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誰が焔を終わらせたか  作者: 桐谷 灯


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1/4

プロローグ

夜は焼けただれていた。


聖域の外周から火が回り、湿った木材が腹の底を殴るような音を立ててぜる。煙は低く垂れこめ、目と喉を刺した。息を吸うたび、焦げた布と脂の匂いが肺に貼りつく。その奥に、血の生温かさが混じっている。


この夜、ひとつの時代が燃えていた。


 地面はぬかるんでいた。

 泥ではない。血と灰と、踏み潰された肉の混じったぬかるみだ。

 足を下ろすたび、柔らかいものが靴底で潰れる。

 骨が砕ける感触。

 裂けた布。

 折れた指。

 確かめる必要はなかった。

 ここではすべて、同じものだった。


「前へ! 前へ出ろ!」

「火が回るぞ、離れろ!」

「中にいる! 逃がすな!」


 怒号が飛び、すぐに炎の音へ呑まれる。

 金属がぶつかる音。刃が肉に沈む音。短い悲鳴が上がり、喉を裂かれたように途切れる。

 戦は続いている。確かに続いているはずなのに、聖域の内側へ進むほど、それらは背中の向こうへ押し流されていった。


 ここは神聖な場だった。

 王も兵も、罪人も敗者も、ここでは剣を置く。

 誰の敵でもなく、誰の味方でもない。

 血を流す前に許しを乞う、最後の逃げ場。


 だが、その掟は炎に焼かれた。

 祈りも、赦しも、今では瓦礫がれきの下だ。


 男は歩く。

 鎧に大きな傷はない。刃も濡れていない。すすと血飛沫が、薄く付着しているだけだ。

 倒れた者たちの間を抜け、怒号と炎の中を進んできたはずなのに、男だけが戦の外側にいた。

 まるで、この夜に招かれていない者のように。


 天井が低くうなる。

 はりが裂け、火の粉が降る。

 熱が肌を刺し、鎧の内側で汗が冷えた。


 それでも、男の足取りは変わらない。

 怒号も悲鳴も炎の音も、踏み出すたびに背後へ落ちていく。

 男の耳には、自分の足音だけが残っていた。


  男は扉の前で立ち止まる。

 向こう側には、まだ火が届いていない。

 血の匂いだけが、薄く漏れていた。


 剣の柄に手を置く。

 力は込めない。

 ただ、そこにあることを確かめるだけだった。


 背後で誰かが叫ぶ。

 名を呼んでいるようにも聞こえた。

 だが、もう遠い。


 男は振り返らない。


 扉の向こうに、この夜の目的がある。

 それだけが確かだった。


 扉の向こうは静かだった。

 ただ一人を除いて、もう動く者はいない。


 床には死体が伏していた。

 数は多くない。

 だからこそ、それが精鋭であったことがわかる。

 誰も逃げようとはしていなかった。誰も背を向けてはいなかった。

 そのすべてが、覇王へ届く前に急所を断たれている。


 血はまだ温かい。

 床に広がった赤から、湯気のようなものが立ち上っていた。


 その中央に、覇王がいた。


 剣を下げ、肩で息をしている。

 鎧は裂け、返り血が頬にこびりついている。

 それでも膝は折れていない。

 目だけが、焼け落ちる聖域の中でなお冴えていた。


 男が姿を現すと、覇王の目がわずかに揺れた。

 それは驚きではなかった。

 恐れでも、怒りでもない。


「……来たか」


 かすれた声だった。

 だが、その響きには奇妙な安堵があった。


 男は答えない。

 剣を抜かず、距離も詰めない。

 ただ、そこに立つ。


 覇王は視線を男から外し、足元の死体を一瞥いちべつした。


「骨のある連中だった」


 それだけ言って、喉を鳴らすように笑う。

 愉快そうでもあり、どこか壊れているようでもあった。


 外から怒号が割り込む。


「中を押さえろ!」

「逃げ道を潰せ!」

「首を取れ!」


 火の粉が扉の隙間から吹き込み、床を焦がした。


 覇王は剣を握り直さない。

 命令もしない。

 男に向けて、何かを求めることもない。


「悪くない人生だった」


 誰に向けた言葉でもない。

 自分の罪も、功も、敗北さえも呑み込んだ声だった。


 男は一歩、踏み出す。

 覇王の目が、静かに細められた。


 その一歩で、言葉は尽きた。


 覇王はわずかに口角を上げる。

 それは敵を見る顔ではなかった。

 友を迎える目だった。


「……最後の敵がお前か。悪くない」


