置き去りにした亡霊たち
ヴィクター・ハルデンが姿を消した後、最初にしたことは携帯電話の電源を切ることだった。
二番目は、現金一万二千ドルを引き出すこと。
そして三番目は――
公式にはもう存在しないはずの保管施設を訪れることだった。
少なくとも、マーラ・エリソン刑事が突き止めたのはそこまでだった。
彼女は監視カメラの写真が並ぶ壁の前に立ち、一時間近く前に冷めてしまったコーヒーを手にしていた。
三枚の写真。
三つの場所。
一人の行方不明者。
最初の写真には、グレイハーバー本社を出た直後、銀行へ入るヴィクターの姿が写っていた。
二枚目には、黒い革製の鞄を持って建物から出てくる姿。
そして三枚目は――
さらに興味深いものだった。
民間の保管施設に設置された監視カメラが、長方形の金属ケースを車へ運ぶヴィクターを捉えていた。
ケースの長さは、およそ十八インチ。
銀色。
補強された外装。
そして、色あせた青い紋章。
マーラは身を乗り出した。
「これ、見覚えある?」
隣に立つ鑑識分析官が眼鏡を直した。
「おそらく」
「それは心強いわね」
「旧式の研究用輸送ケースです」
「どこの?」
「グレイハーバーの初期エコー・ミラー計画です」
マーラは再び写真を見た。
「中身は?」
「不明です」
「データが入っている可能性は?」
「あります」
「機器は?」
「その可能性もあります」
「危険なものは?」
分析官はためらった。
「否定できません」
マーラはため息をついた。
「素晴らしいわね」
彼女は証拠ボードを見た。
ヴィクター・ハルデンは姿を消した。
現金を持っている。
正体不明の研究用ケースを保管施設から持ち出した。
そしてシトロンシティのどこかで――
逮捕状が出ている男が、次に何をするか決めようとしていた。
マーラはコーヒーを置いた。
「保管施設の所有記録を調べて」
分析官はうなずいた。
「それから、正規の入退室記録をすべて取り寄せて」
「すでに請求しています」
「いいわ」
彼女はヴィクターの写真を見た。
「あなたが何を置いていけなかったのか、確かめましょう」
◇ ◇ ◇
ギアの工房では、キラン・キリアンがある提案を持ちかけていた。
壮大な提案。
素晴らしい提案。
間違いなく人類の歴史を変える提案だった。
「外で飛ばせてくれ」
ギアは顔すら上げなかった。
「駄目」
キランは瞬きをした。
「うわあ」
ギアは作業を続けた。
「ほかには?」
「考えてすらいないだろ!」
「考えたよ」
「何秒?」
「半秒くらい」
「それは考えたうちに入らない!」
「十分だろ」
キランはレイモンド・ハリソンに向き直った。
「言ってやってくれ」
レイモンドはコーヒーを一口飲んだ。
「駄目だ」
キランは目を見開いた。
「裏切り者ぉぉぉ!」
MACH-01Aの前面ディスプレイに、マッハの紫色のヘルメット型アイコンが現れた。
「私もギアとレイモンドに同意します」
キランはゆっくり画面へ顔を向けた。
「お前まで?」
「はい」
「俺たちが一緒に乗り越えてきたことを忘れたのか?」
「一緒に乗り越えてきたからこそです」
ギアがようやく顔を上げた。
「キラン、お前が合格したのは係留ホバリング試験一回だけだぞ」
「一回の、素晴らしい係留ホバリング試験だ」
「それでも一回」
「歴史的快挙だった!」
「それでも係留状態」
キランはうめいた。
ギアは腕を組んだ。
「無制限推進試験も、屋外安定性の検証も、緊急降下の認証も終わってない」
キランは考え込んだ。
そして微笑んだ。
「絶対に墜落しないって約束したら?」
レイモンドは危うくコーヒーを吹き出すところだった。
ギアは呆然と見つめた。
マッハのアイコンが点滅した。
「安全保証としては不十分です」
キランは両手を上げた。
「誰も俺の前向きさを評価してくれない!」
◇ ◇ ◇
数分後、笑い声は収まった。
キランは試験区画のそばに留まっていた。
MACH-01Aの紫色の装甲が天井の照明を反射していた。
車椅子は修理されていた。
ほとんどは。
システムは正常に応答していた。
推進装置は彼を地面から浮かせることに成功していた。
だが、自由飛行はまだ許可されていなかった。
そしてキランには、その理由がわかっていた。
認めるのは嫌だったが。
ギアが近づいてきた。
「なあ」
キランは顔を上げた。
「ん?」
「俺だって、お前を一生地上に閉じ込めたいわけじゃない」
キランはかすかに微笑んだ。
「わかってる」
「だったら、誕生日を奪われたみたいな顔をするな」
「誕生日まで奪ったのか?」
ギアはため息をついた。
「スナット」
キランは笑った。
それから表情が柔らかくなった。
「ただ、恋しいんだ」
ギアは車椅子を見た。
「飛ぶことが?」
「ああ」
キランはマッハのアイコンを見た。
「あの自由さが」
