2.目を覚ます
目を覚ましたとき、最初に感じたのは違和であった。
天井が低い。いや、低いのではない。見慣れていたものと違うだけだ。木で組まれた梁、紙を張った壁、そして静かな空気。
――これは、平安の世の住まいである。
そう理解するまでに、さほど時間はかからなかった。
(……なるほど、そういうことか)
混乱はなかった。むしろ妙に冷静であったと思う。前世において歴史を専門としていた身として、この状況を理解するのは難しくなかった。
ただ一つ問題があるとすれば――
(なぜ、私が当事者になっているのか)
それだけである。
しばらくして、自分の置かれている状況も見えてきた。
どうやら私は、学者の家に生まれた子どもであるらしい。周囲の言葉や振る舞いから判断するに、家柄は決して低くはないが、権力の中枢というわけでもない。
(菅原の家……か)
名はまだ幼くして定かではないが、いずれ私は菅原道真として知られることになるのだろう。
そう考えると、奇妙な感覚であった。
歴史として知っていた人物に、自分自身がなっている。
それは、決して愉快なものではない。
(無難に生きよう)
最初にそう思ったのは、ごく自然なことであった。
この時代は、決して穏やかなだけの世ではない。貴族社会は見た目以上に厳しく、少しの判断の誤りが命取りになることもある。ましてや、藤原氏の影響力は大きい。歴史を知る身として、その流れに逆らうことの危うさも理解していた。
(目立たず、しかし沈まず――それが肝要であろう)
幼い身体には似つかわしくない思考であるが、こればかりはどうしようもない。
やがて、私は文字を学ぶようになった。
筆を持たされたとき、わずかな違和があった。だが、それはすぐに消えた。手は自然に動き、文字を形作っていく。
一画、一画に迷いはない。
それを見た父は、わずかに目を見開いた。
「……ほう」
その一言だけであったが、十分であった。
(しまったか)
ほんのわずか、やりすぎたかもしれない。
子どもらしからぬ筆致。整いすぎた文字。これは明らかに不自然である。
だが、今さら崩すのも不自然であろう。
(……次からは、少し抑えるとしよう)
その日のうちに、私は一つ学んだ。
――この世界では、才能は武器であると同時に、目立つ刃でもある。
それをどう扱うかで、生き方は大きく変わる。
後日、簡単な算術を問われたときも同様であった。
答えはすぐに出た。だが、あえて間を置き、少し考える素振りを見せる。
「……このようになるかと」
そう答えると、周囲は静かに頷いた。
「よくできておる」
その評価は、過不足のないものであった。
(これでよい)
称賛されすぎず、しかし侮られもしない。
この程度が、今の私にはちょうどよい。
天才である必要はない。
凡庸である必要もない。
ただ――
(無難に、生き延びる)
それだけでよいのである。
だが、この時の私はまだ知らなかった。
この「無難」という選択が、やがて周囲の評価を静かに、しかし確実に積み上げていくことになるということを。
そしてそれが、思いもよらぬ道へと繋がっていくことも――。




