シェイクスピアと恋心と真田晶
教室全体が、半分眠っているようだった。
キランも、生徒たちを完全に責める気にはなれなかった。
一時間目なのだ。
照明は少し暗い。
誰にも頼まれていない毛布のように暖かな空気が教室を包み込み、あらゆる音の輪郭をぼやけさせ、薄暗い照明をさらに重く感じさせていた。
換気口から聞こえる微かな音。
眠そうなタブレットの光。
半分寝たままの生徒たちが、ゆっくりと身体を動かす音。
一時間目の教室は授業というより、睡魔との静かな戦争と化していた。
そして今日のテーマは――
シェイクスピア。
またしても。
何人かの生徒は、タブレットを虚ろな目で見つめている。
机に突っ伏している者もいた。
一人に至っては、目を開けたまま眠ろうとしているように見える。
キランは少し感心した。
「みんな、おはよう」
数人の生徒が、挨拶らしき何かを呟いた。
一人が気だるそうに手を振る。
別の一人はうめいた。
キランは笑顔を浮かべた。
「素晴らしい活気だな」
誰も笑わなかった。
教室のディスプレイの隅に、マッハのアイコンが現れる。
『教室内の意欲を12パーセントと推定します』
「思ってたより高いな」
『その数値は、一人の生徒によって維持されています』
キランは最前列へ視線を向けた。
一人の女子生徒が元気いっぱいに手を挙げている。
「おはようございます、キリアン先生!」
「いたな」
12パーセントの正体が。
◇ ◇ ◇
キランは教室の前方へ移動した。
「よし」
「いい知らせがある」
何人かが顔を上げた。
「今日が終われば、シェイクスピアについての課題はもう出さない」
教室が一瞬で活気づいた。
生徒たちが姿勢を正す。
目が見開かれる。
そこに希望が生まれた。
キランは少し待った。
そして笑った。
「嘘だけど」
教室全体を揺らすほどのうめき声が上がった。
一人は本当に額を机へ叩きつけた。
別の生徒は小声で祈り始めた。
キランは少しだけ罪悪感を覚えた。
本当に少しだけ。
◇ ◇ ◇
「今日は『ヘンリー五世』について話す」
プロジェクターが点灯する。
スクリーンに一つの台詞が表示された。
キランは軽く咳払いした。
そして、声に出して読み始める。
教室は徐々に静かになっていった。
どれだけ文句を言っていても、シェイクスピアの言葉には人を惹きつける不思議な力がある。
リズム。
言葉。
感情。
ほんのわずかな時間だけ。
生徒たちは耳を傾けた。
本当に、耳を傾けていた。
読み終えたキランは教室を見回した。
「よし」
「ここで王は、“義務”について何を言っている?」
沈黙。
何もない。
予想すら出てこない。
キランは待った。
まだ何もない。
すると、一人の生徒がおそるおそる手を挙げた。
希望が湧いた。
「はい」
「“義務”って、王様が話してる相手の名前ですか?」
キランは目を閉じた。
ほんの一瞬だけ。
マッハのアイコンが同情するように点滅した。
『お悔やみ申し上げます』
◇ ◇ ◇
ようやくチャイムが鳴った。
生徒たちは驚くほどの速さで教室から飛び出していった。
正直、感心するほどだった。
キランは、彼らが消えていくのを見送った。
今日もまた一日。
文学との戦争における、新たな敗北。
『努力はしました』
マッハの声は、本気で慰めているようだった。
「ありがとよ」
『彼らが内容を理解したとは思えません』
「ありがとよ、マッハ」
◇ ◇ ◇
教室から生徒たちがいなくなると、キランは廊下へ出た。
校内は活気に満ちている。
生徒たちは次の授業へ移動し、教師たちは授業の準備を進め、無数の会話が校舎中に響いていた。
そして廊下の向こう側には――
彼女がいた。
美香・マッキントッシュ。
キランは反射的に視線を反対側の壁へ向けた。
突然、その何の変哲もない壁が、この世で最も興味深いものになったかのように。
だが、首筋に熱が広がっていく。
そして慌てて視線を逸らしたせいで、むしろ余計に目立ってしまった。
まるで一言も発していないのに、廊下中へ自分の片想いを宣言してしまったようだった。
遅かった。
マッハは、とっくに気づいている。
『センサーが心拍数の上昇を検出しました』
「黙れ」
『16パーセント上昇しています』
「マッハ」
『またマッキントッシュ先生を見ていますね』
「見てない」
『今、明確に見ました』
キランは本気でマッハの電源を引っこ抜きたくなった。
美香が、生徒の一人が言った何かに笑う。
その笑い声が廊下の向こうから聞こえてきた。