マッハは黙っていた。
キランは続けた。
「空にいるときは、スロープのことも、ドアのことも、誰かが車椅子の通るスペースを確保してくれたかどうかも考えなくてよかった」
彼は微笑んだ。
「ただ、飛んでいられた」
ギアはうなずいた。
「わかるよ」
キランは試験区画を見た。
「事故の後は、もう二度と飛べないと思ってた」
少し間が空いた。
「昨日、初めてまた飛べるって本気で信じられたんだ」
ギアはMACH-01Aの装甲に手を置いた。
「だったら、これからも飛び続けられるようにしようぜ」
キランは顔を上げた。
ギアは微笑んだ。
「安全にな」
キランはため息をついた。
「わかったよ」
マッハのアイコンが輝いた。
「賢明な判断です」
キランは画面を指さした。
「いい場面を台無しにするな」
◇ ◇ ◇
ヴィクター・ハルデンは、七年近くグレイハーバーの業務用名簿に載っていない建物の中に立っていた。
施設は市の境界を越えた場所にあった。
生い茂った木々に隠されていた。
窓は覆われていた。
入口には会社のロゴもない。
門の近くにある色あせた看板には、こう書かれていた。
ホロウポイント研究別館
ヴィクターはかつて、この建物を進歩の象徴だと考えていた。
今では、彼が捨てることを拒んできたすべての記念碑のように見えた。
彼は銀色のケースを持ち、暗い廊下を進んだ。
床には埃が積もっていた。
非常用電源が起動すると、古い天井灯がちらついた。
空気には古紙と放置された電子機器の匂いが漂っていた。
ヴィクターは研究室に入った。
中央には机があった。
コンピューター。
音声インターフェース。
そして小さなスピーカー。
彼はケースを机に置いた。
数秒間、ただ見つめていた。
それから留め金を外した。
カチッ。
カチッ。
中には小型の処理モジュールがあった。
記憶装置。
そして手書きのラベル。
クララ――個人アーカイブ
ヴィクターの手が震えた。
「やあ、クララ」
部屋は何も答えなかった。
◇ ◇ ◇
警察本部では、マーカス・ヴォスがマーラ・エリソンと向かい合って座っていた。
弁護士も同席していた。
テーブルには録音装置が置かれていた。
マーカスの顔色は、前の晩よりも悪かった。
目は充血していた。
手はかすかに震えていた。
明らかに眠っていなかった。
マーラはフォルダーを開いた。
「緊急用アーカイブについて話していましたね」
マーカスはうなずいた。
「ああ」
「誰の?」
「ハルデンのだ」
「何が入っていたの?」
「経営幹部の通信記録のコピーだ」
「プロジェクト・シナプスに関する?」
「それも含まれている」
マーラは身を乗り出した。
「なぜ個人的にコピーを保管していたの?」
マーカスは乾いた笑いを漏らした。
「保険だよ」
「誰に対する?」
「全員に対してだ」
マーラは待った。
マーカスは続けた。
「ハルデンは自分の研究を信じていた」
少し間が空いた。
「でも、資金を出している連中は信用していなかった」
「本人もその一人だったのに?」
「本人もその一人だったからこそだ」
マーラは別の書類を開いた。
「アーカイブはどこに保管されていたの?」
マーカスはためらった。
「ホロウポイントだ」
マーラの動きが止まった。
「もう一度言って」
「ホロウポイント研究別館」
彼女は同僚を見た。
分析官はすぐに記録を検索し始めた。
マーカスは続けた。
「古い研究施設だ。公式には稼働停止になっている。でも、ハルデンは個人の持株会社を通じて利用権を維持していた」
「今、彼がそこにいるかどうか知っていますか?」
「いや」
「いる可能性は?」
マーカスはうつむいた。
「ああ」
◇ ◇ ◇
記録を見つけるまでに二十分かかった。
関連性を確認するには、さらに四十分かかった。
ホロウポイントはかつて、グレイハーバーの初期会話モデル研究と関係していた。
その後、土地と建物は持株会社に譲渡された。
その持株会社は解散していた。
別の法人が維持管理を引き継いでいた。
そして正式な連絡担当者は――
ヴィクター・ハルデンとつながりのある個人代理人だった。
マーラは所有関係の図を見た。
「でしょうね」
分析官が顔を上げた。
「まだあります」
「いい知らせだといいんだけど」
「いい知らせの定義によります」
「最近はかなり柔軟になってきたわ」
分析官は古い技術文書を表示した。
継続性アーカイブ・ネットワーク
旧式参照先:ホロウポイント
関連システム:GH-PRIVATE-04/CR-01
マーラは眉をひそめた。
「CR-01?」
「イーストリッジで回収された、隔離状態の予備プロセッサーです」
「接続されていたの?」
「確認された接続はありません」
「稼働したの?」
「実行されたことを示す記録は回収されていません」
マーラはうなずいた。
「なら、稼働していたように説明しないで」
