CASE2-2 花盛りのアルシリス
おそらく、街まではまだ数時間かかる。
このまま夜になるまで砂漠を歩くのは危険だ。
至極真っ当なことをツグミが口にした。
それだけなのに、ラグはなぜか妙な違和感を覚えた。
「……ツグミさんが、そんなまともなことを言うなんて」
「どういう意味?」
「そのままの意味です」
ツグミがむっと頬を膨らませる。
ガルシアは二人のやり取りを無視して、水辺へ視線を向けていた。
「でも、魔獣がいるオアシスに泊まって大丈夫なんですか?」
ラグがおそるおそる尋ねると、ガルシアが鼻を鳴らした。
「俺がいる場所へ、好き好んで近づいてくる奴もいないだろう」
自信に満ちた言葉に、ラグはほっと息を吐いた。
「襲ってこないよ」
不意に、ツグミが言った。
「……どうして断言できるんですか?」
ラグが振り返る。
ツグミは答えず、ただ静かにオアシスの奥を見ていた。
何かを知っているような顔だった。
けれど聞いても、きっと教えてはくれない。
ラグは小さくため息をついた。
**********************
昼間の疲れが残っていたのだろう。
ラグはガルシアの身体に寄りかかったまま、いつの間にか眠っていた。
ふと目が覚める。
寒い。
昼間の熱が嘘のように、砂漠の夜気が身体の芯まで染み込んでいた。
寝返りを打とうとして――ラグは動きを止めた。
少し離れた水辺。
ツグミのそばに、何かがいる。
暗くて姿まではよく見えない。
けれど、人ではない。
見てはいけない。
なぜか、そんな気がした。
ラグは目を閉じたまま、耳を澄ませる。
「水を飲みに来たの?」
ツグミの声がした。
返事はない。
「……ひとりでいるんだね」
しばらくして。
「ごめんね。邪魔しちゃって」
また、ツグミの声。
誰かと話しているようなのに、相手の声は聞こえない。
寝たふりをしていよう。
そう思ったものの、鼻の奥がむずむずしてきた。
我慢すればするほど気になる。
「クシュンッ!」
やってしまった。
辺りの気配が、ぴたりと止まる。
「ラグ?」
小さな声で呼ばれた。
今さら寝たふりを続けるのも無理がある。
「……すみません」
ラグはゆっくり目を開けた。
背後ではガルシアも目を覚まし、低く喉を鳴らして身体を起こす。
「馬鹿が」
「仕方ないじゃないですか……」
ラグは鼻をすすりながら、水辺へ顔を向けた。
月明かりの下。
ツグミのそばに、一頭の魔獣がいた。
淡い桃色の身体。
すらりと伸びた細い脚。
そして頭上には、大きく枝分かれしたツノが伸びている。
けれどそのツノに、花も葉もない。
乾いた枝のように色を失い、ところどころ欠け、今にも崩れ落ちそうだった。
淡い桃色の瞳が、じっとラグを見ている。
「ごめんね。起こしちゃったみたい」
ツグミはラグではなく、魔獣へ謝った。
「その子は……?」
ラグが囁く。
ツグミが振り返り、静かに笑った。
「アルシリス。砂漠に住む魔獣だよ」
ツグミはすぐそばにいるわけではない。
手を伸ばせば触れられそうで、けれど決して踏み込まない。
アルシリスとの間には、わずかな距離が残されていた。
「普段は群れで暮らす魔獣だ」
ガルシアが低い声で言った。
「群れ?」
「あれは老いた個体だ」
ラグがもう一度、アルシリスを見る。
「おそらく、このオアシスも群れが作ったものだろう」
「群れが?」
「ああ。最期のときを迎える個体のためにな」
ラグは辺りを見回した。
水がある。
木々もある。
砂漠の真ん中とは思えないほど穏やかな場所なのに、ほかの生き物の気配がない。
ここは偶然できたオアシスではなかった。
アルシリスが最期を迎えるための場所なのだ。
「じゃあ……仲間は?」
「もうここにはいない」
「どうしてですか?」
思わず聞き返した。
「最期まで一緒にいてあげればいいのに」
ラグには、それが少し薄情なことのように思えた。
ガルシアはすぐには答えなかった。
「アルシリスにとって、ツノは誇りだ」
