でございます」
「そこを表彰するのか!」
「なお、元社長ジーク様には、特別功労賞が贈られます」
俺は壇上に呼ばれた。
「一言お願いします」
目の前には人間と魔族、子供と老人、かつて敵だった者たちが並んでいた。
俺は用意していた原稿を畳んだ。
「俺は、魔王を倒すために旅に出ました。五年間、剣を振り続けました。でも最後に魔王を追い出したのは、剣じゃなくて株主総会でした」
笑いが起きた。
「それから俺は、魔王軍の社長になりました。借金だらけで、残業だらけで、毎日辞めたいと思っていました」
今度は大きな笑い声。
「だけど、この会社で働く人たちが、戦争以外の仕事を見つけていくのを見ました。人間と魔族が一緒に工場を建てるのを見ました。俺が社長を辞めても、みんなで問題に向き合い、仕事を続けられる会社になったのを見ました」
俺はエリナを見た。
「だから、俺はようやく勇者を卒業できます」
会場は静まり、それから大きな拍手に包まれた。
式典のあと、午後の基金報告会では一人の遺族が立ち上がった。
「まだうちの父の行方は分かっていません。それでも、調査の進捗を毎月知らせてもらえるようになりました」
彼はそこで言葉を切った。
「私は、この会社を許したわけじゃない。でも、前よりは話を聞いてもらえる」
会場は静かにうなずいた。
拍手をする者はいなかった。
俺はその沈黙が、以前の歓声よりずっと大切に思えた。
夕方の交流会では、子供たちの合唱が始まった。
歌詞には魔王も勇者も出てこない。
朝ご飯を食べ、学校へ行き、家に帰る歌だった。
ゼルガディスが隣で鼻をすすった。
「泣いてるのか?」
「溶岩の蒸気が目に入っただけだ」
「ここに溶岩はないぞ」
「……うるさい」
俺たちは笑った。
合唱が終わると、エリナは俺に最新の報告書を見せた。
負債はまだ残っている。
基金の調査も終わっていない。
戦時中に接収された共同墓地と避難用地を元の住民へ返すため、旧戦争施設の地下保管庫で見つかった共同墓地と避難用地の取得・管理契約書と住民代表名簿を照合しているが、まだ欠けた記録がある。
証言者の秘密を守りながら、独立した住民代表協議会が、その土地の管理権を地元へ戻す手続きを審議していた。
結論が出るまで、誰も移管を既成事実にはしない。
新規事業には失敗もあり、従業員からの苦情も毎月届く。
「全然完璧じゃないな」と俺。
「完璧だったら、監査役も社員の意見も要りません」
「それもそうか」
エリナは報告書を閉じた。
「明日も問題は起きます。でも、誰かが見つけて、止めて、直せます」
問題を隠さず話せることが、今の会社の強さなのだと思った。
社長に就任したエリナは忙しそうだったが、以前より表情が明るかった。
「それで、最近の困りごとは?」と俺は尋ねた。
「昨日も農機具が温泉を掘り当てました」
「まだやってるのか!」
「今回は事前調査で温泉の可能性を把握していました。地域の共同事業として検討しています」
俺は感心した。
「明日も、みんな忙しそうだな」
「ええ。でも、あなたは休んでください」
エリナは少し間を置いた。
「今まで、十分に働いてくれましたから」
広場の端には、小さな石碑があった。
戦争で亡くなった人々の名前が刻まれ、隣には今も申請を受け付ける補償基金の窓口がある。
掲示板には、ゼルガディスの寄付について実際に着金した額と、まだ入金を待つ残額が分けて表示されていた。
あの老婆も来ていた。
「少しはましな城になったね」
「ありがとうございます」
「まだ終わってないよ」
「はい。分かっています」
老婆は笑った。
「それならいいさ」
夕暮れ、広場の相談所ではまだ一人の相談者が話していた。
最後の一人が帰るまで、職員は椅子を片づけなかった。
遠くの食堂ではボルドが鍋を振り、吉岡は翌日の勤務表を確かめている。
エリナの執務室の窓辺には、社員の休暇予定表が貼られていた。
城の中からは、明日の準備をする人たちの笑い声が聞こえてきた。
俺はその音を背に、久しぶりに仕事の予定がない明日を思った。
祭りの片づけが始まるころ、元魔王ゼルガディスが俺の肩を叩いた。
「ジーク。次は何をする?」
「町の学校で、週に一度、子供たちと考えるよ。戦争の話も、失敗した会社の話も」
「わしも講師を続けるぞ」
「お前はまず、子供に論破されない練習をしろ」
広場に面した展示室には、午前の公開授業を終えた聖剣エクスカリバーが、学校の担当者に運ばれて戻っていた。
移送中の保管責任は学校が負い、展示室に引き渡した後は本人の同意を得て展示室の管理担当が預かる。
本人が選んだ居場所だ。
その聖剣が、突然声を上げた。
『次の授業も、教材の事前審査がありますよ』
「お前、展示室にいるときまで授業の心配をするのか!?」
『学校へ講師として出向く日は、私も講師ですから』
その場へ来た吉岡が、小さな紙袋を差し出した。
「皆からの贈り物でございます」
中には、古い社員証を加工した栞が入っていた。
裏には『退勤を忘れずに』と刻まれている。
「最後まで仕事の心配かよ」
「ジーク様には、一番必要な言葉かと」
俺は栞を鞄に入れた。
祭りの灯りを背に、俺は城門へ向かった。
明日は授業のない休日だ。
朝寝坊をして、市場で焼きたてのパンを買おう。
誰かを倒すためではなく、自分のために過ごす一日が待っている。
背中にはもう聖剣はない。
腰には旅の小さな鞄だけ。
城門の前で、エリナが俺を呼び止めた。
「ジーク。年に一度くらい、株主総会には顔を出してくださいね」
「出勤じゃなくて、招待ならな」
俺は笑って答えた。
魔王城の窓には、今夜も灯りがともっていた。
かつて、あの灯りの向こうでは戦争の計画が立てられていた。
今は明日の配送予定と、食堂の献立と、子供の保育時間が話し合われている。
借金も補償も、まだ片づいていない。
それでも、明日の仕事を引き受ける人たちがいる。
俺は今夜、安心して帰れた。
城門の外へ踏み出そうとしたそのとき、背後から吉岡の声がした。
「ジーク様! 最後に一枚、署名をお願いいたします!」
「……何の書類だ?」
「名誉顧問就任承諾書でございます! もちろん、ご本人が望まれなければ無効です!」
俺は全力で走り出した。
「もう書類は嫌だあああああ!」
魔王城から、笑い声が響いた。
街道に出た俺は、剣のない腰を軽く叩いた。
明日は、ただの休みだ。
俺たちが、ようやく手に入れた休みだった。
――完――