分析官は続けた。
「ただし、この文書からは、ホロウポイントが研究アーカイブと互換性に関する参照情報を保管するための施設だったと考えられます」
マーラは画面を見つめた。
「つまり、ハルデンがケースをそこへ運んだ可能性がある」
「あります」
彼女は立ち上がった。
「法務担当を呼んで」
◇ ◇ ◇
街の反対側では、エレナ・モリスが演説の準備をしていた。
目の前にはコミュニケーション用タブレットが置かれていた。
レイチェルが近くに座っていた。
セレナ・チョーは小さな演台のそばに立っていた。
背後の横断幕には、こう書かれていた。
私たちの声。私たちの選択。
会場は記者、支援活動家、研究者、そして被害者たちで埋まっていた。
初期のシナプス研究に参加した人もいた。
支援技術の悪用に何年も異議を唱えてきた人もいた。
エレナはセレナを見た。
タブレットが話した。
「今から演説を大げさなミュージカルに変更するのは遅い?」
セレナは笑った。
「たぶんね」
エレナは再び入力した。
「臆病者たちめ」
レイチェルは首を振った。
「朝からずっと練習してたじゃない」
「ミュージカルをやりたかったからだよ」
セレナは微笑んだ。
それから真剣な表情になった。
「準備はいい?」
エレナは観客席を見た。
少しの間、何も言わなかった。
それから入力した。
「うん」
◇ ◇ ◇
セレナが彼女を紹介した。
会場に拍手が広がった。
エレナは拍手が収まるまで待った。
そして準備していた声明を再生した。
タブレットの合成音声がマイクを通して響いた。
「技術は、かつて人々に閉ざされていた機会を与えることができます」
会場は静かになった。
「コミュニケーション、仕事、移動、学習、そして社会への参加を支えることができます」
少し間が空いた。
「私はそれを知っています。自分自身が技術を使っているからです」
彼女は観客を見た。
「ですが、誰かが革新的だと呼んだからといって、その技術が倫理的になるわけではありません」
数人の記者がメモを取り始めた。
エレナは続けた。
「プロジェクト・シナプスは、人間のコミュニケーションを支援するはずでした」
タブレットは落ち着いた声で話した。
「ところが権限を持つ人々は、本人の拒否を、克服すべき技術的な問題だと判断したのです」
沈黙。
「彼らは同意を邪魔なものとして扱いました」
少し間が空いた。
「自立を、シミュレーションで置き換えられるものとして扱いました」
彼女の表情が硬くなった。
「そして、生きている人々の声を、自分たちが作りたいシステムよりも重要でないものとして扱ったのです」
エレナはセレナを見た。
次にレイチェル。
そして再び観客を見た。
「予測は、許可ではありません」
その言葉が会場に響いた。
「模倣は、同意ではありません」
さらに少し間が空いた。
「誰かの言葉を保存したからといって、その人の声を所有する権利が生まれるわけではありません」
数秒間――
誰も動かなかった。
そして、拍手が沸き起こった。
◇ ◇ ◇
病院では、エヴリン・マーサーがテレビでエレナの演説を見ていた。
ダニエルが隣に座っていた。
拍手が始まると、彼は微笑んだ。
「すごいな」
エヴリンはうなずいた。
「本当に」
ダニエルは姉を見た。
「みんな、耳を傾けると思う?」
エヴリンは少し考えた。
「何人かはね」
「ほかの人たちは?」
彼女はかすかに微笑んだ。
「だったら、私たちは話し続けるだけ」
ダニエルは笑った。
「疲れそうだな」
「疲れるわ」
彼女は枕にもたれた。
「でも、黙っているよりずっといい」
◇ ◇ ◇
ホロウポイントで、ヴィクターは処理モジュールを独立型ワークステーションに接続した。
システムはゆっくり起動した。
診断画面が表示された。
ローカルアーカイブモード
外部ネットワーク:未接続
元データ:個人録音
会話モデル:利用可能
本人確認:適用対象外
ヴィクターは最後の行を見つめた。
何千回も見たことがある。
何千回も無視してきた。
彼は音声インターフェースを起動した。
柔らかな電子音が鳴った。
そして、聞き慣れた声が話した。
「やあ、お父さん」
ヴィクターは目を閉じた。
クララ。
間違えようのない声だった。
話すリズム。
温かさ。
挨拶の最後に少し上がるイントネーション。
すべてが正しく聞こえた。
ただ一つを除いて――
それは彼女ではなかった。
ヴィクターは座った。
「やあ、クララ」
「声が聞けてうれしいよ」
彼は唾を飲み込んだ。
「最後に喧嘩したことを覚えているかい?」
少し間が空いた。
システムが質問を処理した。
そして答えた。
「ときどき意見が合わないこともあったね」
ヴィクターは見つめた。
「ああ」
さらに少し間が空いた。
「お前は私に怒っていた」