「ツノ?」
「生まれてすぐに伸び始め、季節を重ねるごとに枝を増やす。成獣になれば葉をつけ、花を咲かせる」
「花が……」
「あのツノを見れば、その個体がどれだけの年月を生きてきたか分かる」
ラグは枯れたツノを見る。
高く、大きく、幾重にも枝分かれしている。
今はもう葉も花もない。
それでも、その姿から長い年月を生きてきたことだけは分かった。
「老いれば花が落ち、葉が落ち、最後にはツノそのものが崩れる」
ガルシアの声が少しだけ低くなる。
「アルシリスは、その姿を仲間に見せたがらない」
「……だから?」
「群れは追い出しているわけじゃない。誰にも見られず最期を迎えられる場所を作って、送り出すんだ」
ラグは黙った。
最期までそばにいることだけが、優しさではない。
この魔獣にとっては、離れることが敬意なのだ。
水辺からツグミの声が聞こえた。
「……見られるの、嫌なんだね」
アルシリスがわずかに顔を背ける。
「ごめん」
ツグミはそれ以上、何も言わなかった。
慰めようともしない。
近づこうともしない。
ただ、そこに座っている。
長い沈黙が流れた。
月の光が、水面を揺らす。
やがてアルシリスが、ゆっくり首を動かした。
大きなツノが、ツグミのほうへ傾く。
「……え?」
ツグミが目を瞬いた。
「触っていいの?」
アルシリスは動かない。
ツグミはしばらく待ってから、そっと手を伸ばした。
指先が、枯れた枝のようなツノへ触れる。
「……すごいね」
いつものツグミとは違う、静かな声だった。
「こんなに大きくなるまで、生きてきたんだね」
それ以上は言わない。
ただ、ゆっくりとツノを撫でる。
「触れさせてくれて、ありがとう」
アルシリスが小さく喉を鳴らした。
そして、その瞳がラグへ向けられる。
「……え」
突然見つめられ、ラグは固まった。
「ラグ」
ツグミが手招きする。
「こっちに来てもいいって」
「本当に?」
「うん」
ラグはガルシアを見る。
ツグミもガルシアへ目を向けた。
「ガルシア、ごめんね。あなたはここにいて」
「分かっている」
ガルシアは気にした様子もない。
「俺の魔力は、今のあいつには強すぎる」
「うん」
「行ってこい、ラグ」
背中を鼻先で押される。
「ちょ、押さないでくださいよ」
促されるまま、ラグは水辺へ向かった。
アルシリスの視線が、自分を追っている。
少し緊張しながら、ツグミの隣にしゃがみ込んだ。
「ほら」
ツグミが囁く。
「近くで見ると、もっとすごいでしょう?」
ラグは頷いた。
枯れている。
ところどころ折れている。
それでも。
空へ向かって伸びるツノは、圧倒されるほど大きかった。
枝分かれした一本一本に、この魔獣が生きてきた時間が刻まれているように見える。
胸の奥が、少し苦しくなった。
「今日は、ここにいようか」
ツグミがアルシリスへ聞いた。
アルシリスが低く喉を鳴らす。
「僕もいていいんですか?」
「うん」
ツグミが笑う。
「いていいって」
それからは、ほとんど言葉を交わさなかった。
ツグミも。
ラグも。
アルシリスも。
少し離れた場所には、ガルシアが伏せている。
月明かりを受けたオアシスに、水の音だけが静かに響いていた。
**********************
眩しさに、ラグは目を覚ました。
「……ん」
顔に直接、朝日が当たっている。
確か昨夜は木の根元にいたはずだ。
目をこすりながら身体を起こす。
そして、ラグは動きを止めた。
「……え?」
そこは砂漠だった。
水もない。
木々もない。
昨夜まであったオアシスが、跡形もなく消えている。
少し離れた場所に、ツグミが立っていた。
砂漠の向こうを見ている。
「ツグミさん?」
声をかけると、ツグミが振り返った。
「アルシリス、土に帰ったみたい」
ラグは辺りを見回した。
「……もう、いないんですか?」
「うん」
桃色の身体も。
大きなツノも。
どこにもない。