キランは思わず微笑んだ。
優しい人だった。
辛抱強くて。
そして、生徒たちから本当に好かれているタイプの教師。
正直、不公平だと思う。
「キリアン先生?」
その声がキランの思考を遮った。
振り返る。
教室の入口付近に、一人の生徒が残っていた。
真田 晶。
細身。
物静か。
長い黒髪が片目にかかっている。
できるだけ誰からも気づかれないように努力している。
そんな生徒だった。
「ああ」
「晶」
晶は気まずそうに身体を動かした。
「話があるって……?」
「ああ、そうだった」
キランはついてくるよう手で合図した。
二人は、少し静かな廊下へ移動する。
周囲を生徒たちが次々と通り過ぎていった。
ほとんどの者は、晶に注意を払っていない。
キランは、それに晶が少し安心していることに気づいた。
「お前のレポートなんだけど」
晶は即座に顔をしかめた。
「そんなに酷かったですか?」
キランは瞬きをした。
「酷い?」
「晶、お前のレポート、最高だったぞ」
晶は心底驚いたように顔を上げた。
「本当に?」
「今学期に読んだ中でもトップクラスだ」
晶は床を見つめた。
「……そうですか」
それだけだった。
ただ、それだけ。
まるで褒められるという経験そのものに慣れていないようだった。
キランはわずかに眉をひそめた。
「そういうこと、あんまり言われないのか?」
晶は肩をすくめる。
「……あんまり」
その答えが、なぜかキランの胸に引っかかった。
◇ ◇ ◇
二人はそのまま話を続けた。
最初、晶の返事は短かった。
一言だけ。
小さく肩をすくめるだけ。
目も合わせようとしない。
だが、話題が文学や文章を書くことへ移っていくにつれて――
何かが変わった。
晶は少しずつ心を開いていった。
次々と言葉が出てくる。
アイデア。
考え。
解釈。
疑問。
授業中はほとんど口を開かない少年が、突然止まらないほど話し始めた。
キランは微笑んだ。
――いた。
これが、本当の晶だ。
◇ ◇ ◇
「じゃあ、なんで授業では質問に答えないんだ?」
晶の表情が、すぐにまた曇った。
「わかりません」
「いや、わかってるだろ」
長い沈黙。
そしてようやく――
「……間違ってたらどうするんですか?」
キランは頷いた。
出た。
これが本当の答えだ。
「じゃあ、正解だったら?」
晶は瞬きをした。
「それは……別です」
「何が?」
晶は答えられなかった。
◇ ◇ ◇
キランは少し考えた。
それからマッハへ視線を向ける。
ヴェントは、すでに意図を理解していた。
小さな収納スペースが開く。
ロボットアームが一本伸びる。
機械の手には、一枚のカードが載っていた。
晶はそれを見つめた。
「何ですか、それ?」
「個別指導プログラム」
晶は即座に首を振った。
「無理です」
「なんで?」
「絶対向いてないです」
キランは笑った。
「お前、さっき『ヘンリー五世』についてクラスの半分より上手く説明してただろ」
「それは別です」
「お前、そればっかりだな」
晶は視線を逸らした。
カードは差し出されたまま。
ただ静かに待っている。
◇ ◇ ◇
そしてようやく――
本当にゆっくりと――
晶はカードを受け取った。
あまりに小さな動きで、キランも危うく見逃すところだった。
晶はカードをじっと見つめる。
そして、ため息をついた。
「……わかりました」
キランは笑顔になった。
「いいのか?」
「はい」
晶は首の後ろを擦った。
「でも……先生もいてくれるなら」
キランは笑った。
「約束する」
晶は頷いた。
そして今日初めて、本当の笑顔を見せた。
大きな笑顔ではない。
ほんの小さなもの。
けれど――
本物だった。
それだけで、勝利したような気分になった。
◇ ◇ ◇
晶は廊下の向こうへ消えていった。
キランは、その後ろ姿を見送った。
「見たか?」
マッハのアイコンが現れる。
『見ていました』
「少し前進したと思わないか?」
『私もそう思います』
キランは微笑んだ。
教師という仕事は、いつもテストの点数だけで決まるわけではない。
成績だけでもない。
時には――
一人の生徒に、自分が思っている以上のことができるのだと気づかせてやる。
ただ、それだけでいい時もある。
そして正直――
そういう瞬間があるからこそ、
この仕事には、すべての苦労に見合う価値があるのだ。
◇ ◇ ◇
残念ながら……
今日の平和な時間は、ここまでだった。
なぜなら――
学校の外から、
誰かの悲鳴が聞こえてきた。