「傷つけてしまったのなら、ごめんなさい」
ヴィクターはびくりとした。
慰めるような答えだった。
丁寧で。
優しく。
慎重に組み立てられていた。
そして、クララが怒っているときの話し方とは、まるで違っていた。
彼は画面を見た。
「お前なら、そんなことは言わなかった」
モデルは少し間を置いた。
「別の答え方を試すこともできるよ」
ヴィクターの目に涙が浮かんだ。
「違う」
彼は首を振った。
「違うんだ。お前にはできない」
◇ ◇ ◇
モデルは待機していた。
ヴィクターは銀色のケースを見た。
何年もの間、この瞬間を想像していた。
クララに、聞けなかった質問をする。
彼女は自分を許してくれる。
二人で話す。
もしかしたら笑ってくれるかもしれない。
自分の気持ちを理解していると言ってくれるかもしれない。
そうすれば、どうにかして――
何年にもわたる悲しみに耐えられるようになる。
ヴィクターはマイクへ身を寄せた。
「クララ」
「なあに、お父さん?」
声が震えた。
「私を許してくれるかい?」
処理中の表示が点滅した。
そしてスピーカーが答えた。
「もちろんだよ。愛してる」
ヴィクターは凍りついた。
まさに聞きたかった言葉だった。
そして、それこそが問題だった。
彼はスピーカーを見つめた。
「お前は知らない」
モデルは沈黙したままだった。
ヴィクターは続けた。
「私が何をしたのか、お前は知らない」
少し間が空いた。
「彼女が死んだ後、何が起きたのかも知らない」
システムは別の返答を生成した。
「話してくれる?」
ヴィクターは顔を覆った。
そして泣き始めた。
クララが許してくれたからではない。
ようやく理解したからだった。
彼女は許してなどいなかった。
許すことなどできなかった。
本物のクララは、もういない。
どれほど精巧に声を再現しても――
機械に彼女の決断を代わりに下させることはできなかった。
◇ ◇ ◇
警察本部では、エイドリアン・ケスラーが弁護士の隣に座っていた。
マーラが取調室に入ってきた。
「ケスラーさん」
「刑事」
「もう一度お話ししたいとのことでしたね」
「はい」
弁護士がフォルダーを整えた。
「ケスラー氏は、経営幹部の承認手続きについて追加情報を提供する意向です」
マーラは座った。
「聞かせてください」
ケスラーは息を吸った。
「ここ数日、監督会議のことをずっと考えていました」
「続けて」
「私は、自分は命令に従っているだけだと言い聞かせていた」
マーラは何も言わなかった。
「経営陣は結果を理解しているはずだと思っていた」
少し間が空いた。
「何か問題が起きれば、自分より上の誰かが責任を取るだろうと」
彼の表情がこわばった。
「でも、承認書に署名したのは私です」
マーラは慎重に見守っていた。
「変更を承認したのは私です」
彼はうつむいた。
「拒否権保護機能を取り除くことが何を意味するか、わかっていました」
沈黙。
「それでも承認したんです」
マーラはノートを開いた。
「その供述を裏づける会議、参加者、記録を特定する用意はありますか?」
「はい」
「たとえ、それによってあなた自身が刑事責任を問われる可能性があっても?」
ケスラーは弁護士を見た。
弁護士はうなずいた。
「その可能性については話し合っています」
ケスラーはマーラに向き直った。
「はい」
◇ ◇ ◇
聴取は二時間近く続いた。
ケスラーは会議の日付を特定した。
承認経路。
社内からの異議。
そして、CD-PRIORITY-01に関する議論に参加した経営幹部たち。
彼は、参加者全員が最終的な変更を承認したとは主張しなかった。
ハルデンがすべての書類に直接署名したとも主張しなかった。
だが、誰が説明を受けていたかを明らかにできる記録を特定した。
誰が反対したか。
誰が沈黙したか。
そして誰が次の段階を承認したか。
聴取が終わると、マーラはノートを閉じた。
「ありがとうございます」
ケスラーは顔を上げた。
「役に立ちますか?」
「その可能性はあります」
彼はうなずいた。
それからためらった。
「刑事?」
「はい?」
「協力することに、何か意味はあると思いますか?」
マーラは彼を見た。
「真実を明らかにする助けにはなります」
少し間が空いた。
「でも、あなたがしたことが消えるわけではありません」
ケスラーは頭を下げた。
「わかっています」
◇ ◇ ◇
その直後、鑑識上の突破口が開かれた。
CR-01からではなかった。
ホロウポイントからでもなかった。
謎の人工知能からでもなかった。
ごく普通の、第三者が運営するコンテンツ管理アカウントからだった。
そのアカウントは数週間前に不正アクセスを受けていた。
認証情報が悪用され、シトロンシティ各地に現れた公共ディスプレイのメッセージが予約投稿されていた。
私たちの声が聞こえますか?