昨日まで聞こえていた水の音も、木々のざわめきも消えている。
ガルシアがラグのそばまで来た。
「アルシリスが最期を迎えれば、群れが作ったオアシスも魔力を失う。そのまま砂漠へ還る」
「……全部、なくなっちゃうんですね」
「ああ」
ラグはしばらく、何もない砂地を眺めていた。
そして、ふと思い出す。
「ツグミさん」
「なに?」
「ツグミさんって、魔獣の言葉が分かるんですか?」
「言葉?」
ツグミがきょとんとする。
「昨日、アルシリスとずっと話してたじゃないですか」
「ああ」
ツグミは少し考えてから、首を横に振った。
「分からないよ」
「でも、『触っていい』とか『ラグも来ていい』とか……」
「うん」
「それって分かってるんじゃないですか?」
ツグミは困ったように笑った。
「ラグ。言葉って、気持ちを伝える方法のひとつでしかないよ」
「ひとつ……」
「視線とか、仕草とか、表情とか。近づくこともそうだし、逆に近づかないことだってある」
ラグは昨夜のツグミを思い出す。
アルシリスへ触れなかった。
呼ばれるまで、ずっと距離を取っていた。
「言葉は分かりやすいから便利だけどね」
ツグミは砂漠の向こうを見る。
「言葉なら、簡単に嘘もつけるでしょう?」
「……はい」
「だから、言葉が分からなくても、ちゃんと見ていれば伝わってくることはあるんだよ」
ツグミは少しだけ笑った。
「昨日のあの子も、最初は『近づかないで』って言ってた」
「……言葉じゃなく?」
「うん」
「それで最後は?」
「『ここにいてもいい』って」
ラグは胸の奥を、ぎゅっと掴まれたような気がした。
「……そうなんですね」
しばらくして、ツグミがぽつりと呟く。
「アルシリスって、生守師の間ではあまり重要視されてないんだ」
「どうしてですか?」
「老いたアルシリスは、ほとんど暴走しないから」
人を襲わない。
街へ被害をもたらさない。
なら、生守師がわざわざ介入する理由も少ない。
「じゃあ」
ラグは何もなくなった砂地を見る。
「どうしてツグミさんは、一晩ここにいたんですか?」
「え?」
ツグミが、本当に分からないという顔をした。
「どうしてって……」
そこで言葉が止まる。
ラグは、その顔を見て少しだけ分かった気がした。
一人で最期を迎えようとしている魔獣がいた。
そして、そこにツグミがいた。
きっと、それだけなのだ。
助けられるからでもない。
治せるからでもない。
役に立つからでもない。
ただ、独りでいる魔獣のそばに、自分がいることを許された。
だから、そこにいた。
「……なんでもないです」
「何?」
「ツグミさんらしいなと思っただけです」
「それ、褒めてる?」
「半分くらいは」
「半分なんだ」
ツグミが不満そうに口を尖らせる。
「そろそろ出発しないか」
ガルシアの声が飛んできた。
「街まで行くんだろう」
「あっ」
ツグミが空を見る。
「そうだった」
「忘れてたんですか!?」
「ちょっとだけ」
「もう!」
ラグが声を上げる。
ガルシアが呆れたように先を歩き始めた。
ラグも荷物を背負い直す。
最後に一度だけ振り返った。
そこには、もう何もない。
ただ朝の光を受けた砂が、どこまでも続いている。
けれどラグの目には、まだあの大きなツノが残っていた。
花も葉も失った、老いたアルシリスのツノ。
あれは決して惨めなものではなかった。
あの子が、長い時間を生きてきた姿だった。
「ラグー! 置いてくよー!」
「誰のせいで遅くなったと思ってるんですか!」
ラグは慌てて駆け出した。
ツグミとラグ。
そしてガルシア。
三人は再び、朝の砂漠を歩き始めた。
■女王様のお茶会■
https://cookiequeen.chu.jp/2010.queen/top.html
■NOTEにて、ツグミノミの制作秘話を公開中
ツグミノミ制作ノート https://note.com/nagiho_uosawa/m/m833291b12a8e