 男は剣に手をかける。

 ためらいはない。

 迷いなど、とうに捨てた。


 刃が鞘を離れた瞬間、空気が一段重くなった。

 この場所で交わす言葉は、もう残っていない。


 一合目で、勝敗は見えた。


 覇王の剣は重い。踏み込みも鋭い。

 刃が振り抜かれるたび、空気が裂け、床石が削れる。

 だが、届かない。

 男は半歩ずれるだけで、そのすべてを外した。


 二合目。

 覇王の刃が、男の首筋をかすめる。

 紙一重ではない。

 男が、そう見せただけだった。


 剣は触れ合わない。

 火花も散らない。

 覇王の重みは、受け止められることなく空を斬る。


 それでも覇王は笑った。

 歯を見せ、喉を鳴らす。

 愉快そうに。

 何かを確かめた者のように。


「……そうだ」


 男は答えない。

 ただ、剣を返す。


 三合目。

 覇王の刃が肩を狙う。

 殺しにいく軌道だった。


 男は踏み込む。

 真正面から、斬線ざんせんの内側へ。

 鎧が擦れ、熱が皮膚を舐める。

 刃は男の背後を抜け、代わりに男の剣が覇王の腕を裂いた。


 血が噴く。

 剣を握る手が、わずかに遅れた。


「来い」


 覇王が吠えた。

 命令ではない。

 挑発でもない。

 ただ、友に続きを促すような声だった。


 男は応じる。

 剣を振るう速度が上がった。


 斬る。外す。斬る。

 覇王の足場を奪い、呼吸を乱し、剣を遅らせる。

 逃げ道は与えない。

 だが、終わらせもしない。


 外の声が割り込む。


「中だ、まだ生きてる!」

「火を回せ、逃がすな!」

「首を灰にするな!」


 炎が近づく。

 天井が鳴る。

 それでも二人は動じない。


 四合目、五合目。

 覇王の剣が遅れる。

 足が滑り、体勢が崩れる。


 男はその瞬間を見逃さない。

 剣を弾き、距離を詰める。

 刃が、覇王の喉元で止まった。


 覇王は目を閉じない。

 ただ、満足そうに息を吐く。


「……これでいい」


 それが最後の言葉だった。


 男は躊躇ちゅうちょしない。

 刃を引く。

 速く、短く、正確に。


 血が一筋、空へ散った。

 崩れ落ちるより先に、男の手が覇王を支えた。


 世界はまだ騒がしい。

 戦は続き、火は広がっている。

 だが、この場で終わったものだけが、異様な静けさを保っていた。


 男は倒れゆく身体を支える。

 乱暴には扱わない。

 急ぎもしない。

 友を抱く手つきだった。


 感情はない。

 ただ、空白だけがある。


 やがて、腕の中に残された重さを確かめる。

 布を広げ、包み、胸に抱いた。

 誰の手にも触れさせぬように。


 それは勝利の証ではなかった。

 この夜から奪い去るべき、最後のものだった。


 時代を動かした中心が、ここで断ち切られた。


 それでも、外の戦の音は止まらない。


 男は歩き出す。


 聖域の外は、まだ夜だった。

 炎は高く上がり、火の粉が風に乗って流れていく。

 熱にかれた空気が揺れ、瓦礫がれきの影が歪む。


 勝っているのか。

 負けているのか。

 それすら、もう男には関係がなかった。


 腕の中のものを、抱え直す。

 布越しの重さだけが、確かだった。


 誰にも渡してはならない。

 誰にも見せてはならない。


「――誰だ、そこにいる!」


 遠くで声が上がる。

 別の方向からも怒号が重なった。


「逃がすな!」

「首はどこだ!」

「覇王の首を探せ!」


 男は振り返らない。

 問われた名に、答える声はない。


 呼び止める声は背後へ落ち、やがて炎の爆ぜる音に溶けていく。


 歩くたび、血に濡れた地面が靴底に絡みついた。

 その感触すら、次第に遠のいていった。


 聖域の影が背後で崩れ落ちる。

 轟音とともに火柱が夜を裂いた。

 それでも男は立ち止まらない。


 誰かが勝ち、誰かが負ける。

 だが、時代を動かした中心は、確かに失われた。


 覇王は死んだ。


 その夜、一つの時代が終わった。


 後に人々は、この夜をいくつもの名で呼ぶ。

 謀反。

 天罰。

 革命。

 英雄の最期。


 だが、どの記録にも同じ一文が残された。


 覇王の首は、ついに見つからなかった。


 そして、討ち取った者の名を呼ぶ者もいなかった。

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