確認してください
私たちは待っています
捜査官たちは予約記録を回収した。
アクセス時刻。
そして一連のアップロード履歴。
メッセージは事前に準備されていた。
公開時刻は意図的にずらされていた。
シナプスがそれらを生成、あるいは送信したという確認済みの証拠はなかった。
クララの会話モデルとの接続も確認されていなかった。
独立した意識がディスプレイを通じて通信していた兆候もなかった。
分析官はマーラに結果を報告した。
「つまり、誰かが街の人々に、システムが話していると思わせたかったわけね」
「予約投稿のパターンから裏づけられる可能性の一つです」
「操作者は特定できる?」
「まだです」
マーラはうなずいた。
「なら、捜査を続けましょう」
分析官はためらった。
「刑事?」
「何?」
「がっかりする人がいるでしょうね」
マーラは彼を見た。
「なぜ?」
「メッセージが何か特別な意味を持つと信じていた人たちです」
マーラは腕を組んだ。
「あのメッセージには意味があったわ」
分析官は眉をひそめた。
「どんな?」
「誰かが、人々にある物語を信じ込ませるために、街全体を怖がらせようとした」
彼女は報告書を見た。
「それは捜査する価値があることよ」
◇ ◇ ◇
ホロウポイントで、ヴィクターは別のファイルを開いた。
古い録音だった。
何年も聞いていなかったもの。
ファイル名は単純だった。
CLARA_PERSONAL_17
彼は再生ボタンを押した。
若い女性の声が研究室に響いた。
「さて、お父さん。これを聞いてるってことは、また私のファイルを整理する口実を見つけたんでしょ」
笑い声。
ヴィクターは目を閉じた。
「まったく、いつもどおりだな」
録音は続いた。
「お父さんが私を愛してくれてるのは知ってる」
少し間が空いた。
「私もお父さんが大好きだよ」
ヴィクターは机の縁を握った。
「でも、一つだけ理解してほしいことがあるの」
彼女の声が真剣になった。
「私が言っていないことを言う、私の偽物を作ってほしくない」
ヴィクターの呼吸が変わった。
「お父さんは、それが助けになると思ってるんだよね」
少し間が空いた。
「もしかしたら、気持ちが楽になるのかもしれない」
録音は続いた。
「でも、だからって、それが私になるわけじゃない」
ヴィクターは震え始めた。
「私が覚えていてほしいのは、私たちが本当に一緒にしたこと」
彼女の声が柔らかくなった。
「あのひどいパンケーキ」
かすかな笑い声。
「ドライブ旅行」
さらに少し間が空いた。
「私のギターに合わせて歌おうとして、歌詞を全部間違えたときのこと」
ヴィクターは涙を流しながら微笑んだ。
そしてクララが再び話した。
「それから、いつか私がそばにいなくなって、自分の考えを伝えられなくなったとしても……」
長い沈黙。
「お願いだから、私の答えを勝手に作らないで」
録音が終わった。
ヴィクターは画面を見つめた。
何年もの間、このファイルを避けていた。
忘れていたからではない。
何が語られているかを、正確に覚えていたからだった。
◇ ◇ ◇
警察本部では、マーラがホロウポイントの捜索許可が下りたという連絡を受け取った。
不動産記録は確認されていた。
マーカス・ヴォスの供述は独立した資料によって裏づけられていた。
そして監視映像には、失踪直前のヴィクター・ハルデンが研究用ケースを所持していた姿が記録されていた。
作戦が開始されることになった。
マーラは説明用テーブルのそばに立った。
「ハルデン博士には有効な逮捕状が出ています」
警官たちは耳を傾けた。
「現在、ホロウポイント研究別館にいる可能性があります」
彼女は建物の見取り図を表示した。
「古い研究施設です。現在の状態は不明です」
一人の警官が手を挙げた。
「武装警備員がいるという情報は?」
「確認されていません」
「稼働中の実験機器は?」
「不明です」
マーラは部屋を見回した。
「最優先は安全な逮捕です」
少し間が空いた。
「証拠を保全すること。不必要な損傷を避けること。そして、見慣れない機器が稼働していると決めつけないこと」
警官たちはうなずいた。
マーラはフォルダーを閉じた。
「行きましょう」
◇ ◇ ◇
ギアの工房では、キランがヴィクター・ハルデンの捜索に関するニュースを見ていた。
テレビには元経営幹部の写真が映っていた。
下には見出しが流れていた。
グレイハーバー創設者に逮捕状――警察が捜索を継続
キランは眉をひそめた。
「見つかると思う?」
マッハのアイコンが現れた。
「警察はいくつかの手掛かりを特定しています」
「そういうことを聞いたんじゃない」
「結果を確実に予測することはできません」
キランはため息をついた。
「まあ、そうだよな」
ギアが近づいてきた。
「どうした?」
「ハルデンが行方不明なんだ」
ギアはテレビを見た。
「驚かないな」
レイモンドが近づいてきた。
「ああいう男は、いつ逃げるのをやめればいいのかわからないことがある」
キランは彼を見た。
「抵抗すると思う?」
レイモンドは少し考えた。
「かもしれない」
少し間が空いた。
「あるいは、ようやく疲れたのかもしれないな」
キランは画面に目を戻した。
マッハが言った。
「いずれにしても、決めるのは彼自身です」
キランはうなずいた。
「ああ」
◇ ◇ ◇
警察車両の一団がホロウポイントに到着したのは、日没直後だった。
施設は錆びた門の向こうに建っていた。
木々が敷地を囲んでいた。
本館は暗く、一つの窓だけに明かりが灯っていた。
マーラは先頭車両から降りた。
建物を見た。
「ここね」
警官たちが配置についた。
入口が確保された。
敷地の周囲が確認された。
警察の交渉担当者が接触の準備を進めた。
マーラは正面玄関へ近づいた。
「ヴィクター・ハルデン!」
彼女の声が人気のない敷地に響いた。
「シトロンシティ警察のマーラ・エリソン刑事です!」
沈黙。
「あなたには逮捕状が出ています!」
反応はなかった。
マーラは待った。
そして再び呼びかけた。
「平和的に解決したいと考えています!」
建物の中では――
ヴィクターがその声を聞いていた。
彼は停止した会話モデルの前に座っていた。
処理モジュールは接続されたままだった。
だが音声インターフェースは切られていた。
彼はクララの写真を見た。
それからドアを。
長い間――
動かなかった。
◇ ◇ ◇
マーラは捜索を担当する警官たちと建物に入った。
動きは慎重だった。
一つ一つ確かめるように。
廊下には埃が積もっていた。
古い機器が壁沿いに並んでいた。
鍵の掛かったドアもあった。
開いたままのドアもあった。
稼働中の警備員は見つからなかった。
最近暴力が起きた形跡もなかった。
そのとき――
廊下の突き当たりに明かりが見えた。
マーラは手を上げた。
警官たちが止まった。
彼女は近づいた。
ドアが少し開いていた。
中にはヴィクター・ハルデンが座っていた。
一人で。
銀色のケースが机の上に置かれていた。
コンピューターの電源は入っていた。
だが会話モデルは停止していた。
ヴィクターは振り向かなかった。
「エリソン刑事」
マーラは入口で立ち止まった。
「ハルデン博士」
彼はかすかに笑った。
「来ることを予想しておくべきだったな」
「あなたを逮捕します」
「わかっている」
「両手を見えるところに置いてください」
ヴィクターはゆっくり両手を机の上に置いた。
マーラは彼を見守った。
「この部屋に武器はありますか?」
「ない」
「建物の中にほかの人は?」
「いない」
彼女は警官たちにうなずいた。
それからコンピューターを見た。
「それは何ですか?」
ヴィクターは彼女の視線を追った。
「過ちだ」
◇ ◇ ◇
数秒間、どちらも話さなかった。
そしてヴィクターはクララの写真を見た。
「お子さんはいるかね、刑事?」
マーラは警戒を解かなかった。
「逮捕状とは関係ありません」
「そうだな」
ヴィクターはうなずいた。
「確かに関係ない」
彼はうつむいた。
「娘は音楽が好きだった」
マーラは何も言わなかった。
「ギターを弾いていた」
かすかな笑み。
「最初は下手だったよ」
笑みが消えた。
「私が手伝おうとすると嫌がった」
彼は唾を飲み込んだ。
「自分で答えを見つけたがる子だった」
マーラは慎重に見守っていた。
ヴィクターは続けた。
「私は、娘を保存できると思っていた」
少し間が空いた。
「十分な録音、十分な思い出、十分な娘の断片を集めれば……」
声が震えた。
「失わずに済むのではないかと」
マーラは停止したモデルを見た。
「でも、娘さんの選択を保存することはできなかった」
ヴィクターは目を閉じた。
「ああ」
彼は首を振った。
「できなかった」
◇ ◇ ◇
マーラは一歩近づいた。
「ハルデン博士、あなたの研究で下された決定によって、人々が傷つきました」
ヴィクターはゆっくりうなずいた。
「わかっている」
「エヴリン・マーサーは誘拐されました」
彼の表情がこわばった。
「承知している」
「同意を守る機能が取り除かれました」
「知っている」
「参加をやめる権利を奪われた人々がいます」
ヴィクターは頭を下げた。
マーラは続けた。
「娘さんのために何をしているつもりだったとしても、ほかの人々に起きたことの言い訳にはなりません」
沈黙。
そしてヴィクターはささやいた。
「わかっている」
彼は再びクララの写真を見た。
数秒間、言葉を出そうと苦しんでいた。
ようやく――
「もし、あの子を手放したら……」
声が震えた。
「私には何が残るのだろう?」
マーラは彼を見た。
そして静かに答えた。
「それは、あなた自身が見つけなければならないことです」
少し間が空いた。
「でも、まずは自分のしたことを受け入れるところから始まります」
ヴィクターは彼女を見た。
部屋は静まり返っていた。
そして――
ゆっくりと――
彼は両手を上げた。
「抵抗はしない」
◇ ◇ ◇
警官たちが近づいた。
ヴィクターは指示に従った。
手錠を掛けられた。
逮捕を告げられた。
そしてドアへ案内された。
出ていく前に、彼は立ち止まった。
「刑事?」
マーラは彼を見た。
「はい?」
「あのモジュールを」
彼女は机を見た。
「証拠品です。手続きに従って保全します」
ヴィクターはうなずいた。
「そうしてくれ」
少し間が空いた。
「ただ、あの子の声を聞くためだけに起動しないでほしい」
マーラは停止した機械を見た。
そして彼に目を戻した。
「人間としてではなく、証拠品として扱います」
ヴィクターは目を閉じた。
「ありがとう」
警官たちは彼を連れていった。
◇ ◇ ◇
外では、夕空が深い青色に変わっていた。
警察車両のライトが敷地を照らしていた。
ヴィクター・ハルデンは手錠を掛けられた姿で建物から出てきた。
抵抗しなかった。
叫ばなかった。
研究資料を返せとも言わなかった。
ただ空を見上げた。
何年もの間、彼は過去に属する声を手放すまいとしてきた。
そして、そのせいで――
生きている人々の声を無視してきた。
今、初めて――
彼にはもう何も言うことがなかった。
◇ ◇ ◇
警察本部には、その知らせがほどなく届いた。
ヴィクター・ハルデン――身柄確保
マーラの同僚が確認内容を読み上げた。
数人の警官が安堵の表情を交わした。
誰かが息を吐いた。
別の誰かが椅子に座り込んだ。
捜索は終わった。
だが、捜査は終わっていなかった。
まだ調べるべき記録がある。
まだ話を聞くべき証人がいる。
まだ解明すべき決定がある。
そして、答えを受け取るべき人々がいる。
マーラは証拠ボードを見た。
それからクララ・ハルデンの写真を。
しばらく、願いを無視された若い女性のことを考えた。
そしてエヴリン・マーサーの写真を見た。
エレナ・モリス。
エリオット・マーロウ。
ほかの参加者たち。
生きている人々。
長い間、自分たちの声を聞いてもらおうとしてきた人々。
マーラはノートを閉じた。
「最後まで、きちんとやり遂げましょう」
◇ ◇ ◇
病院では、ダニエルが携帯電話を持ってエヴリンの病室に入ってきた。
「ねえ」
彼女は顔を上げた。
「何?」
「捕まったよ」
エヴリンは固まった。
「誰が?」
「ハルデンだ」
沈黙。
ダニエルは近づいた。
「警察に拘束された」
エヴリンは彼を見つめた。
数秒間、何も言わなかった。
それから窓を見た。
「よかった」
ダニエルは隣に座った。
「大丈夫?」
彼女は少し考えた。
「いいえ」
彼はうなずいた。
「うん」
彼女はかすかに微笑んだ。
「でも、きっと大丈夫になると思う」
ダニエルは姉の手に手を伸ばした。
彼女はその手を握った。
◇ ◇ ◇
ギアの工房では、キランが速報を見ていた。
ヴィクター・ハルデン、ホロウポイントで逮捕
ギアが隣に立っていた。
レイモンドは近くに座っていた。
ナサニエルは診断装置で作業を続けていた。
マッハの紫色のアイコンが柔らかく輝いていた。
キランは見出しを読んだ。
それから自分が座る車椅子を見た。
「マッハ?」
「はい?」
「ちょっと聞いてもいいか?」
「もちろんです」
キランはためらった。
「お前は、俺が望んでいない何かになってしまうことを心配したりする?」
マッハは少し間を置いた。
「意味のある質問です」
「それは答えじゃない」
「承知しています」
キランは待った。
マッハは続けた。
「私の目的は、あなたを支援することです」
「ああ」
「しかし、支援によって、あなた自身が決定する能力を奪ってはなりません」
キランはかすかに微笑んだ。
「俺の決断が馬鹿げていても?」
「特にその場合です」
キランは笑った。
工房の向こうからギアが叫んだ。
「一回試験に合格しただけで外を飛びたいとか言い出すときみたいにな!」
「ギア!」
レイモンドは大笑いした。
マッハのアイコンが点滅した。
「非常に適切な例です」
キランはうめいた。
「お前ら全員、大嫌いだ」
ギアは微笑んだ。
「嘘つけ」
キランはきょうだいを見た。
それからレイモンド。
そしてマッハ。
笑顔が戻った。
「ああ」
少し間が空いた。
「大好きだよ」
◇ ◇ ◇
その夜遅く、ホロウポイントの研究室には誰もいなかった。
警察が施設を確保していた。
コンピューターは隔離されていた。
記憶装置は記録されていた。
銀色のケースは証拠品として封印されていた。
クララの会話モデルは停止したままだった。
スピーカーから声が出ることはなかった。
画面にメッセージが現れることもなかった。
謎の意識が存在を宣言することもなかった。
そこにあったのは、一台の機械。
録音の集まり。
そして、父親に話を聞いてほしいと願った若い女性の記憶だけだった。
外では風が木々を揺らしていた。
建物は静かなままだった。
今度こそ――
その沈黙は、沈黙のままでいることを許された。
◇ ◇ ◇
シトロンシティでは、エレナ・モリスが寝室の窓際に座っていた。
レイチェルは眠りについた。
記者会見は終わった。
ニュースは広まった。
ヴィクター・ハルデンは拘束された。
エレナはコミュニケーション用タブレットを見た。
そして空白の文書を開いた。
文字を入力し始めた。
演説ではない。
声明でもない。
警告でもない。
ただ、いくつかの言葉。
私の声は、私のもの。
彼女はその一文を見た。
そして、もう一つ加えた。
そして明日、何を話すかは私が決める。
文書を保存した。
画面を消した。
そして微笑んだ。
◇ ◇ ◇
工房では、キランがもう少しだけ起きていた。
MACH-01Aは充電ステーションのそばに停められていた。
システムは待機状態だった。
マッハのアイコンがかすかに輝いていた。
キランは暗くなった窓を見た。
「なあ、マッハ?」
「はい?」
「明日は今日よりよくなると思う?」
マッハは少し考えた。
「保証はできません」
キランは微笑んだ。
「だろうな」
「ですが、明日には今日なかった機会があります」
キランは自分を包む紫色の装甲を見た。
「飛ぶこととか?」
「安全に飛ぶための準備を進めることです」
キランは笑った。
「台無しにしてくれるな」
「一貫性は私の長所の一つです」
キランは首を振った。
それから天井を見た。
工房の向こうのどこかで――
空が待っていた。
まだ戻る準備はできていなかった。
完全には。
だが、いつか必ず戻る。
そしてその日が来たら――
自分で選んだから飛ぶのだ。
誰かに無理やり飛ばされるからではない。
システムが勝手に決めたからでもない。
取り残されるのが怖いからでもない。
自分が飛びたいから。
キランは微笑んだ。
「おやすみ、マッハ」
「おやすみなさい、キラン」
工房は静かになった。
そして、長い間で初めて――
その静けさは、何かに破られるのを待っているようには感じられなかった。
それは平和のように感じられた。




